そのころ、霊斬はというと。
人がほとんど入らない時刻に湯屋へいき、汗を流すと、そそくさと帰ってきた。
濡れた髪をそのままに、徳利と盃を引っ張り出す。
怪我をしていたのと、気が向かなかったので、酒を呑むのは久しぶりだった。
とくとくと盃に酒を注ぎ、ぐいっと煽る。
はーっと息が漏れた。
――そう言えば、そろそろ祭りの時期か。
格子窓から見える月を見ながら、そんなことを思った。
――たまには店を閉めて、覗きにいくのも、悪くないかもしれん。
ふっと頭に浮かんだことに苦笑しながら、酒を呑んだ。
それから三日後の夜、忍び装束を身に纏った千砂は、江戸で一番大きい呉服問屋に向かった。
屋根から、天井裏に侵入すると、
「なにをしている! 早くせんか!」
この店の主だろうか、怒鳴り声が響く。
「は、はい!」
三十代くらいの男が
お客の近くに反物を運んだ男は、大慌てで店の裏へと向かう。
後をつけていくと、同い年の女が待っていた。
男は問答無用で、女の頬を張ると、
「お前はいい奴だ。黙って殴られてくれるからな」
と罵り、店に戻った。
女は頬を叩かれても動じず、溜息ひとつ零して、店を去った。
――殴られることに慣れているのかもしれない。
千砂はそう思った。
それからしばらくして、店仕舞いを終えた男は出かけるとだけ言い置いて、店を出た。
男が向かったのはある小料理屋の裏、戸を叩くと先ほどの女が出てくる。無言で中に入っていくのを見送り、千砂も屋根裏から様子を窺う。二階の部屋に二人は無言で入る。
二人きりになるや、男が手を上げた。
腹を蹴られ、くの字に身体を曲げる女。顔を避けるように、全身を殴りつけていく。
壁に女の身体が何度もぶつかり、物音を聞きつけた誰かの声が聞こえてきた。
「大丈夫かい?」
「はい、なんでもありません」
殴る手を止めて言っている隙に逃げようとしたが、髪をつかまれて、引き摺り戻される。
理由は分からない。一方的な暴力はかなり長く続いた。
その光景を目の当たりにした千砂は、胸を痛めて、小料理屋を去った。
念のため、翌日も小料理屋に忍び込むと、昨日と同じ光景が広がっていた。
――毎晩、暴力を振るっているのか。
推測ではあるものの、そう判断し、霊斬の店へ向かった。
戸を叩くと、不機嫌そうな顔の霊斬と目が合った。
「さっさと入れ」
冷ややかな声で告げると、千砂は素早く戸の間に身体を滑り込ませ、静かに戸を閉めた。
奥の方には空の盃と、酒の入った徳利が置かれている。
ちょうど、酒を呑むところだったらしい。
「邪魔して悪かったね」
「まあ、いい。……どうだった?」
霊斬は尋ね、お茶の用意をして、床に湯飲みを置く。
目しか見えていない頭巾を外した千砂は、どうも、と言いながら、正座をして話し始めた。
「徳助は毎晩、依頼人に暴力を振るっている。顔以外をね」
「どうしようもない奴だな。暴力を振るう理由については?」
「分からない」
「そうか」
霊斬は酒を盃に注いで、ぐいっと煽った。
「小料理屋の場所は?」
「この先の角を曲がってすぐだよ」
千砂も湯飲みに口をつけ、お茶を飲んだ。
「これは、あたしの推測だけれど」
と前置きをしてから、千砂が喋り出した。
「怒りの矛先を彼女に向けることで、己を保っているんじゃないかね?」
「そうかもしれんな。他に考えられるとしたら、責任転嫁か」
千砂はお茶を飲みながら、うなずく。
「決行日まで、まだ時がある。武器も持たない者を傷つけなければならんとは、気が重い。だが、このままにはしておけん」
霊斬は溜息を吐く。
「ごちそうさま」
千砂はうなずくと、足早に店を後にした。
千砂が店を去った後、酒の入った盃を
――素手でもできるが、それだと、すぐに忘れ去られる可能性がある。やはり、刃物を持っていくべきか。
内心でとても物騒なことを考えている霊斬だったが、酒を煽って、溜息を零した。
翌日の夜、霊斬は千砂に聞いた小料理屋に向かった。
「この店の娘に用があるんだが、いるかい?」
まだ賑わっている店の中で、霊斬は声を張った。
「いますよ~、ちょっと待ってて」
この店のおかみがそう言うと、二階へ上がっていった。
しばらくすると、依頼人が顔を出す。
「なんの御用でしょうか?」
彼女を連れ、霊斬は店を去った。
霊斬の店の裏側で二人は話していた。
「あれから、徳助はどうだ?」
「もう慣れましたけれど、暴力が酷いです」
依頼人はそう言って、腕をまくって見せた。腕は痣だらけになっており、直視するのも
「明日にはなんとかする。夜になったら、徳助を連れ出してくれ、ここに。後のことは気にするな、その足で医者にでもいくといい」
「……分かりました」
短い話を終わらせると、霊斬はその場を去った。
その足で隠れ家に向かった霊斬は、戸を叩く。
「なんだい?」
家の中に入るや、霊斬は立ったまま言った。
「決行は明日の夜。場所は俺の店の裏だ」
「いいのかい? 変に疑われるかもしれないよ?」
千砂の心配は最もだが、それくらいどうとでも誤魔化せる。
「気にするな」
「……分かったよ。屋根の上から見させてもらう」
霊斬はうなずくと隠れ家を後にした。