「ぼさぼさになっちゃった。もー」
口から出た悪態とは裏腹に、彼女は人懐っこく笑う。ぼさぼさになったと言いつつも、サラサラの髪はちょっと手櫛をしただけでふわりとしたショートボブの形を思い出した。それからコートについた雪の結晶を軽く払って、舞衣に向かって大きく手を振る。
「やっぱり舞衣ちゃんだ。おーい!」
「ばかっ……」
舞衣は慌ててチケットカウンターから飛び出した。声につられて、ロビーに数人いたお客が何気なく視線を向ける。その視線を遮るように陽奈に詰め寄ると、首根っこを掴んでチケット売り場まで連行する。
「ちょっ、痛いよ。久しぶりに会った親友にそれはないんじゃない?」
「立場を考えてからモノを言えっ」
平日の日中で客足が少ないのが幸いだった。高齢者層が多いこの時間なら、ミーハーなファンに騒がれることもまずない。
実際、気に留めたお客たちも職員の知り合いが来たんだ程度に思って、すぐにそれぞれの時間に戻っていった。
「立場って……あー、大丈夫だよ。堂々としてれば。渋谷でも原宿でも……恵比寿はちょっと怖いかな?」
「何かあった時に対応する職員の立場を考えろって言ってるのよ」
「心配性だなぁ。出川さんも、さんまさんも翌日になってから出没の噂が広まった、過疎地域コミュニティを信頼してよ」
言わんとしていることは分かるが。舞衣は頭を抱えて軽く深呼吸をした。脳も身体も酸素が足りない。
傍ではアマネが野次馬根性丸出しの笑顔で小躍りをしている。イラッとしたので空中に撃退スプレーをひと吹きしてから、陽奈へと向き直った。
舞衣にだけ聞こえる悲鳴が、BGM代わりに響く。
「なんでミントスプレー?」
「害虫避け」
「害虫でミントってゴk――えっ、この辺りって出ないよね?」
一目散に逃げて行ったアマネは、カウンターをすり抜け、バックヤードの陰から恨めしそうにこちらを覗く。
「で……何しに来たの? というか東京に帰ったんじゃないの?」
「あれ、舞台挨拶聞いてない? 今、こっちで筒井監督の新作撮ってるんだよ。それがあったから企画できたイベントだったのに」
陽奈は、笑顔で答える。舞衣の知らないはつらつとした表情だった。
そして映画のことも初耳だ。ああ、いや、アマネが昨日から何か言っていたような気もするが、ほとんど聞き流していたので、正確にはうろ覚えの情報だった。
「だったらそのロケは?」
「今日はオフになったの。監督、体調わるいみたいで。二日酔いかな」
それを聞いて、横尾も今朝は青い顔をしていたことを思い出す。きっと大酒呑みだという監督を張り切って接待したのだろう。
結果として方や吐きながら出社、方や自己都合で撮影をオフと……待遇で見せつけられる立場の違いに、何とも言えない気持ちになる。我らが劇場の働き者に、少しは優しい気持ちも芽生えるというものだ。
「撮影スケジュールがあるから、次のオフの予定を前倒し扱いだけどねー。家族で温泉でも行こうかって話してたのに。まあ、年明けでいっか」
「おじさんとおばさんは元気?」
「元気だよ。今日は実家に泊ってるんだけど、二人ともお仕事だから一人になっちゃって。それで劇場で舞衣ちゃんを見かけたのを思い出して、映画でも見に行こうかなーって。そう言えばあの時さ――」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
陽奈の声が、突然の絶叫によって遮られた。
「どうして籠目陽奈ちゃんがここに!? あ、じゃなくて、いらっしゃいませ! っていうか、藍田ちゃん親しげ?」
「親友だそうよ~」
猿声の主は横尾だった。チケットカウンターの中から目を白黒させて、舞衣と陽奈とを交互に見比べる。アマネがその耳元で告げ口をしているが、もちろん彼女には聞こえていない。
二日酔いは続いているのか、虚ろな目の下にはひどいクマができている。顔面も蒼白だし、今にも倒れそうな勢いで、事実ふらりと壁に背中を預けるように倒れ込んだ。病人なら病人らしく、大人しくしていればよいものを。
舞衣はちらりとロビーを見渡した。流石にあれだけ騒げば、お客も何事かと興味深々だ。というか、思いっきり陽奈のことを紹介していたし。
短い時間で舞衣は取るべき行動を導き出す。横尾に抱きかけた優しい気持ちを、自分の心の安寧に振りなおすのが今は必要とされていた。
「休憩ですね。あとお願いします」
最敬礼四五度のお辞儀で後始末の全てを託す。彼女ならきっと何とかしてくれる。
「えー! せっかく遊びに来たのに行っちゃうの?」
「仕事中だから」
「えっと……さっきも聞いたけど、二人は知り合いなのかな?」
「親友、なんですって。私もそうなのよ」
「休憩入りまーす!」
もみくちゃに飛び交う言葉をすべて弾き飛ばして、舞衣はスタッフルームへと飛び込んだ。どっと疲れた。
いったい自分が何をしたっていうんだ。
いや……何もしていないわけではないが。ここまでの仕打ちを受けること……かもしれないが。何だって陽奈は、あんなに普通なんだ。いやいやいや、そもそもあれは――考え出せば、頭の中はぐるぐる迷宮入り。
一つだけハッキリしているのは、聞こえないのを知っていて、これ見よがしに告げ口を見せつけてくるアマネがムカつくということ。
舞衣は休憩室の扉を乱暴に押し開けて、ソファーの上で頭を抱えた。
「この数日だけで嫌いな季節ナンバーワンが更新されそう」
ため息の数で言えば、おそらくはとっくに更新しているだろう。その理由の半分以上がアマネであることを考えると、やっぱり一度こっぴどくとっちめた方が良いのかもしれない。そろそろ口臭対策用じゃなく、ファブリーズ的な何かで。もしくは、いっそのことゴキジェットを試してみるべきだろうか。
「今までのナンバーワンはなんだったの?」
質問が考えを乱す。ナンバーワンだって? そんなの決まっている。
「夏」
「私は好きなのに、夏」
「あり得ない。夏がくるだけで三キロは痩せるわ」
「えー、そのダイエット教えて欲しい!」
そこまで会話して舞衣は違和感を覚える。ずっとアマネだと思って適当にあしらって応えていたが、声が明らかに聞きなれたものじゃない。
いや、むしろこっちの方が聞き慣れているというか、耳になじむ。はっとして顔をあげた。
「夏と言えば、舞衣ちゃんが私の手を引いてくれた季節なのに」
僅かに開いた扉から顔だけ覗かせて、陽奈がそこに立っていた。
「何それ何それ、聞きたいわ」
正確には陽奈と赤いゴキブリがそこにいた。
「陽奈、ちょっと目閉じてて」
「えっ、何? 何?」
突然立ち上がった舞衣に、陽奈はうろたえながらも言われた通りに目を閉じる。それを確認して、扉の周辺にプロトンパックを乱れ撃った。
「あ、あー! い、いたたたたたた! いたいいたいいたい! ほんとにいたい! すみません、調子にのってましたぁ!」
痛みで空中を転げまわるアマネをさらに追い打つように、スプレーの倍プッシュだ。それはもう親の仇みたいに、ミント臭のシャワーを思う存分浴びせかける。
無言で。
笑顔で。
執拗に。
「あー! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 許して! なんでも! なんでもしますから! ほんとうに、なんでも! だから、あっ、あー!」
人間で言えばひーひー息を切らせた状態で、目元いっぱいに涙を浮かべて、アマネは懇願する。
ゾクゾクと胸をくすぐるような感情を抑え込んで、舞衣はひたすらにスプレーをプッシュし続ける。
「あのー、舞衣ちゃん? なんか、すごいミント臭いんだけど。もう目、あけていい?」
目を閉じたまま放置された陽奈が、おずおずと申し出る。彼女には恍惚の顔でスプレーする舞衣も、どたばた騒ぎのアマネも、その痴態も、何も見えていやしない。それはある意味、幸せなことなのかもしれない。
やがて薬液が尽きたのか、スプレーの空撃ちの音が辺りに響く。そこまでやってようやく、舞衣が口を開いた。
「ここにいて」
「え?」
「え?」
アマネと陽奈が同時に返事をする。もちろんそれはアマネにあてた言葉であり、命令だった。
さっき何でもするって言ったことに対する答え。そう言いたげな凄みをきかせて、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの少女霊を見下ろす。アマネが必死に首を縦に振ったのを見て、舞衣は視線を陽奈へと戻した。