残業もなく仕事を終えて職場を出ると、夕焼けが夜の帳へと変わった直後の、宵の空が広がっていた。澄み渡った空に、一等星の瞬きが明滅する。二等星以下の輝きが見えるには、もう少しだけ時間がかかる。
車の運転席に乗り込むと、鞄ごとロッカーに入れっぱなしだったスマホを引っ張り出した。陽菜からの通知はなかった。再会してから、これだけ連絡が途絶えたのは初めてのことだ。
既読無視をしたって矢継ぎ早に送られてきていたのに。それが突然ゼロになると、なんてことはない「おはよー」の一通が待ち遠しくも感じられた。もしくは、舞衣からの連絡待ちなのかもしれないが、かける言葉が今は思いつかなかった。
どうでもいい相手なら、心にもない「ごめん」の一言で、簡単に関係修復してきたものだったが。
スマホを助手席のシートに放り投げようとしたところで、ぶるぶるとマナーモードの振動があった。通話の着信だった。
「もしもし」
『舞衣か。今、大丈夫か?』
スピーカーの向こうから響く父親の声に、舞衣は優しい声色で「大丈夫」と答える。
「今ちょうど、仕事が終わったとこ」
『なら良かった。成人式の話だが、振袖の予約はしたのか?』
「それなら、スーツで良いかなって」
忘れていたわけではなかったが、忙しさと心労と、結果的なめんどくささもあってそうすることに決めた。
『さっき老野森から電話があって、ちょうどその話をしていたんだ。帰りに寄ってこれるか?』
「お祖母ちゃんち? 良いけど、お父さんは? ご飯どうするの?」
『今日は会社の新年会だ』
「そうだったっけ。じゃあ、あたしもお祖母ちゃんとこで食べてくるかな」
そう言って舞衣は通話を切った。今度は放り投げようとせずに、スマホを鞄にしまう。
同時に妙なデジャビュを感じて、一度車の中を見渡した。またアマネが盗み聞きしているかと思ったけど、今回は違うようだ。安堵の溜息をこぼして、舞衣はキーを捻った。
「ごめんね、舞衣ちゃん。昨日の今日なのに」
「職場からなら家に帰るより近いし、いいよ。それよりどうしたの、いきなり」
自宅に寄らずにまっすぐ祖父母宅へ向かった舞衣は、玄関でブーツを脱ぎながら、出迎えてくれた祖母を見上げる。祖母は柔らかな笑みを浮かべて、彼女を居間ではなく、客間の座敷へと連れて行く。
「……これって」
座敷に広がっていた光景に、舞衣は静かに息を飲む。
壁一面に、色とりどりの振袖が提げられていた。ちょっとした呉服店状態だ。そのすべてではないが、いくつかの着物に舞衣は見覚えがあった。
「これって、お母さんの……」
「昨日、舞衣ちゃんがいろいろ運んで来てくれたでしょう。さっそく整理をしようって思ったら、これが出てきて。そしたら、この間、お父さんが成人式の話をしていたのを思い出したから」
昨日、舞衣が運んできた母親の荷物が、座敷の隅に積まれている。その一部――主に衣装ケースの荷が解かれていて、他にも帯やら小物やらの品々が広げられていた。
「良かったら、どれでも着てあげてくれると、あの子も喜ぶと思うわ」
祖母の言葉を背に受け、舞衣は目の前の着物たちに視線を巡らせる。
「これ、中学の入学式の時に着ていたやつ。こっちは確か、従妹の結婚式で」
他、特定できるほどの記憶は無かったが、小学校の入学式も卒業式も、ここにあるどれかを着ていたはずだ。大事な式典の際には和装をするのが、母親のトレードマークだった。
「それは、あの子に初めて作ってあげたお着物ね。成人式の時に。そっちのは見たことが無いから、たぶん、自分で仕立てたやつなんでしょう。言ってくれたら買ってあげたのに」
祖母も舞衣の隣に並び、着物の生地に振れながら、懐かしむように言う。
「こんなに持ってたんだ。知らなかった」
と言うより、単純に舞衣が興味を持っていなかっただけかもしれない。見るたびに綺麗だなとは思っていたけれど、入学式や卒業式は自分の楽しみばかりで頭がいっぱいだった。
「ウチはあんまり裕福ではなかったから。特にあの子が子供の時は、なんにも買ってあげられなかったのよ」
「それは、お母さんから聞いたことある気がする。お弁当の卵焼きが何よりの贅沢だったって」
「うんと甘いやつね。覚えてるわ。畑で飼っていた鶏が卵を産んだ時のご馳走だった」
祖母にとっては、懐かしくも口惜しい記憶なのだろう。苦笑するその瞳には、僅かに後悔の色が滲む。
「いくらか余裕が出始めてから、初めてちゃんと買ってあげられたのが、成人式の時のお着物だったの。それから、大事な日には仕立ててあげるようになったの」
「どうして着物だったの?」
「母親は、娘にお着物を作ってあげたくなるものなのよ」
「そういうものなんだ」
残念ながら、その気持ちは舞衣には理解できなかった。将来、自分に子供ができたら分かるようになるんだろうか。それは、とてつもなく遠い未来か、なんなら一生来ないようにも感じられた。
「あの子は舞衣ちゃんに買ってあげられなかったから、少しでも代わりにね。私が買ってあげても良かったのだけど、それはなんだか違うような気がしてしまったし」
「それはそうだと思うよ。だから、こうして気にかけてくれるだけで嬉しい」
「そう。なら良かった。どれでも好きなのを選ぶといいわ。試着もできるように準備してあるし」
「うん……そうだね」
順に着物に振れながら、舞衣はどこかうわの空で返事をする。祖母の気持ちは嬉しい……が、母親の形見だというなら、なおさら借りるのは気が引けてしまう。いや、借りるというのがそもそも沿わない表現であるわけだが、舞衣にはそう思えて仕方がなかった。
この場は「考えさせて貰う」ことにして、お暇しようか。そう思い始めたところで、視界の端に気になるものがうつった。
「……これは?」
荷解き中で半開きになった箱の中に、見慣れないクリアケースが詰められていた。中に入っているものを、舞衣は生まれて初めて目にしたが、それが何であるかは知っている。磁気テープのカセットってやつだ。
「これって、ハンディカム用だよね?」
疑問形になったのは、今や骨董品になってしまったVHS‐Cカセットを目にしたからではなく、家でそんなものを使っていた記憶がなかったから。舞衣の記憶では、両親が使っていた家庭用ビデオカメラはとっくにカードスロット型式のものだったし、中学に上がったころにはスマホだって普及していた。
だったら、いつの?
残念なことに、こういうところはずぼらだったのか、見出しシールは張られていなかった。
「あら、懐かしいわね。ちょっと待ってて。お爺ちゃ~ん」
祖母が、声を張り上げながら部屋を出て行く。そのまましばらく、遠くで部屋を行ったり来たりする音が響いていたが、やがて小脇に鞄型のケースを抱えて戻って来た。
「あったあった。壊れて無ければ使えると思うのだけど」
鞄の中に入っていたのは、少々重くてゴツイ見た目のハンディカム。VHS‐Cに対応した古い機種だった。
「これで見れるの?」
「使い方は分からないけれど……お爺ちゃんなら覚えてるかしら」
「大丈夫。そういうのって、今は簡単に調べられるから」
たぶん、動画サイトで型番を調べれば、古いデジモノレビューのチャンネルのひとつくらいヒットするだろう。
「これ、借りてって良いかな。テープも」
「もちろん。それで、お着物はどうする?」
「ごめん。次に来た時まで考えておくから、今日は参考に写真だけ撮って帰るね」
舞衣の興味は、すっかりテープの方に移ってしまっていた。見出しのない記録の山に、舞衣の知らない母親の記憶が込められているような気がした。