おねーちゃんは聞いたこともないくらい深いため息をついていた。
「変わらないわね、貴方は。ほんっっっっとに、昔っからそう!」
ウンザリしたように、そう声をあげる。
「悪かったな?」
「悪いわよ。こっちの気持ちなんて考えず、いつもそう……」
でもその声は、どこか懐かしさを孕んでいるような、怒るのを楽しんでいるような、不思議な声色だった。
そうだ、リーエルさんと話す時と、少し似ている。
今までアデクさんがいない間、何度もこのお店に通っていたリーエルさん。
ツケ払いの大食いで手の施しようもない程ダメな人だけれど、不思議とおねーちゃんはあの人を出禁にすることは、ほとんどなかった。
出禁にしても、どうせあの子は来るからね────とおねーちゃんは、言っていたけれど。
「あ、そっか……」
その時、何となく繋がった気がした。
もしかしたらリーエルさんは、アデクさんがいなくなって空いてしまったおねーちゃんの心の隙間を、埋めようとここに通っていたのかもしれない。
この街にはたくさんお店があるのに、来るのは必ず、おねーちゃんのいるこの『カフェ・ドマンシー』だった。
リタさんやリアレさんのような後輩や、私たちみたいな店員じゃなく、本当に対等に話せる相手は、おねーちゃんにはリーエルさんとアデクさんだけなんだ。
だって、おねーちゃんはあんな
「教えなさいよ、そろそろ。貴方の作る野菜スープは、昔から私の作るものを越えていた。
『ふわふわすふれぱんけーき』に料理を教えてもらっても、同じ材料を使っても────これだけ店を続けても、勝ててないのは分かってるわ。
むしろプロになって、絶対にあの味に追い付けない」
「何度も試したんだな」
「えぇ、何度も、何度もよ……」
アデクさんは空になった皿にスプーンを置くと、フッと僅かに表情を緩めた。
「毒抜きの魔法だよ。煮込む前に一度、煮込みながら一度、煮込んでから一度。それを鍋の具材にかけるんだ。
毒は入ってなくても、野菜や肉のアクが僅かに消滅する。その違いだな」
「──────!! そんな繊細なことしてたなんて!!」
「悪かったな繊細で。別にオレが考えた訳じゃねぇよ。
実家の料理長が言ってたのを、試しに使ってみただけだ」
「あぁ、ログフィールドの家の……それなら納得ね……」
「はっ、驚いたか?」
そう嬉しそうに伝える彼は、なんだか子供のようだった。
今までアデクさんと話す機会はあまり多くはなかったけれど、少なくともこんな風に誰かと気さくに話すイメージは、私の中で全くなかった。
【伝説の戦士】だなんて街では言われているけれど、実際はエリーちゃんやミリアちゃんみたいに、元々は普通の男の子だったのかも知れない。
こうしてお店に来て嬉しそうに会話をすると、急に身近な人に思えてくる。
「それを最期に言えて、良かった……」
「え? 最期……?」
「あぁ、お前とはもう会わねぇかも知れねぇ。そういう最期だ」
「は?」
その言葉を聞いて、おねーちゃんの顔から笑みが消えたのが、暗い中でも確かに見えた。
ロウソクに照らされる中で静かに、アデクさんの顔を正面から見据える。
「何それ。説明して……」
「単身でノースコルのビティーに乗り込む任務が下された。
今からこの街を発って、すぐに行かなきゃならねぇ」
「監獄街? そんな無茶な任務、断れば────」
「
私はあげそうになった声を、押さえるのに必死だった。
いや、もうおねーちゃんとは会えないというアデクさんを止めるには、むしろ────
むしろそのまま大声で飛び出していった方が正解かもしれないけれど、横のエリーちゃんが眼で私を制した。
普段彼女からは感じない、逆らえない圧に押さえ込まれる。
でも、ノースコルに一人で乗り込むって何?
この国の軍は、幹部にもそんな無茶をさせるの?
「じゃあな、今まで悪かったよ」
「……………………………………」
そういう間に、アデクさんは席を立ってお店の外へ向かおうとしていた。
私には、彼が所属する軍の事は、ほとんど分からない。
軍に所属する知り合いの人たちも、向こうの事はあまり話してくれないし、私にはあまり関係の無い話だと思っていた。
現にとても危ない任務に出ようとしているアデクさんを、エリーちゃんは止めない────
でも、2人がこんな最後だなんて絶対正しいことだなんて思えない。
ずっと誰かを待つ、おねーちゃんの姿を知っている。
人知れず悩んでいた、アデクさんの事を知っている。
2人のことを影ながら見守っていた、リーエルさんの事を知っている。
いくら任務だからと言って、アデクさんがそんな事していいはずがない。
せっかくおねーちゃんとまたお話しできるようになっのに、約束も守ってくれたのにそんな────
そんな事って────
「おねーちゃん! アデクさん!」
「ティナ……」
私は耐えられなくなって、ついに厨房から2人の前へ飛び出した。
「……………………」
隣のエリーちゃんは何も言わなかったけれど、その場で立ち上がって姿を見せる。
行くなと言われたのに出てきてしまったこと、やっぱり少し怒ってるみたいだった。
私は彼女に心の中で謝罪すると、2人に向き直った。
「アデクさん、行かないでよ! 行っちゃダメだって!
いくら自分のせいだからって、ひとりで別の国に乗り込む何てバカげてる!」
「気配がすると思ったら、やっぱりずっと聞いてやがったのか」
どうやらこちらの事には、気付いていたらしい。
それはおねーちゃんも同じで、さしてビックリした様子はなかった。
「もう受けた任務だ、覆さねぇよ。でなきゃここへ来ねぇ。約束は守ったからな」
ため息のように吐き出すと、今度こそアデクさんは歩みを進めた。
違う。おねーちゃんに謝って欲しかったのは、こんな時のためじゃないのに。
私はただ大切な人が大切な人と、また心から笑えるようになって欲しかっただけなのに。
遠ざかる背中────
でも彼の歩みは、後ろから手を掴まれたことで止められた。
驚いたように、まるで後ろに誰かいることなんて、最初から知らなかったみたいに、アデクさんは目を見開いて振り向いた。
「待ちなさい。なら、私も付いていく」
堅く握られたその手は、おねーちゃんの決意の証だった。
何よりも堅く、何よりも確かに、その手と視線を離さなかった。
「………………………………は?」
たっぷりの間を置いて、アデクさんはようやく何を言われたのか理解して、もう一度驚く。
聞き間違いじゃないのか、言い間違いじゃないのか、疑うように眉を潜めている。
「私もその任務に着いていくって、言ってるの。仕度するから少し待ちなさい」
「ちょっと待てよ! 勝手に決めんな!」
今度は逆に、奥に行こうとするおねーちゃんの手を、アデクさんが掴んだ。
「いいじゃない、それくらい。もうゴメンよ、誰かさんを待って時間を無駄にするのは」
「バカか、今からオレは死にに行くっつってんだよ……
オレらが生まれるずーっと前から戦争してる国に、一人乗り込むんだ。
その意味がわかんねぇお前じゃ、ねぇだろ……」
それがどれ程危険なことかは、さすがの私でも分かる。
それは軍の幹部を務めるアデクさんでも、帰れる保証は無いんだろう。
「勢いでも、冗談でも、オレに、そんなこと、言わないでくれよ……頼むから……」
嗜めるように、言い聞かせるように、アデクさんはおねーちゃんに言った。
「私との特攻が、そんなに嫌かしら?」
「………………お前はオレだけのモノじゃねぇ、これからも必要とする人間が沢山いるだろ」
「心中する相手が私じゃ、不満かしら?」
「………………オレの隣じゃなくても、もっといい場所なんか沢山あんだろ」
「まぁ、そうかもね……」
おねーちゃんは少し眼を瞑って考え込むと、ゆっくりと彼の手を握り返す。
そして眼を見開いたとき、おねーちゃんの眼は、6年間の確執を今ここで終わらせるという、覚悟の色に染まっていた。
「アデク! 私は────私はね!
私があなただけのモノじゃないこと何て、百も承知だし!
あなたの隣よりずっと、いい死に場所があることも知っている!
それでも私が軍を辞めてまで、あの時あなたの誘いに乗ったのは!
私にとってあなたが必要不可欠だから!
他の全ての人生を投げうってでも、私はあなたの傍にいたかった! 必要とされたかった!
元々最初に約束を破ったのは私だけれど、その気持ちまで踏みにじられたようで、私は嫌だった!」
叫んだ後大声を出して、ハァハァと肩で息をする。
少し落ち着いてから、おねーちゃんはより一層彼の手を強く握りしめた。
「ごめんなさい、わがままを言って。それと、今までの分全部、ごめんなさい……
でも大切な人が死ぬ様をみすみす見ているだけなんて、あなたならできないでしょう?」
「聞くなよ、そんな馬鹿な事───オレも悪かった」
彼は少しだけ圧倒されたようだけれど、おねーちゃんの頭をその胸へ抱き寄せた。
「…………わーったよ。それにもう一票、連れてくことに賛成のやつがいる。
お前連れてかなきゃりゅーさんが動かねぇ、と」
その時、突然お店の外で突風が吹いた。
窓が揺れて、目の前の通りに巨大な影が現れる。
「なに、あれ……?」
「ドラゴンですね」
アデクさんに付いて行くと、巨大なドラゴンがこちらを見下ろしていた。
少し首をもたげ、嬉しそうに瞬きをする。
「分かってるよ、ここまで言われたんだ。オレもここには必ず帰る」
ドラゴンは2人を祝福するように、赤色の炎を少しだけ上へ向かって吹いた。