それから一月後、一人の客が霊斬の店を訪れた。
「いらっしゃいませ」
霊斬が出迎えると、一人の女と目が合った。
見た目は霊斬より少し上の三十ほどか。
女は黙ったまま、会釈する。
「こちらへどうぞ」
霊斬が手で奥を指し示すと、女は後をついてきた。
「して、私になんの御用ですか?」
「〝因縁引受人〟という御方をご存じありませんか? その御方と会えなければ、
「……分かりました。私が因縁引受人、またの名を霊斬と申します。本日はどのようなご依頼でしょうか?」
霊斬は溜息を吐いてから言葉を続けた。
「本当に、あなたがそうなのですか? なにか証はありませんか」
「証?」
霊斬は名乗ったのにもかかわらず、怪しむ女を
――ここまで怪しむ客は初めてだな。
霊斬は内心でそう思いながら手短に告げた。
「少々、お待ちください」
霊斬は席を立つと、女から離れて盛大な溜息を零す。
――証として見せられるもの……か。
隠し棚に仕舞っている黒装束一式と、黒刀を取り出して思案する。
霊斬は黒装束を元ある場所へ仕舞い、黒刀を携えて、女を待たせている場所まで戻った。
「これが証にございます」
霊斬は女の前に正座をして、刀を目の前まで持ち上げる。静かに鞘を抜き、黒い刀身を見せた。
「……分かりました。
――そんなもの、別れればいい。それだけの話ではないか。
霊斬は内心で溜息を吐いた。
女の手に視線を落とすと、痣がいくつかあるのを見つける。
顔こそ傷ついていないものの、身体はぼろぼろかもしれない。
――早急に解決せねばならん……問題ではあるか。
霊斬は沈黙ののちにそう判断し、声をかけた。
「その御方の名を教えていただけますか?」
「
名を告げた後、女は懐から財布を取り出し、銭五枚を差し出した。
「これだけで頼むのは、とても、恐縮ですが……」
「いえ、構いません。それよりも確認したいことがございます」
霊斬は銭を受け取り、袖に仕舞うと、女に視線を向けた。
「確認……ですか」
「はい。人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」
「後悔は、しません」
「では、七日後にまたお越しください」
霊斬は告げると頭を下げた。
霊斬は女が帰った後、千砂がいると思われる隠れ家に足を向けた。
もう日が傾き始めており、西日を背に受けながら歩く。
すれ違う者の中には知り合いもおり、霊斬はときどき会釈をしながら、歩いていった。
隠れ家に着き、霊斬は閉まっている戸を叩く。
「はいよ、あんたかい」
千砂はそれだけ言うと、戸をさらに開け、身を引いた。
「忙しいところ、悪いな」
霊斬が言いながら、隠れ家に足を踏み入れ、戸を閉める。
「あんたにそんなこと言われると、なんだか気持ち悪い」
千砂は苦笑した。
「……そうかよ」
霊斬は溜息を吐いた。
「それで? 今回は?」
奥へ進み、床に正座をした千砂は、尋ねた。
「分かっていたのか」
「あんたが依頼以外で、ここにきたことあるかい?」
千砂が苦笑する。
「ないな。今回は呉服問屋の男、徳助。依頼人は小料理屋の娘」
「武家じゃないのかい。珍しいね」
千砂が目を丸くする。
「そうだな、どれくらいかかる?」
その言葉を流した霊斬は、そう尋ねた。
「二日」
「分かった。……それと、役に立つかどうか分からんが、江戸で一番大きな呉服問屋だそうだ」
霊斬はそういえば、というくらいの軽い気持ちで付け足した。
「なら、一日ですむよ。なんでもっと早く言わないんだい?」
千砂は溜息を吐いた。
「その情報がそんなに大事か?」
心外なという顔をする霊斬。
「そうだよ、あたしに江戸中の呉服問屋を回れって言ってんだから。その手間が省けただけでも、だいぶ楽だよ」
「そうか。あとは任せる」
霊斬はうなずくと、隠れ家を後にした。
千砂は隠れ家を出て、湯屋に向かった。
「おや、千砂ちゃん。ごゆっくり」
湯屋のおかみが声をかけてきた。
「ありがとうございます」
千砂は礼を言いながら女湯へ。ここは今の時代珍しく混浴ではない。
この時間は誰もおらず、貸し切り状態だった。
身体を手早く洗い、大きな湯船に、肩まで浸かると、溜息が零れる。
――幻鷲霊斬。その身に〝痛み〟のすべてを引き受けた男。彼の送ってきた人生は壮絶なものだ。昔話をするように彼は淡々と語って見せたが、よほどの苦痛や困難があったことだろう。やはり、あの男はとても哀しい。それでも、生きる執着は人一倍強い。ずっと近くで見てきたから、分かるのだ。哀しいくせに、誰よりも優しくて、強い。孤高と言ってもいいくらいだ。
「……少しくらい、頼ればいいのに」
思わず不満が零れた。
――せめて、四柳さんや、あたしに。
千砂は内心で言葉を続ける。
――あんなに傷だらけになっても、一人で抱え込もうとする。本当にある種の馬鹿とも言える。平気な顔をして痛みに堪えているのだから、そこは不思議としか言いようがない。
湯に浸かり、思う存分伸びをすると、千砂は湯船から上がり、脱衣所へ向かった。
手早く着替えると、物音がして別の女が入ってくる。
ちらりと一瞥した後、湯屋を去った。
隠れ家へ着いた千砂は濡れた髪を押さえながら、思案する。
――霊斬のことばかり考えているなぁ。
そのことに気づき、彼女は苦笑する。
――あの男は今、なにを思っているのだろう?
水を飲みながら、千砂はそんなことを思っていた。