緑の後ろで扉が閉じた。
緑が振り返ると、そこには、緑の部屋の扉が乱雑に置いてあった。
「ぐずぐずするな」
男が声をかける。
緑ははじめて、目の前の世界を見た。
目の前に男がいて、緑の手を引いている。
いつの間にか、緑はくたびれた靴を履いている。
足元が小さくなった気がする。
緑の全身が、縮んだ気もする。
さっきより、幾分男が大柄に見える気がした。
そして、その周りに広がる、
どこか雑然とした世界。
ネオンの裏側が見える。
雑踏の裏側が見える。
店の裏側が見える。
道路の裏側が見える。
古びた商店街のような世界だ。
「ここは、裏側の世界。俺たちの世界さ」
鏡が映し出すように世界は裏返っていて、
そこをぼやけた太陽が光を与えていた。
「さて、お前は、壊れた時計を持っていないと、こっち側にいつづけられない」
男が緑の手を引きながら説明する。
「だから、探す。極上のとびっきりの、お前だけの壊れた時計だ」
「はい」
緑は答えた。
「今は俺の壊れた時計と連動させてる。手を離すなよ」
「わかりました、…えーと」
緑が答えに詰まる。
「誰様でしょう?」
はじめて緑は男の名前を知らないことに気がついた。
「ネフロレピス・ブルーベル」
男は呪文のように唱えた。
緑はよくわからなかったようだ。
「俺の名前だ。ネフロレピス」
「よろしくお願いします、ネフロスさん」
「…略するな」
「覚えられないんです」
「じゃあいい、とにかく、手を離すなよ。お前はまだ、裏側の名前も持っていないんだ」
ネフロスは緑の手を取りながら、
裏側の世界を歩き出した。
雑踏の、裏側の、ごみごみした場所を、裏側の世界は反映している。
そして裏側の世界には、
裏側の世界の店が軒を連ねている。
「真夜中のとき、裏側の世界には日が昇る。俺たちはお日様があったほうが動きやすい」
ネフロスはそんな説明をした。
「だから真夜中に邪魔したわけだ。ここまではわかったか?」
「なんとなくは」
緑が答える。
「じゃあ次は、壊れた時計探しだ」
「どう探すんですか?」
「心に聞いてみな。お前の行きたい場所にある」
「行きたい場所…」
緑はあたりを見渡した。
雑踏や商店街や住宅街…の裏側の世界。
無性にわくわくしたが、ネフロスの手を解いてしまえば、自分の部屋に戻らざるを得なくなるだろう。
それは嫌だった。
一つ一つ店も見たかった。
雑貨屋らしい店、置物の店、「水あります」と書かれた店、「薬」と書かれた店。
横文字らしい読めない店もある。
漢字ばかりで、わからない店もある。
日が昇っているのにネオンがついている店もある。
日が昇ってるといえども、ぼんやりしているので、それはそれでいいのかもしれないと緑は思った。
「あそこ」
緑はなんとなく気がついた。
「鳥篭ってとこ」
「鳥篭屋か」
ネフロスは緑の手を引き、鳥篭屋に導いた。
壊れた時計を持っていないからか、
緑は道行く人々が、みんな影に見えた。
「みんな影法師みたいですね」
緑が素直に言う。
「あっちから見れば、お前はまだ影法師だ。俺もお前の重さは感じない」
「だから壊れた時計が必要なんですね」
「そう…」
ネフロスが説明する。
「こっちの世界では、自分だけの壊れた時計が必要なんだ。存在は壊れた時計を持っているんだ」
ネフロスはつかつか歩く。
緑は引っ張られるようについていく。
「お前は壊れた時計も名前も持っていない」
「一応名乗っておきますか?」
「いや、いい。お前の壊れた時計に、裏側の世界の、お前の名前があるはずだ」
「どれだかわかりませんよ」
「心が求めてるならそれだ」
ネフロスは断定した。
そして、
「あ、鳥篭屋さん過ぎちゃいましたよ」
話すのに夢中になって、うっかり鳥篭屋を通り過ぎた。
ネフロスがしかめっ面をした。
「なんつーか、お前と話してると調子がピンボケする」
「天然ボケといわれますよ」
「何でもいい、とにかく、壊れた時計だ」
「極上でとびっきり」
緑はそういうと、笑った。
二人は手をつないだまま、鳥篭屋を目指した。