それから一月が過ぎたある日、手の怪我も良くなり、晒し木綿も取れ、痛々しい刀傷を残すのみという状態になっていた。
霊斬が短刀や依頼の度に使っている刀の様子を見ていた。なにを思ったのか、財布を入れる反対側、左の袖に短刀を仕舞う。
――今日は持っていた方がいい。
と漠然と思った。
同日、霊斬の店の戸を叩く者がいた。
「いらっしゃいませ。これは、親分」
霊斬は言いながら、頭を下げた。
「刀屋、ちょいといいかい?」
「ええ」
霊斬はそう言って、岡っ引きを招き入れた。
「入るのは初めてだな。ちゃんと、店になってるじゃねぇか」
「遊び人ではありませんので」
岡っ引きの言葉に、霊斬は苦笑した。
「それで、なんです? 話とは」
霊斬は正座をして岡っ引きと向き合う。
「因縁引受人……実在すると思うか?」
「私には分かりません」
岡っ引きの問いに霊斬は、即答した。
「おれは実在すると思う。旦那や他の武家から話を聞く限りだが」
「なにが言いたいんです?」
霊斬は眉をひそめて、尋ねた。
「……そいつの居場所、知らねぇかい?」
岡っ引きは意を決し、告げた。
「なぜ、そんなものに頼ろうと?」
あえて
「旦那と対立している武士がいるんだが、こいつらをなんとかして鎮めたい。これ以上、旦那の負担を増やしたくねぇんだ」
「そうですか。……因縁引受人のことであれば、を私はいくつか知っていますが、誰にも口外しないと、お約束できますか?」
「分かった」
岡っ引きはしばらく考え込んだ後、そう口にした。
「因縁引受人、またの名を霊斬と申します。人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」
それを聞いた岡っ引きは、驚いた顔をした後、こう答えた。
「後悔は、しねぇ」
その言葉に霊斬は、口端を吊り上げて嗤う。
「どのような解決をお望みで? 死人を出さずに、武家を壊すことも、対立を抑えるだけなら、脅して黙らせることもできます」
岡っ引きは驚いた顔をする。
「刀屋、そんなこと、できるのか?」
「はい」
霊斬は断言した。
「ただの商売人じゃないような気がしていたが、そんなことをしていたとはな」
「それで、どうするんです?」
霊斬は決断を促す。
「……壊してくれ。脅しただけで治まる連中とも思えん」
「分かりました」
霊斬は頭を下げる。
「っといけねぇ。これを忘れるところだった」
岡っ引きは言いながら、袖から銀五枚を出してきた。
それを受け取り、袖に仕舞った霊斬は、岡っ引きに向き合う。
「私からひとつ、質問を。その武家の名は?」
「
「承知いたしました」
「おれからもひとつ、聞きたいことがある」
「なんなりと」
霊斬は先を促す。
「万が一、因縁引受人の正体を誰かに言っちまったら……どうなる?」
「そのときは……」
霊斬は言葉を切り、静かに袖から短刀を抜き出すと、素早く岡っ引きの首に刃を当てた。
岡っ引きを押し倒すような体勢になってしまったが、霊斬は気にも留めず口にした。
「貴様の喉をかき斬るぞ?」
抜き身の刀身がぎらりと反射する。霊斬は口端を吊り上げて嗤い、恐ろしいほど冷ややかな声で告げた。
「……わ、分かった。気をつける」
予期せぬ行動に驚いた岡っ引きは、動揺を隠しきれぬまま、そう言った。
霊斬は無言のまま短刀を喉から引く。なにごともなかったかのような顔をして、袖に短刀を仕舞う。
岡っ引きはそのままの体勢で硬直していたが、短刀が離れると大きく息を吐いて、元の体勢に戻った。
「それから、これを」
岡っ引きは腰に下げていた脇差を差し出してきた。
「それでは、七日後にお越しください」
霊斬はそれを受け取り、その言葉にうなずいた岡っ引きは、店を去った。
その後、霊斬は床に寝転がり、今回の依頼について考えていた。
派閥争いに終止符を打ってほしいと言われたものの、壊すだけでいいのか疑問だ。
詳しく調べなければ、まったくと言っていいほど分からない。
――少し、やり過ぎたか?
霊斬は左の袖に入れている短刀を取り出し、眺めながら思った。
身体を起こし、岡っ引きから預かった脇差の鞘を抜く。
手入れがされていないだけでなく、切れ味も落ち、柄が少し緩んでいた。
それなりに時間がかかると判断した霊斬は、足早に刀部屋へと向かい、修理を始めた。
翌日の明け方、霊斬は千砂の隠れ家に足を運んだ。
「いるか?」
「はいよ」
濡れた髪を手拭いで押さえながら、千砂が顔を出した。
「湯屋にでもいっていたのか?」
霊斬が床に胡坐をかいて座り、尋ねた。
「まあね。仕事が長引いて、少ししか眠れなかったよ」
「悪いな、そんなときに」
霊斬がそう言うと、千砂が声を上げて笑う。
「あははっ! そんなこと、気にしなくていいよ。ちょっと、都合が合わなかっただけじゃないか」
「そうか」
霊斬はいつもの低い声で言った。
「今日はなにしにきたんだい? 世間話をするためじゃないだろ?」
「新たな依頼だ。岡っ引きからで、武家同士の派閥争いに、終止符を打ってほしいとのことだ。美里伊之介が今回の対象だ」