「分かった」
珍しく素直にうなずいた霊斬は、十二日ぶりに、店に戻った。
部屋の隅には少し埃が溜まっていた。
「疲れた」
念のため、刀を杖代わりにして、いつもよりゆっくりと歩いてきたのだが、それが霊斬の本音だった。
ゆっくりと着替えをすませると、二階に上がり、そのまま布団に倒れ込んだ。
翌日、身体に気を使いながら、ゆっくり身を起こすと、一階へ降りた。
壁に寄りかかって座り、ぼんやりと考え事をしていた。
精神的に人間を壊すというのは、殺すよりも
「あんなふうには、なりたくないな」
霊斬はぼそっと言った。
――依頼人のためというのは聞こえがいい。しかし、この擦り切れそうになる感覚はなんだ? 今さら、心が痛んでいるのか? だが、この感覚、いつもあったように思う。
霊斬は難しい顔をして、考えた。
それから数日後、まだ傷の癒えない霊斬の許に、依頼人が訪れた。
「それで恒伊助はどうなりましたか?」
奥の部屋へ通すなり、依頼人が口を開いた。
「精神的に壊しておきました」
霊斬は硬い声で告げた。
「怪我をしたのですか?」
着物の間から覗く晒し木綿を見た依頼人が、そう問うた。
「ええ、まあ。いつものことですから、ご心配なく」
「では、お礼を」
依頼人はそう言って、小判十五両を差し出した。
「ありがとうございます」
霊斬はそう言い、袖に小判を仕舞った。
「またなにかありましたら、お越しください」
霊斬は深々と頭を下げた。
翌日、休業している霊斬の許を、千砂が訪れた。
「邪魔するよ」
「今日はどうした?」
「様子を見にきたんだよ」
霊斬は苦笑した。
「大人しく休業しているからいいだろう?」
「まあね。依頼はきていないかい?」
「ああ」
霊斬はうなずく。
「なら、良かった」
千砂は胸を撫で下ろし、尋ねた。
「怪我の方はどうだい?」
「だいぶ良くなった。熱も引いた」
「そりゃあ、良かった。無茶するんじゃないよ」
「分かっている」
霊斬は彼女の忠告に、苦笑して答えた。
「そうかい、あたしはこれで」
「またな」
霊斬は軽く右手を振った。
それから七日後の午後。まだ日は高い。普段通りの恰好をした霊斬はのんびりと四柳の診療所へ向かった。
戸を叩くと四柳が顔を出した。
「きたか、入れ」
四柳はそう言い、霊斬を招き入れた。
「診せろ」
霊斬は奥の部屋の布団に座り、上着を脱ぐ。続いて膝まで着物の裾をまくると、横になった。
四柳は右腕の晒し木綿から取り始めた。布を取ると、痛々しい傷跡が残っているものの、かさぶたになっている。血はすっかり止まっていた。次に左腕。右腕と同じように傷跡を残すのみとなっていた。続いて左肩。こちらはまだ血が止まっていなかった。だが、手当てを受けた当初より、出血はゆっくりだった。四柳はあらかじめ混ぜておいた薬草を新しい布に塗って、傷口の上に置いた。
次に右肩。左肩と同じような状態だった。こちらにも左肩と同じ処置を施した。
「ずいぶんと良くなったが、こっちはどうだろうな?」
四柳が言いながら、胸に手を伸ばす。いったん、胸から腹にかけての晒し木綿を外し、胸に当てた布をゆっくりと外しにかかった。まだ出血は止まっておらず、布を剥がした途端、鮮血が傷口を覆った。だが、以前より、出血の量は少なかった。
腹も見てみると傷が塞がっているところと、そうでないところがまばらになっていた。
胸と腹に薬草を塗った布を広げ、上から押さえながら、手早く晒し木綿を巻いていく。
両肩にも晒し木綿を巻いて固定する。
「熱は引いたか?」
「ああ」
「そうか」
四柳はうなずくと、脚の傷に視線を向けた。
それぞれ晒し木綿と布を外し、右脚から状態を確認した。
傷口の周りは大丈夫そうだが、刺されたと思われる部分は出血が止まっていなかった。
――まだ治るまでに時間がかかるな。
四柳は内心で思いながら、左脚に移った。
こちらは右脚よりも酷く、血が傷口から垂れていた。
四柳は慌てて、薬草を塗った布を当てて押さえ、きつく晒し木綿を巻いた。
「終わったぞ」
四柳が言うと、霊斬が身を起こした。
「状態は?」
「胸と左脚がまだ、血が出ている。最初のころに比べれば、量は少ない。あとは塞がっていたり、血が出ていたりとまちまちだ」
霊斬は話を聞きながら、上着を羽織る。脚をまくっていた着物の裾を下ろすと、布団の上に胡坐をかいた。
「仕事はやれそうか?」「まだ駄目だ」
霊斬の問いに四柳はすぐさま答えた。
「酒は?」
「大丈夫だろうな」
「分かった」
霊斬はうなずくと、診療所を去った。
霊斬は店に戻ると、久しぶりに徳利と盃を持ってきて、酒を呑み始めた。
盃を手に、霊斬は考える。
千砂に哀しそうな辛そうな顔をしていたと言われたこと。自分の心に燻っている擦り切れそうな感覚。
初めて感じるものではないと予想はしていた。ならば、ずっと感じていたものだとして、なぜ、今さらになって強烈に感じるようになったのか? 恒が狂う姿を見たからかもしれない。あれはとても恐ろしかった。あえてそうさせていたことに罪悪感はあった。だが、依頼人が望んでいたからこそ、できたことでもあった。もし、依頼人のためという理由がなかったら、あんな真似はできなかっただろう。
霊斬はそこまで考えて、戸を叩く音で我に返った。
「開いているぞ」
霊斬が応じると、千砂が入ってきた。
「どうした?」
霊斬が尋ねると、千砂が苦笑して答えた。
「気になってね。まだ日は高いのに、もう呑んでいるのかい」
「四柳のところには顔を出してきたからな。そんなことより、今回の依頼、お前はどう思った?」
霊斬は話題を切り替えた。
千砂は霊斬の近くまできていたので、草履を脱ぎ、床に正座をした。
「恒伊助の豹変がとても怖かったね。あんなふうになるのを見るのはもう嫌だよ。霊斬、あんたは恒がああなるのを見越して、刀を捨てたのかい?」
千砂が真面目な表情をして聞いた。
「勘でしかなかったがな。恒は俺のことをよく知っていた。一筋縄ではいかないから、俺に脅しをかけてきたとも思った」
「そうかい」
千砂がうなずく。
「俺はもう、誰かにむやみやたらと傷つけられるような真似はしない」
霊斬は千砂に視線を向けて、きっぱりと言った。
「それはなぜ?」
千砂が尋ねる。
「ひとつは、危険でしかないということ。もうひとつは、俺の中である変化があった」
「変化?」
千砂が首をかしげる。
霊斬は遠い目をして言った。
「心か擦り切れるような感覚が、増した。ずっと狂っている恒を見ているのが、辛かったのだと思う。依頼人のためとはいえ、度を越しているのではないかとすら思った」
千砂はそんな霊斬を見ながら言った。
「度を越しているのは今に始まったことじゃないだろう? 依頼人だって、ある意味じゃ、狂ってる」
「そうかもしれないな」
霊斬はうなずいた。
「だから、度を越しているなんて思わなくてもいいんじゃないかい? そういうものだと割り切るしかないように思うけれど?」
霊斬の口許に苦笑が浮かぶ。
「そうだな」
「無理するんじゃないよ」
「ああ」
霊斬がうなずくのを見た千砂は、店を後にした。