そのころ、忍び装束姿の千砂は自身番に忍び込んでいた。
屋根裏の板をずらし、様子を見ていると、部屋の中に一人の老年の男が入ってくる。
千砂は静かに
「自身番の中で、一番偉いのは、あんたかい?」
「そ、そうだが?」
首を動かすのは怖いと思ったのだろう、男は声で応じた。
「今夜、古野得太郎の家を見張りな」
「なぜ?」
「見張っていれば分かるさ。信じないと……あんたの命はないからね?」
千砂は頭巾の下で残虐な笑みを浮かべながら、苦無に力を込める。と、皮膚が斬れ、一筋の血が滲む。
「わ、分かった。そうしよう」
千砂はその答えに満足したのか、苦無を仕舞って、その場から去った。
同日の夜、黒の長着に同色の馬乗り袴、黒の足袋、同色の羽織を身に着ける。隠し棚から黒刀を取り出して腰に帯びる。黒の布を首に巻いて、顎から鼻まで引き上げる。草履を履いた霊斬は、引き戸を開けた。
外は雨が降っている。夜の街を駆け、古野家へ向かった。
途中で千砂に会わないまま、霊斬は屋敷に辿り着いた。
近くの屋根に上って様子を見る。
武装した男達が二人、歩いている。
「曲者!」
出会い頭に敵に出くわした二人は、刀を抜き戦闘態勢に入る。
――もうきていたのか。
霊斬は思いながら、視線を走らせる。
屋敷の門近くに、でんと構えているのは久五郎であった。その隣には伊之介も控えている。彼らも含め、総勢十人。これだけ広い屋敷だ、それぐらいは必要だろう。精鋭を揃えてきたはずだ。
「かかれ~!」
久五郎の声が聞こえてくる。
一方、忍び装束を纏った千砂は一足先に屋敷の屋根裏に忍び込んでいた。古野家の面々はというと、突然の襲撃に驚きながらも必要最小限の武装をし、奮戦していた。
その様子を彼女は見守る。
霊斬はまだ屋根の上にいた。
屋敷の者達も次々に出てきては、戦闘に加わっていく。その中には得太郎もいた。多くの敵を
その様子を忌々しげに眺めているのは久五郎だ。
――得太郎と久五郎をぶつけさせるのもいいが、ああしてふんぞり返っている奴を見るのはもうごめんだ。
霊斬はそう思うと、屋根から飛び降り、久五郎の死角から襲い掛かった。走りながら鯉口を切り、刀を振りかざした。
久五郎まであと一歩というところで、別の者の妨害を受けた。
刀同士がぶつかり合う音が響く。
「よく分かったな」
霊斬は忌々しげに舌打ちをし、低い声で言った。
黒刀を受け止めたのは伊之介だった。
「ただの勘でござる」
互いに力を込めているので、刀同士がかたかたと音を立てる。
「そうか。そいつは、貴様が命を懸けてでも守らなければならないのか?」
「答える必要はない」
伊之介はそう言って、刀を弾き返してきた。
「面白い」
霊斬は布の下で、口端を吊り上げて嗤う。
「伊之介、頼むぞ!」
突然の襲撃に腰を抜かした久五郎はそれだけ告げると、そそくさと他の者を呼びつけ、周囲を守らせた。
――そんなことをしたところで無駄だろうに。
霊斬は内心で嗤いながら、伊之介に向き直った。
風が吹いた瞬間、両者は同時に駆け出した。
最初の攻撃を仕掛けたのは、霊斬だった。
先ほどとは比べ物にならないくらい、重い一撃を喰らった伊之介は刀を落とされてしまう。
瞬時に小太刀を抜いて、霊斬の攻撃を防ぐ。
その機転に驚かされながらも、霊斬が攻撃を続ける。途中で刀を拾い、二刀で防ぐ伊之介。
霊斬は次々に繰り出される二刀での攻撃にわずかな隙を見出した。その隙に合わせて、攻撃のころあいを調節する。十手以上、互いに血も流さぬ攻防を繰り広げながら、ついに霊斬が待った瞬間が訪れた。
繰り出された二刀の間を縫い、霊斬は伊之介の右肩を刺し貫いた。
「ぐあっ!」
伊之介がよろよろと後ずさる。霊斬は痛がる彼を気にもせず、無造作に刀を抜いた。
一気に花が咲いたように傷口から鮮血が噴き出し、伊之介の着物を、地面を、染め上げる。
「貴様にはずいぶん時間を取られた。ここまでにしてやろう」
霊斬は冷ややかな声で告げた。
「ま、待てっ!」
伊之介の叫びを無視すると、霊斬は歩き出した。
身を守ろうと必死になっている久五郎の許へ。周囲を守っていた五人の刀が、霊斬に向けられる。
「伊之介はどうしたのじゃ!?」
霊斬を見るなり、半狂乱になった久五郎が叫んだ。
「俺に負けた」
霊斬は言いながら、黒刀についた鮮血を見せつける。
「なっ……!」
久五郎は顔を青くする。
「次は貴様だと言いたいところだが、まずは邪魔な連中を片づけなければな」
霊斬が言うと同時に、黒刀を持ち直して駆け出した。
まず一人目の左肩を裂き、続いて二人目の右脚を刺し貫く。抜いた刀を返して下から斬り上げ、三人目の右肩を斬る。続いて突っ込んできた四人目の刃を、あえて左腕で受ける。勢いが強かったのだろう、切っ先は左腕を貫通する。痛みに顔をしかめながらも、霊斬は黒刀から手を離す。男の怯えた表情を見ながら、柄に手をかけ、強引に刀を抜いた。刃が肉を断つ嫌な音と水が零れるように、鮮血が溢れ出した。それは腕を伝い、掌までいくと、ぽたぽたと地面に滴り落ちる。手にしていた刀を捨てて、黒刀をつかんだ。
「やあっ!」
最後の一人が、声を出して刀を向けて突っ込んできた。手負いだからと舐められているような気もした。