それからしばらくして、店の戸を叩く音がする。
「いらっしゃいませ」
霊斬が愛想笑いを浮かべて、客を出迎える。
入ってくる客は男。中肉中背で、歳は霊斬より上の五十くらいか。手には刀袋を持っている。
霊斬は商い中の看板を支度中にひっくり返して、戸を閉めた。
「こちらへ」
霊斬が手で示した方向に、男は歩き始めた。
二人で正座をして座ると、男はようやく口を開いた。
「ここにくれば、因縁引受人に会えると聞きました。あなたがそのお方なのですか?」
「はい」
霊斬は笑みをかき消して、静かな声で答えた。
「私は米問屋を営んでいます。ひとつ、頼みがあって参りました」
「頼みとは?」
「いろんな方へ米を売っております。ある武家の方に、通常よりの半分の値で売っています。相手の方がどうしてもとおっしゃるのでそうしていますが、もうやめたいのです」
霊斬はしばらく考え込んでから言葉を発した。
「でしたら、その武家に米を売らなければよいのでは?」
「そうしたいのはやまやまなのですが、大口なので、できないんです。仮にそうしたとしても、恨みを買われて襲われても困るのです」
――店を守りたい一心か……。ずいぶんと困っているらしい。大量に買い入れているために、単価が安くても利益を出しているのか。
「店としては、どのように考えているのですか?」
「通常の価格で他の武家様にも売りたいのでございます」
――自分でなんとかしろと言いたいところだが、困り果てている様子を見ると、そうも言えない。
霊斬は内心で溜息を吐きながら、言葉を発した。
「分かりました。でしたら、確かめさせてください。人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」
「後悔などしません」
「引き受けましょう。では、その武家の名を」
「
「修理前の刀はお持ちですか?」
「こちらに」
男は言いながら、刀袋を差し出した。
「拝見いたします」
霊斬は一言断ってから、刀袋に手を伸ばした。
中に入っていたのは小太刀だった。それも、武士が使いそうな
この商人は武家の出かもしれないと思いながら、鞘を外し、刀身の状態を確認していく。
切れ味が相当落ちているだけだった。
霊斬は無言で刀を収めると、頭を下げた。
「では、七日後に、またお越しください」
その言葉を最後に、男は店を後にした。
その後、霊斬は依頼された小太刀を研ぎながら、思案する。
――商いをする上では、度胸も必要ではないだろうか。
今日の依頼人を見て霊斬は思った。
客は大事だが、あそこまで低姿勢なのもおかしい。
商売に影響が出る相手なら、どんな危険を冒してでも、取引を中止すればいいだけである。
――少なくとも、俺だったらそうするな。
霊斬は苦笑しながら、研ぎ続けた。
それからしばらくして、夜も更けたころ、霊斬は隠れ家に足を向けた。
「いるか?」
「はいよ」
霊斬が戸を叩くと、千砂の声が聞こえてきて、戸が開いた。
千砂はなにも言わず、中に霊斬を招き入れる。
「それで、今回はどんな依頼だい?」
「安く米を大量に仕入れている武家を止めてくれ、とのことだ」
「あんたに頼らず、自分でなんとかすればいいものを」
千砂が冷ややかに吐き捨てた。
「そうだな」
「武家の名は?」
「桐野家、桐野光郎」
「二日で調べておくよ」
霊斬はうなずくと、隠れ家を後にした。
その日の夜、千砂は桐野家に潜り込んだ。
屋根裏から見下ろすと、桐野家はずいぶんにぎやかだった。たまたまかもしれないが。
なにかを話しているようだが、うるさくて聞き取れない。
千砂は小さく舌打ちをすると、静かに去った。
翌日の同じ時刻、千砂は再び桐野家に足を向けた。
ある武士の部屋で気になることを聞いた。
「蓄えは十分あるのか?」
老年の男が口を開く。部屋の中にはもう一人、若い武士がいる。
「はい」
「金も少なくすませたのだな?」
「はい」
「ならば、米問屋の主を殺せ」
「……光郎様、本気でございますか」
武士は思わず言った。
「わしが嘘など言ったことがあるか?」
「ありません。……では、そのように」
「明日の夜、良い結果を期待しているぞ」
若い武士は頭を下げて、部屋を去った。
千砂はそこまでの会話を盗み聞くと、桐野家を去った。
千砂はその足で霊斬の許へ向かった。
「起きているかい?」
「どうした?」
戸を僅かに開けた霊斬は、顔を覗かせながら聞いた。その息にはほんの少し、酒の匂いがした。
「中に入れてくれるかい?」
霊斬はその言葉を聞き、無言で身を引いた。
千砂は急いで中に入る。
それを見た霊斬がぴしゃりと戸を閉めた。
並べられた商品の間を抜け、客と話す部屋まで千砂を連れていくと、霊斬は胡坐をかいて座った。
「それで?」
霊斬は先を促す。
千砂は本題を切り出した。
「桐野光郎は依頼人を殺めようとしている」
「いつだ?」
「明日の昼かもしれない。夜には報告しにいくだろうから」
「分かった」
霊斬はそれだけ聞くとうなずいた。千砂はその言葉を最後に、店を去った。
翌日の昼近く、霊斬は店を閉めた。念のため、短刀を懐に忍び込ませると、米問屋へ足を向けた。