霊斬が静かな声で告げると、千砂は驚いた顔をした。
「よく依頼を受けたね。てっきり断るのかと思ったよ」
霊斬は苦笑する。
「正体がばれる危険を冒しても、俺は見て見ぬふりはしたくない。それに岡っ引きには、釘を刺しておいた」
「そうかい。じゃ、一日おくれよ。必要なものはすべて、用意するからさ」
千砂は苦笑して言うと、霊斬が立ち上がった。
「頼んだ」
霊斬はそれだけ告げると、隠れ家を後にした。
千砂はその日の夜、まずは自身番に足を運び、美里伊之介を捜したが、いなかった。武家屋敷の中心部付近に美里の表札を見つけると、音もなく屋敷内に忍び込む。そのまま、屋根裏まで忍び込むと、やたらとうるさい場所に向かう。
「あやつの屈辱に満ちた顔、お主らにも見せてやりたかったわ!」
老年の男の一言で、下卑た笑いが飛び交う。
「そうですねぇ、
「お主は真面目な男よのう。こんな笑い話にものらんとは」
「笑えぬだけにございます」
その男は冷ややかな声で答えた。
「次はどんな嫌がらせをしてやろうかのう? あやつの家族を襲うかの~?」
「良いではありませんか! 我らもお力添えいたしまする!」
と別の武士が言い、場が盛り上がる。
「では、六日後のこの時間、あやつの屋敷を襲うことにする! 皆、準備はきちっとするように~!」
酔った勢いでそんなことを決めてしまった久五郎に、千砂は呆れた。
「伊之介、もっと呑まんか!」
久五郎が上機嫌に言う。
「いえ、私はこの辺で失礼」
呼ばれた男――伊之介はその場を辞した。
伊之介を追う千砂は、彼の自室に辿り着いた。
「……いつまで私の派閥の中で、ああして、騒いでいるのだろうか」
――もううんざりだ。
伊之介は溜息を吐いた。
「気に入らん奴がいる。それだけの理由で、ここまで衝突していては、いっこうに自身番をまとめられないではないか」
伊之介は再び溜息を吐く。
千砂は考える。
――伊之介はただ表立っているだけで、久五郎が偉ぶってる?
その疑念を晴らそうと、千砂は先ほどの部屋へと戻る。
天井の板を外し、様子を窺うと、ある男の
主に愚痴を言っているのは久五郎だけで、他の者はそれに同意している。
――伊之介の笠に入って、
千砂は天井の板を元に戻すと、霊斬の店へ向かった。
月が一番高く昇るころ、千砂は忍び装束姿のまま、霊斬の店の戸を叩いた。
「……開いているぞ」
一呼吸遅い応答に苦笑しながらも、千砂は静かに戸を開け身体を滑り込ませた。
理路整然と並べられた商品の間を抜け、開けた場所、依頼人と話をするところまでいくと、ゆっくりと身体を起こす霊斬の姿があった。
床にはおそらく空の徳利が三つ。それと盃がひとつ、無造作に転がっている。
ずいぶん呑んでいるというのに、霊斬の顔はいつもと変わらなかった。
――どういうこと?
千砂は内心で突っ込みを入れる。
「……こんな時刻に、どうした?」
千砂は本題を告げることにした。話をしている間に寝られてしまっては困る。
「美里家にいってきたんだけれど、伊之介は自身番を一枚岩にできないかと考えている。それから黒幕は別にいる。久五郎という男。伊之介が表立っていることをいいことに、好き勝手やっているらしい。それから六日後に、依頼人の主の家を襲うと酔った勢いで決めていた」
「酒は呑んでも呑まれるなとは、よく言ったものだな。決行日と同じか。そんな奴らさっさと自身番に突き出してやろう」
霊斬は話しているうちにいつもの調子を取り戻したらしく、鼻で嗤った。
「で、どうするんだい?」
千砂が先を促す。
「そうさな……。千砂はこの報せを自身番に流せ。武家同士の
「分かった。あんたはどうするんだい?」
「俺か? その間に、久五郎を叩く。灸をすえてやるのさ」
霊斬はそう言って、口端を吊り上げて嗤った。
――怖い笑みだ。
「分かった」
千砂は内心で心底そう思いながら、うなずいた。
その場でくるりと背を向けると、肩越しに霊斬を見る。
「それと、呑みすぎ注意!」
「もう寝る」
その言葉に思わず苦笑した霊斬は、言葉を返した。
千砂はその言葉を聞くと内心で安堵し、店を去った。
それから数日後の決行日前日。まだ日も高い午後に、岡っ引きが店を訪れた。
「それでどうなったんだ?」
「そう急かさずとも、話しますよ。美里伊之介ですが、あなたが思っているようなお方ではなかったようです」
霊斬が
「伊之介はあくまで看板。その実態を握っているのは久五郎という男。どうやら酔った勢いで、気に入らない武家を襲うことを決めたそうな」
岡っ引きは青い顔をする。
「ってことは、旦那の屋敷が
「そうですね。それに乗じて、久五郎を痛めつけますので、ご心配なく」
動揺する岡っ引きとは反対に、霊斬は冷静さを欠くこともなく、静かな声で続ける。
「それと、これをお渡ししておきます」
霊斬は言いながら、預かっていた脇差を差し出す。
「あなたが旦那と呼んでいるお方の名を、教えていただけますか?」
「
「では、決行後にまたお会いしましょう」