第35話

 そのときようやく、僕は自分自身がダウンしたことを認識した。

「ワン! トゥー! スリ――」

 何もらったのか、よくわかんないけど、鼻の左脇と首が痛いから、右のストレートだろう。

 かろうじて意識はあるけれど、さっきまで何度も訴えを無視された体は、僕の意思に従うことを拒否している。

 僕はマットの上をはいずらせるようにして、首を上げる。

 玲於奈……そんな心配そうな目で、祈るような仕草で僕を見ないでよ……。

 僕は誓ったんだ。

 どんなに無様で格好悪くても、絶対にあきらめない僕を見せたいって。

 君にそんな顔されちゃったら僕――

「おおお! 立ったぞ!」「マジで!?」「もろに決まってたぞ!?」

 立つしかなくなっちゃうんだから……。

「やれるかね?」

「はいっ!」

 見抜くなよ……ここ一番の空元気なんだから……。

 ここで止めたら……僕は一生あなたを恨むから……。

 僕の敵はあなたじゃない……。

 相手しか見てないんだから……。

「ボックス!」

「おおお!」「試合再開だって!?」「おいおいマジか?」「すげー根性じゃんあいつ!」

「ブレイク!」

 そんなに嫌そうにするなよ……。

 クリンチされるのが嫌ならパンチに付き合ってよ――

 カァン

 結局、またも僕はゴングに助けられた。

 すでに自分のものじゃないような両足は、何とか僕を青コーナーにたどり着かせてくれた。

「バカ野郎! ちったあ頭使えよ! あんなバカみたいに突っ込む奴があるか!? 」

「――んぐっ、んぐっ、んぐっ……ぷはあっ! はあっ、はあっ、はあっ……けど……後退しなかったし……頭もげてないけど……ダウンしても立ち上がったでしょ……」

「な……」

 何だよ石神さん……自分がそう言ったくせに、そんなあきれた顔で見なくたって……。

「あんたがバカだってことをしっかり認識できなかったあたしたちのミスってところね」

 ははは、相変わらずきっついなあ。けどね――

「僕にはね、玲於奈」

 そうだね、きっと僕には――

「君っていう“天使”がついていてくれるから」

 翼が授けてくた羽根があれば、僕はきっと何度でも立ち上がれる。

「は? ば、ば?」

 へえ、玲於奈ってそんな顔もできるんだ。

 その顔を見て、石神さんがにやりと笑う。

「ぎゃははは、お熱いこって。どうやら俺は“モレスタ”、お邪魔虫みたいだな」

 赤いほっぺたが、なんだか本当に天使みたいで――

「んぐっ!?」

 口の中に無理やりマウスピースがねじ込まれた。

「くだらないこといってないでいいのっ! 試合中でしょっ!?」

「セコンドアウト!」

「おら、ラストラウンドだ! お前の“アンヘル”にいいとこ見せてこいやぁ!」

「だからなんなのよ、さっきから!」

 カァン

 とにかく前に前にでる。

 もう一度、僕は体中を自分の意識の下につなぎ合わせる。

 とにかくガードは高く。

 大丈夫だ、苦しいけど、ボディーは捨てたっていいんだ。

 頭にもらって意識を失うことさえなければ。

とにかく頭を振れ。頭を振って、拳を高く上げるんだ――

「うらっ!」

 よしっ! 左フックがあたった!

「いいぞー! 定禅寺西の素人!」

 へっ?

「あいつ名前なんだっけ!?」「確か……佐藤玲って奴だぜ!」

――レーイッ――パンパンパパパン――レーイッ――パンパンパパパン――

 僕のことを……会場の人たちが応え――

「ぶっ!」

 危ない危ない! けど、うん! まだまだいける!

――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――

 向こうも応援に力が入り始めた。

 僕に打ち込まれる拳の威力は、段違いに強くなる。けど、僕にもこうして応援してくれる人たちがいる。

 その声が、僕に更なる力を与えてくれる。

「うらあっ!」

 右拳は、羽根が生えたように軽かった。


――


「はあっ、はっ、はっ」

 時間はとうに一分を越えている。

 時間的にも体力的にも、限界が見えてくる。

 すでに二ラウンドを取られてる僕には、ノックアウトしか残されていない。

 ノックアウトするには――

“せめて、あたしの想いをこめるわ。この右の拳に”

 僕は君の思いを乗せた右ストレートを叩き込んでみせる。

 君が君のお父さんから、拳聖さんから受け継いだ右のストレート。

“スウィート”には程遠いけど――

「ふっ、ふっふっ!」

 バカの一つ覚えみたいに、左でボディーを叩きま――

「ぷっ!」

 ……大丈夫、意識は飛んでない。あのコンビネーションで、この一撃が決まればそれでいいんだ。

 この一撃が決まれば、どうなったっていい。

 すべてを――

「うあああああああっ!」

 すべてを、この右ストレート一発に――

 ゴツッ

「ダウーンッ! ニュートラルコーナーへっ!」

「おいおいおい!」「カウンターで決めやがったぜ!」「しかも……ダウン取りやがった!」

「はっ、はっ、はっ、はっ」

 決まったよ玲於奈、拳聖さん。“スウィート”なんてとてもいえないような、僕の――

「“天使の右ストレート”だよ」

 お願いだ、立つな。

 立つな立つな立つな立つな。立たないでくれ。ああだめか、立ち上がった。

 お願いだ、止めてくれレフェリー。

 止めてくれ止めてくれ止めてく――

「ボックス!」

 だめかっ!

 けど、今ならまだ――

 カァンカァンカァン――

 相手に飛び掛った僕を押しとどめるような、無情のゴングが鳴り響いた。

 終わった、か。

 僕は拳を解き、青コーナーへと戻った。

「すげーじゃねーか玲。三ラウンド持っただけじゃなくてダウン一つ取り返すなんてよ」

「ごめん玲於奈……結局、右ストレートいい形で決めたのに、ノックアウト――」

「両者、中央へ!」

「さ、胸を張りなさい」

 バシン、僕の背中を玲於奈は張った。

「どんな結果が出ようと、今のあんたにはそれだけで勲章よ」

“ただいまの試合の結果――”

 レフェリーが、僕たちの手をとる。もはや、結果は聞くまでもないんだろうね。

“――興津高校、門田選手の勝利です”

 レフェリーは相手選手の手を高々と挙げた。完全に、終わった、か。

 すごく強かったですよ、門田選手。

 初めての相手があなたで、僕はすごく嬉しいです。

――レーイッ――パンパンパパパン――レーイッ――パンパンパパパン――

「いい勝負だったぞー!」「次は負けんなよー少年!」「次の試合、楽しみにしてるぞー!」

 石神さんは、僕のためにロープをこじ開けてくれた。

「へっ、すげえじゃねえか。見ろよ、これお前が試合で獲得したファンなんだぜ」

「い、いやそんな――あらっ?」

 あ、足が……言うこと――あっ……。

「痺れたよ、お前の右ストレート」

「そうね」

 拳聖さん……玲於奈も……君も肩を貸してくれるのか……。

「あ、ありがとう。重くない?」

「あんたみたいなもやし、何てことないわよ」

 ははは……相変わらずだな……。

 けど――

「ごめん……。結局、僕は勝てなかった……」

「いいの」

 玲於奈は、まっすぐ前を向いたまま言った。

「何万ミクロンよりもほんのちょっとだけ……あんたは“スウィート”だったわ」

「玲於奈……」

「確かに、まっさらな上白糖ってわけにはいかないが。荒削りでいろんなものが混じってる」

 拳聖さんは、ゆっくりと僕をいすの上に座らせてくれた。

「ちょっと“ビター”な“ブラウン・シュガー”ってところかな」

 “ブラウン・シュガー”、その言葉が、僕の中でなんだかくすぐったく響いた。