ちょうどそば屋へ出かける準備をしていたところに、戸を叩く音がする。
手を止めた霊斬は、
「開いておりますよ」
と声をかける。
「失礼する」
入ってきたのは名のある家の武士だった。
武家に疎い霊斬でも、その男の家紋を見れば分かった。
「こちらに」
霊斬は入ってきた武士に、すぐさま手で奥を示した。
武士は無言のまま、奥へいき、床に胡坐をかいた。
霊斬も武士の正面に正座をすると、口を開いた。
「どのような御用件でしょうか?」
「因縁引受人霊斬、という者を捜している。そなたが、そうか?」
「……はい」
霊斬は武士を正面から見つめ、うなずいた。
「
依頼人は太刀を差し出しながら言った。
「なぜですか?」
霊斬が尋ねる。
「仁科家はなにを考えているか分からぬが、我が家との主従関係を切ると言い出しておるのだ。家がこれ以上没落するのは目に見えておるというのに」
「そうでございましたか。なにを言っても聞かぬから、仕方なくここへ?」
「そうでござる」
霊斬は太刀を受け取り、状態を確認する。
「分かりました。ですが、その前にひとつ確かめたいことが」
「申せ」
「人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」
「後悔などしない」
依頼人はきっぱりとした口調で言い放った。
「分かりました。では、七日後、またお越しください」
霊斬はそう言って頭を下げた。
その後、そば屋へいくのを後回しにした霊斬は刀部屋に入り、預かった太刀に視線を落とした。
切れ味が少し落ちているだけだった。
太刀を丁寧に扱っているのが伝わってきた。
霊斬は目の細かい砥石を取り出して、丁寧に研ぎ始めた。
それからだいぶ経った後、太刀の修理を終わらせた霊斬は、隠れ家に足を運んだ。
「いるか?」
「はいよ」
千砂は応じると、霊斬を招き入れた。
「仁科家について調べてほしい」
「一日ですませるよ」
千砂の打てば響くような答えに安心する霊斬。
「あと、別件を頼みたい」
霊斬がそう言うと、千砂が訝しげな顔をする。
「別件?」
霊斬は今回の依頼人について話した。
「それも仁科家が片づき次第、調べておくよ」
「助かる」
霊斬は言うと隠れ家を後にした。
その日の夜、千砂は忍び装束を身に纏い、仁科家へ侵入した。さほど有名ではないのだろう、規模は今まで見てきた屋敷の中で一番小さかった。
千砂が屋根裏を駆けまわっていると真下から声が聞こえてきた。
「なにを企んでいるのか分からん。少なくとも用心だけはしておかねば」
「はっ! しかし旦那様、本当によろしいのですか?」
「あんなに腐敗している武家に仕えている方が、
――腐敗? どういうことだ?
千砂は耳を澄ませる。
「わしは賄賂などに手は貸さん!」
「それはご立派なことですが、我らを相手にしてくれるような武家など、どこにもありませんぞ?」
「我らだけでなんとかすればよい」
「はぁ……」
――その根拠のない自信はどこからくるのだろう?
千砂は話を聞きながら思った。
――壊していい武家じゃないのは確かだねぇ。さて、霊斬はどうするのだろう?
千砂は思いながら仁科家を後にした。
翌日の夕方、霊斬が隠れ家を訪れた。
「どうだった?」
霊斬が開口一番に聞いた。
「どうやら、賄賂に手を染めている武家から、主従関係を切ろうとしている」
「話が違う。もしかして、口封じか?」
霊斬が言いながら考える。
「その線が濃いかもねぇ。それで、どうするんだい?」
千砂は呑気に言いながら霊斬に問いかける。
「……依頼人を
「できるのかい? 今までずっと依頼人のためになんだってやってきたあんたが、そんな真似」
霊斬はひとつ息を吐く。
「やるしかあるまい。幸い顔には出ないから誤魔化せるだろう。ばれても大したことにはならんはずだ」
霊斬は苦笑した。
それから七日が経った決行当日。依頼人が姿を見せた。
「して、どうであった?」
霊斬は直した刀を差し出しながら言った。
「主従関係を切ろうとしているのは、確かなようです」
「どうか、壊してくれ」
依頼人は言いながら、小判十両を差し出した。
「かしこまりました」
霊斬は小判十両を袖に仕舞うと、頭を下げた。
その日の夜、黒装束に身を包んだ霊斬は、仁科家へと走った。
その後を千砂も追う。
霊斬は裏口から屋敷に侵入し、中庭までいくと声を張った。
「仁科幾!」
「こんな夜更けになんのご用で?」
霊斬のことは知らないのか、そう尋ねる幾。
不審者を発見したと思った仁科の息子が兵を数人呼び、霊斬に五人の男達が槍を向ける。
それに一切動じることなく、霊斬は語った。
「今から江戸を離れろ」
「なぜですか?」
幾が首をかしげる。
「俺はある武家から、この家を壊すよう依頼されたが、調べによると、そんなことをするべきではないという結論に至った。だから、お前らを逃がす。主の家から追手がくるのは嫌だろう?」
「分かりました。……皆、持てる荷物だけまとめるのだ!」
「父上! どこの馬とも知れぬ男のことを信じるのですか!」
息子が反論する。
「わしは皆と穏やかに暮らしたいだけじゃ。武士でいなくとも、わしは構わん」
「ちっ……」
息子はそれ以上言わず、引き下がった。
「ただ、見逃すわけではない。ここにも俺がきたという
「証ですと?」
幾が首をかしげた。
「ちょうどいい、そこのお前」
霊斬は槍を構える男達の中から、右から三番目の男を指定した。
「な、なんだ!」
霊斬は視線を外さないまま、刀の柄に手をかけた。
次の瞬間、男の左足に赤い筋が刻まれた。そこから噴水のように鮮血が溢れ出す。
霊斬は刀をおさめる。かちんという音が響いた。
たまげたと言わんばかりに男は、その場に転んだ。
霊斬は瞬時に刀を抜き、男の脚を斬りつけたのだ。
刀を仕舞うのも一瞬だったので、視認できた者はいない。
「これが、俺のきた痕跡だ」
「なんと……!」
幾の驚いた声が聞こえてくる。
「誰も血を流さずに逃がす、とは言っていない」
霊斬は冷ややかな声で言った。
「これで、生きられるのだな!」
「それはこいつが、貴様らを裏切らないかどうかだ」
幾の発言に霊斬が待ったをかけた。
「僕は、自身番の連中になにを言えばいい?」
「〝因縁引受人が家を壊していった〟 それだけだ」
霊斬はそう短く告げた。
「追手から逃れられるかどうかは貴様ら次第。俺にできるのはここまでだ」
霊斬が言うと、遠くからピーっと笛の音が聞こえてくる。
「さぁ、早くいけ」
霊斬の言葉にうなずいた幾らは、屋敷を去った。
霊斬も姿を消した。
依頼を完遂した帰り道、千砂に声をかけられた。
「犠牲は、あれだけでよかったのかい?」
「ああ、あれくらいがちょうどいい」
霊斬が言い放った。
「そうかい」
千砂はうなずきながら、霊斬が無傷であることに安堵していた。
その翌日、依頼人が霊斬の店を訪れた。
「実によい手際だ。瓦版にもそう書いてあった」
「そうでございましたか」
霊斬は愛想笑いを浮かべて答える。
「報酬だ」
依頼人は言いながら、小判十両を差し出してきた。
「またのお越しをお待ちしております」
霊斬は小判を袖に仕舞うと、頭を下げた。