子どもたちを家に帰し、食器の片付けも済んだ頃、ルイが私に聞いてきた。
それは昨晩、使いたい部屋があると話していたことだ。
彼はそれを気にしていたようで、少し怪しんだ目をしている。
「今更、何を使いたい部屋があると言い出すかと思ってな」
「あら、いいじゃないですか。気にしないでください」
「それから、お前は話し方が固いぞ。顔に似合わん」
「あなたのその目に、私の顔がどのように映っているか分かりませんが、多少は固い言葉遣いを心がけていないと、お兄様のようになってしまいますので」
「アレほど砕けろとは言っていない」
「もう……話し方は、癖がつくんです。丁寧に話すことを心がけないと、結婚式で何を言い出すか分かりませんよ」
そんなことを言いながら、私はルイに笑いかける。
私たちの間は、少しだけ砕けたと思う。
最初の頃よりは話ができるようになったし、色々なことがあって、だいぶ落ち着いたというか。
夫婦に近づいたのではないだろうか。
もちろん、妹のことはまだ解決できていない。
現状、まだ魔女としての覚醒がないから保留、というところだ。
「それで、使いたい部屋の話ですけど」
「ああ、どの部屋だ?」
「こっちです。一緒に来てもらえますか?」
「ああ」
私はルイを伴って、その部屋へ来た。
奥の部屋は、屋敷の中で一番小さな部屋だったけれど、ここは裁縫ができる大きな作業台やミシン台、アイロンなどがそろっている。
衣類をかけられる場所もあるし、収納をもう少し準備すれば、ここで何かを作ったり、書き物をすることができると思った。
「ここは……」
「何かの作業をしていた場所ですか?広々としているし、作業台があるからとても使いやすいと思って」
「ここは、母の部屋だ」
「あ、では、使うわけには……」
「いや、母の部屋ということになっているだけで、母がここを使うことはほとんどなかった。母はお前のように裁縫なんてできる人じゃなかったからな」
「でも、この作業台は」
「母はここでよく本を読んでいたんだ。あの人は、本をどこまで読んだか分からなくなるから、と全部広げたままにしていて」
「栞、という便利なものがあることはご存じだったのでしょうか?」
そんな話をしながら、ルイは部屋の中へ進んでいく。
広いテーブルに手を置いて、懐かしそうな顔をしている。
「それをなくすんだよ、あの人は」
「そうですか。でも、それでも読みたい本があったんですね」
「たくさんの本を並べていたな……不器用なのに、俺たち兄弟に料理をしようとしたり、服を作ろうとしたり。どれも失敗して、結局、マリアが全部整えてくれた」
ルイの中にある母親は、戦場で戦う剣士だけではなかったのだ。
それを聞いて、少しだけ私は穏やかになれた気がする。
もうこの世界にいない人に、なんと言うべきなのか、いつも考えているところがあったから。
私は、顔も知らない義母に、もう1人の赤毛のアンに、何を言うべきなのか、と。
「たまに、テーブルの上で寝ていて」
「はい、それは行儀が悪すぎます」
「はは、俺もそう思ったさ。でも、父はそんな母を咎めなかった。それくらい自由な人だったな」
「ちなみに、私は寝る為にテーブルを使いたいんじゃないですよ。ちゃんと使用目的がありますから」
「ああ、分かっている。必要なものは準備してやる、ハンスに頼んでおけ。ここは自由に使っていいぞ」
最近の彼は、怒ったり、笑ったり、とても人間らしくなったと思う。
最初に合った時はとても冷たくて、まさに戦場の人間だった。
騎士団長だから仕方がない、と思っていたけれど、あれは酷かったと思う。
「では、あなたの椅子を」
「え?」
「私の椅子はあります。それなら、あなたの椅子も必要でしょう?たまにはここで休憩できるように」
私の言葉を聞いたルイは、少し押し黙っていた。
悪いことを言ったかな、と思ったけれど、そうではなかったようだ。
よかった。
彼もそれがいい、と思ってくれたに違いない。
「俺の椅子は、いつでもお前の側にあるんだな……」
「そうですね。まあ、それを選んだのはあなた自身ですよ」
そう。
この転生も。
この人生も。
本当は本の中の出来事。
でも、ここで生きる私たちには本物だ。
自分たちで選んで、進んでいる。
もしかしたら、誰かがペンを走らせている可能性もゼロじゃない。
でも。
今は、ちゃんと自分たちで選んでいる、と思える。
それから、ルイは自分の気に入った椅子を部屋に持ってきた。
私は、破れてしまったドレスをリボンに作り替えたり、小物に作り替えたりの作業に入る。
それが落ち着いたら、今度はお菓子のレシピをまとめに入った。
文字で書き起こしたら、順番が違っていたり、書き損じたり、そんなことを何度も繰り返してしまい、頭を抱えることばかり。
「本を書くって大変ですね……」
私がそうつぶやいた時、そこにいたのはハンスだった。
部屋の重いものを動かす為に来てもらったのだけれど、彼は私の言葉を聞いて微笑んだ。
「奥様は本はお好きでしょうか」
「はい、とても好きですけれど……」
「ご参考程度とは思いますが、大奥様の書物をいくつかご覧になりませんでしょうか?坊ちゃまが学園に寄付してもよい、と言われましたので、多くは寄付いたしましたが、貴重なものだけ残しております」
「そんなに貴重な本があるんですか?」
「そうですね、大奥様がご持参されていた書物は、この国でも製造されていない貴重な品ばかりで」
「それを学園に寄付!?」
「はい。坊ちゃまはお辛かったんでしょう、書物を見ると、大奥様が亡くなったことや魔女との戦いを思い出してしまって……」
それは。
もしかしたら、これから先もまた味わうことになるかもしれない、恐怖。
今度は、それが私に来るかもしれない。
でも、今は。
その貴重な本を読むことの方が、大事かも!
「ハンス、その本を貸していただいてもいいですか?」
「分かりました、お持ちいたします」
「えっと、ルイが帰ってくるのは夕刻でしたよね。それまでにはお返ししますので!」
「いえ、奥様。坊ちゃまにはもう、そのようなご心配は要りませんよ」
「そ、そうですか?」
「はい。ではしばしお待ちください」
しばらくすると、ハンスは箱に入った本を持ってきてくれた。
箱の中には、かなりたくさんの書物が残っている。
この国、というか、この世界で書物はとても貴重なもの。
印刷技術が発達していないので、手書きの一点ものが多くて、他国の品となればどれだけの金額がつくか分からない。
父でも書物を手に入れるのは、至難の業だ。
「すごいですね、貴重な本ばかり」
「はい。奥様が輿入れの際にご持参されました」
「そう言えば、お義母様って、どちらのご出身だったんですか?他国とは聞いていますが」
「それは、実のところ誰も聞かされておりません。髪色からして、東の方ではないか、と」
東の方。
お兄様が、ユーマにも言っていた。
あちらの方は、そうやって髪の色で出身地が分かるんだろうか?
でも、そうなるともしかしたら私のルーツもそちらにあるかもしれない。
正直、この国でこの髪の色の人をあまり見かけないのだ。
見かけた時に、珍しくて声をかけたら、白髪隠しで染めている、と言われてガッカリした。
赤毛のアンは、白髪隠しかよ……と。
「大旦那様は厳格なお方でしたが、大奥様のような大らかな女性を好んでおられました」
「ハンス、その言い方はちょっと気になりますね」
「さすがでございます、奥様。大旦那様は、大奥様とお会いになるまでに恋多き殿方で」
「え~、そういう話って、私が聞いてもいいような話ですか?聞きたいんですけれど」
「では、どこかの国を旅した騎士の恋物語とお伝えいたしましょうか」
ハンスはそう言って笑った。
この人は、本当にこの家のことをよく知っているのだろう。
どれだけ長い間をこの家で過ごしたのだろうか、と思った。