その日の昼に顔を出した千砂に、霊斬は低い声で告げた。
「……俺は元を辿れば、武家の生まれだ。だが、育った環境が悪かった。兄に気にかける親だったから、俺のことはどうでもよかったんだ。自分の幼名ですら憶えていない」
――なんということだ。名を呼ばせず、兄ばかり気にかけるなど。
千砂は悔しそうに唇を噛んだ。
その横顔を見ながら、霊斬は語り始める。
当時、父と母と三つ年上の兄である
乳母に全てを任せ、次期当主となる錦の教育に全力を注いだという。そして次男の名を決して呼ぶなと、父が命じていた。
うだるような暑さの夏。日が陰っているにもかかわらず、暑さが引くことがなかった。
当時三歳で、まだ口の回らない彼は納屋にいる乳母に聞いた。
「どうひて、僕はお父様とお母様と兄様と、別なの?」
「お父上がお決めになったことなので、
乳母は悲しそうに、目を伏せた。
「なら、お父様に聞いてくる!」
たたたっと駆け出そうとした彼を、乳母が止める。
「なりませぬ!」
乳母の厳しい声にびくっと身体を震わせる。
乳母の許へ戻った彼は、肩を落とした。
それから五年経ち、彼が八歳になったころ、乳母がこっそりと、木刀を渡してくれた。親に見捨てられても武士の子だ、と彼に認識をさせるかのように。
納屋からは昼間、錦が剣の稽古をしているのが見える。
その様子をじっと見つめていた。
そして皆が寝静まったころ、右手で木刀をつかんで構える。
息を吐いて、素振りを始める。空気を裂く音が心地いい。
ひたすら木刀を振り下ろす彼の姿を見ていたのは、乳母だけだった。彼女はその姿を見て、はっとした。
彼が秀でているのは、勉学だけではなかった。今まで、勉学以外にすることがなかった。彼の可能性に気づけなかったということもある。
木刀を振るう横顔は、険しい。その動きは、少しの隙もない。初めて木刀を振るう者とはとうてい思えない、大人顔負けの気迫に満ちている。
――兄と弟。当主になるのはともかく、武士として成長できるのは、どちら? 兄は賢いというわけでもなく、武術に優れているわけでもない。一方、弟は賢いし、武術を学ばせれば、素晴らしい才を発揮するだろう。しかし、それをさせないのが親だ。彼の存在をこの家から消そうとしているように、思えてならない。もう彼は、自分の幼名など憶えていないだろう。とくになんの才もない普通の親から生まれたはずなのに、どうしてここまで違うのか。見た目だけではなく、性格や環境などすべてが兄弟は正反対だ。
あまりに彼がかわいそうだと思う乳母は、視線を離し、部屋に戻った。
彼は内から湧き上がる感情を抑えて、木刀を振るっていた。父が兄に対して「感情に任せて刀を振るうな」と言っていたことを、思い出したからだ。
むやみに斬りかかってはいけない。冷静であることが重要なのだ、と。
その言葉が彼に向けられたことなど、一度もない。それでも構わなかった。彼の望みは生きていくための
彼なりのやり方で、剣の腕を磨く日々が始まった。
ある日の明け方のこと。肌寒い秋の季節になっても、彼は腕を磨き続けていた。
練習を始めてから二年の歳月が流れ、彼は十歳になっていた。様子を見ている乳母が言うには、兄や父にも勝てるとのことだった。その言葉を聞いた彼は、内心で首をかしげた。
そのときの光景を思い出しながら、いつものように素振りをしていた。
雷鳴が
「なにをしている!」
父の怒鳴り声が聞こえる。嫌な予感がしたため木刀を構えたまま、身体を反転させる。
父は
彼はその手を木刀で打った。
父は痛みに顔を歪め、睨みつけてくる。しかし、彼に手を出すことはなかった。
「錦!」
連れてこられたのは、錦の稽古場である中庭だった。
「はい!」
返事をして部屋から出てきた錦に、父は無言で木刀を持たせる。
「父上?」
錦の言葉に対し、父は彼を指差した。本人は木刀を構えている。
「……勝てば、よろしいのですね?」
その言葉にうなずいた父は、両者の間に立ち叫んだ。
「いざ尋常に、始め!」
「武士として育てられていない、お前になんか負けない!」
錦が木刀を振り下ろす。
彼はその攻撃を受け止めた。
「なんで……。お前が……!」
「知るか。……稽古を受けていたんだろう?」
次々に繰り出される、隙だらけの攻撃を受け止めながら彼は問う。
「当たり前だ!」
「そのわりには、教えを忘れている」
「お前に分かるのか?」
「〝感情任せに刀を振るうと、自身を危険に晒す〟……お前の父は、そう言ってなかったか?」
「なっ……!」
「隙あり」
彼は言いながら、兄の左手を打つ。そのまま、木刀の先を喉に向けた。
「……そこまで!」
父の声が響いた。
すぐさま母が、錦に駆け寄る。
「大丈夫ですか? 痛いでしょう?」
「これくらい、平気です」
母の言葉に錦は呟くと、彼らは去った。
その背を見送りながら、彼は鼻で嗤った。