準備を終えて、おねーちゃんが出てきた。
しかし先程とは打って変わって、今度は申し訳なさそうに、フードで顔を隠してしまっている。
「ごめんなさい、ティナ。少しお店、空ける。そうルーナとリタとエリーにも、伝えてほしいの。
わがまま言ってごめんなさい。必ず────」
「必ず帰ってくる、でしょ? 必要なことだもん。
行ってらっしゃい、気を付けてね」
本当なら、今おねーちゃんが行ってしまうのは、止めるべきなのかもしれない。
けれどそれは何だか、おねーちゃんの重荷になってしまうような気がした。
おねーちゃんの大切なこのお店、ここの店員たち────
それを材料に止めることは、何だかとてもズルいことに思えた。
おねーちゃんの大切なものが、おねーちゃんの重荷になってしまうから。
それに多分、そこまでしてもおねーちゃんは止められない。
一度言ったら自分を曲げない、それが私の知ってるおねーちゃんだ。
「止めたってムダだもん」
「君は、こいつの事よく分かってんな……」
でも、実は私は、2人をあまり心配していなかった。
2人なら────2人揃えば、何でも出来る。
そんな不思議な感覚を、おねーちゃんとアデクさんは持っているので、不思議と納得せざるを得なかったんだ。
「それよりおねーちゃん、盗み聞きの事、ごめんなさい」
「いえ、それはいいのだけれど」
アデクさんとおねーちゃん、2人の目線はなぜかエリーちゃんに向いていた。
「そっちのお前は悪趣味だな、見てて反吐が出る」
「えー、なんで私だけ……」
いつの間にか店の外に付いてきていたエリーちゃんは、不貞腐れたように口を尖らせる。
確かにエリーちゃんは勝手にお店に入って覗き見してたけど、それをアデクさんに怒られるのは、ちょっと可哀想だ。
「おねーちゃん、でもエリーちゃんはリタさんに許可とってたみたいだし、許してあげてよ?」
「えぇ、いいのよ。エリーなら、信頼できる人間なら。
「え……?」
おねーちゃんの言葉の意味が分からず隣を見ると、彼女は黙って2人を見つめ返していた。
「……………………」
その時私もようやく感じた。
目の前にいるエリーちゃんは、見た目は間違いなく本物のエリーちゃんなのに、決定的な何かが────そう、例えば目付きが、違う。
3年近く彼女と付き合ってきたから分かる、エリーちゃんは人をこんな眼で2人を見たりはしない。
こんな
「そもそも、エリーならとっくにアデクを止めてるわ。
まぁ、偽物だとバレても構わないと思ってるんでしょうが……」
「見た目や声を寄せることはできても、表情までは真似ねぇのか、ニセモノよ。
昔っから、アンタのそういうとこだけは、
「ふぅん、そう。ご忠告、感謝します」
エリーちゃんの姿をしているらしい彼女は、ただその暗い眼を細めるだけだった。
その眼は視線を合わせただけで闇の底へ落とされるような、深い深い色をしていて────
「なぁ、ティナ」
「は、はい!?」
「ここで見たことは、忘れてろ。もちろんエリアル本人にも言わないように」
アデクさんは、頭をガリガリと掻きながら面倒くさそうに言う。
「そ、そんなこと言われても……」
「私からもお願い、そうすれば何事もなくいられる。
深入りする事は、貴女のためにならないわ」
おねーちゃんまで、そんなことを言う始末だった。
そこまで言われたら、「はい」と首を縦に降らざるを得ない。
「ありがとうティナ。なるべく、早く帰ってくるから」
ドラゴンは2人が股がると、静かに赤い炎を吹いてからゆっくりと空へ舞い上がっていった。
秘密の任務だからだろうか、少し風が強まったくらいで、とてもあの大きな翼が羽ばたいているとは思えない。
「おねーちゃん、絶対帰ってきてね! アデクさん、おねーちゃんをよろしく!」
アデクさんは、返事の変わりにこちらに親指を立てた。
最初会ったときは印象最悪の彼だったけれど、今なら間違いなく私の大切な人を任せられる。
そうして、2人を乗せたドラゴンは、夜の大空へとその姿を消した。
※ ※ ※ ※ ※
「おねーちゃん……」
2人が去ってから、私はお店に戻ってボーッとしていた。
あっという間の出来事でまだ頭がついてこない。
でも、アデクさんが一年越しに約束を守ってくれたこと、そしておねーちゃんが嬉しそうだったことは確かだった。
おじいちゃんが亡くなってから、沈んだ顔をすることが多かったおねーちゃんが、ようやく笑ってくた。
それは少し嬉しいような、ちょっと嫉妬しちゃうような、不思議な感覚。
ただ、2人が危険な場所にいくことに変わりはない。
無力な私にできるのは、2人が無事に帰ってくることを祈るだけだ。
「行きましたね、2人の未来に幸あらんことを。では、私も────」
「待って!」
そのまま帰ろうとしたエリーちゃんの肩を、私は掴んだ。
まだこの人には、聞かなければいけないことがあるはずだ。
「何ですか?」
「────貴女、結局誰なの?」
こちらを睨み返した眼は、鋭く突き刺さるようだった。
もう、この人はエリーちゃんと姿形が似てるだけだ。
多分本人でないと言うことを、隠そうともしていない。
「あー、そこ聞いちゃいますか。
ちなみに、私が最初に何て言ったか、覚えていますか?」
「え、それは────覚えてないけど……」
目の前の彼女はこちらを睨む眼をそのまま細めると、少しため息をついてから、呟いた。
「深入りするな、と言ったのよ」
「ひっ────!?」
瞬間、私は彼女に突き飛ばされ、お店の壁に叩きつけられた。
そして大声で叫ぶ暇もなく、気付けば彼女の手が私の両頬を押さえる。
「私は初め貴女に、関わるなと忠告したの。
私が誰かを知る必要はないから、ああ言ったの。
それでも貴女は、気になるのよね……?」
頬に触れる冷たい両手が、少しずつ動いて、私の首を撫でていく。
まるで鋭利な刃物を当てられたように、
強い力がかかっているわけでもないのに、金縛りに合ったように、私は動けなくなった。
「興味津々、好奇心旺盛。そして若い貴女がこれ以上深入りするなら。
そうね────
友人や家族、大切な人の名前。果ては自分の名前まで忘れてでも、それは知りたいこと?」
「……………………!?」
もはや呼吸もできないほどの圧力で、エリーちゃんの姿をした誰かは私を押さえつけている。
恐ろしい、知りたくない、心臓が痛い。
そして、そうだ────私はこの冷たく固まった、氷のような眼差しを、知っている。
記憶を無くすより以前から刻まれた恐怖。
それが脳の奥の大切な部分を火掻き棒で引っ掻き回されたように、溶けて出てきた。
例え一切を忘れても、覚えている。
私の体は、覚えている。
記憶を無くしたのが、この相手のせいだと、覚えている────!
「最後に聞くわ。これ以上深入り、する……?」
「────ぃぃい……いいえ……」
震える声で答えると同時に、首に触れる手がスッと離れた。
その瞬間私の全身から力が抜け、体は言うことを聞かずその場にへたりこむ。
「カハァっ……! ハァ、ハァ……!! おえぇぇ……」
ようやく呼吸ができて、空気をいっぱいに吸い込む。
肩で息を続けて、そのまま私は床に嘔吐した。
以前、大図書館の地下で巨大な岩に潰されそうになったことがある。
あの時は死ぬことを覚悟したけれど、今度はその比じゃなかった。
ここまで鋭利な恐怖を簡単に発する人間が、エリーちゃんの姿をしているなんて────
「良かったティナちゃん。そう言っていただけて、本当に良かったです。
私もティナちゃんが私を忘れてしまうのは、すごく辛いですから」
「………………」
最後、相手はエリーちゃんの喋りを真似て、そんなことを言った。
さっきまであれだけ脅しておいて、平気でそんなことを言える相手が、心底恐ろしかった。
「────貴女に関わらないことだから、ひとつだけ聞かせて……」
「ん?」
「エリーちゃんは無事なの……?」
それだけは、確かめなきゃならなかった。
彼女の身に何か起きたから、目の前のこの人がエリーちゃんの姿をしているのなら、それは放っておける事じゃない。
別に知ったからと言って、何ができるわけでもないけれど────
「彼女に何かあったということは、ありませんよ。
私が彼女に危害を加えると言うことは、絶対にありません」
「そう……」
それを聞いて、なおさら力が抜けた。
でも、それなら何故この人はエリーちゃんの姿を────
いや、深入りするなと言われたばかりだった。
もう疲れた、私は彼女について考えるのを止める事にした。
「さっ、私は帰ります。眠い眠い……」
そして彼女は一度あくびをすると、そのまま何事もなかったように街の闇へと消えていった。
最後に残ったのは、汚してしまった店の床だけ。
そういえば、最近エリーちゃんはこの街で明明後日から行われる大会に、参加すると言っていた。
街全体が慌ただしくなる中、巨大な何かが私たちの日常の周りを蠢いている。
私はその時、そう確信した────