「素晴らしい舞台挨拶だったわ!」
月曜日。パンフレットの在庫整理にいそしむ舞衣に、アマネは弾んだ声で語り続けた。
「昨日からさんざん聞いたよ、それ」
「何度でも聞いて欲しいのよ」
「勝手に話す分には壊れたラジオだと思って聞いててあげる」
「そうする!」
毎度のごとく軽くあしらう舞衣だったが、アマネは嬉々として返事をした後に、ふふんと鼻を鳴らした。それがこの上なく憎たらしくて、舞衣は普段はしないブラックなジョークでもかましてやりたい気分だった。
「そんなに日々をエンジョイして、とっくにこの世に未練なんてないでしょ」
「そんなことないわ。毎日がやりたいことばっかりで、肉の身体があればって常々枕をぬらしているもの」
「例えば?」
舞衣の問いに、アマネは少し考えてから艶っぽい吐息と共に答えた。
「そうね、一度くらい親子喧嘩をしてみたかったわ。そういうシーンを見るたびに、もっと家族に対して感情的になるべきだったかしらって後悔ばっかりよ」
「だからって、あたしを親代わりにしないで欲しいんだけど」
「あなたが親役なの?」
「精神年齢では間違いなくそうでしょ」
ふーん、とアマネの目が細められる。まさに子供がこれから悪戯をしてやろうっていう、そんな目だ。
「今日は機嫌がいいのね」
「そう? いつもと変わらないと思うけれど」
「さっきからずっと、ポケットに手を忍ばせているもの」
アマネが視線を下げた先で、舞衣のポケットがふくらんでいる。手を突っ込んでいるだけなのだが、指先にはアマネ撃退スプレーのボトルが常に触れていた。
「本当に機嫌が悪いときは、それ、使わないものね」
「そんなことないでしょ。ゴースト退治の大事なプロトンパックなのに」
「その程度で私は捕まらな――あー! ごめんなさい! うそうそ! 観念します!」
爽やかなミストが宙を舞って、アマネが足の小指でもぶつけたみたいにのたうち回った。
今や熟練した舞衣のスプレーさばきは西部劇の早打ちに等しい。抜き放った瞬間にスプレー口はアマネを捉え、ワンプッシュの後に確かな苦痛を与える。ビリー・ザ・キッドも顔負けな、スクリーンの外のガンマンだ。
「痛いだけで、成仏なんてされないんだから」
「つまり、こっちが満足するまでやって大丈夫ってことだね」
「すました顔で恐ろしいことを言わないでくださる?」
アマネがわりとマジなトーンで答えるので、撃退スプレーの効果は確かなものだと実感できる。このごろは、彼女の悲鳴にどこか心地よさを感じ始めていた。
いやな気配を感じ取ったのか、アマネは青い顔で身体を震わせた。
「と、ところで……あなた、陽奈ちゃんとお友達だったの?」
ちゃん、て。急になれなれしいのは舞台挨拶で本人に直接会ったからだろうか。
「そうだね……昔のことだけど」
舞衣は素直に答えた。嘘をついてごまかしたって、仕方のないことだと思った。
「その年で『昔のこと』なんて、私に対する嫌味かしら?」
「何年死んでるんだっけ」
「ざっと一〇〇年ほど」
アマネは何故か誇らしげに答える。
「なんか、絶妙に想像できる年代なのが嫌だわ。『きんさんぎんさん』くらいでしょ」
「流石に彼女たちとは母と娘くらいの差があるわ。年号だって違うんだから。私の時代は『はいからさん』だもの」
「古いんだか新しいんだか」
「主演は二代目スケバン刑事の南野陽子ちゃんよ。本人が歌う主題歌が大ヒットしたのだから」
「流石、年の功だね」
「もしかして馬鹿にしてる?」
「日ごろの行いを思い返して」
アマネは胸に手を当てて、明後日の方向を見上げた。
「毎日とってもハッピーだわ」
舞衣はいいかげん相手にし続けるのも疲れて、在庫表のファイルに目を落とした。
「一部足りない。誰かレジ通さなかったな」
二~三度数えなおしても数字が合わない商品があって思わず唸る。そう言えば千円近い売り上げの端数が出た日があったっけ。あの日か。
また業務ミス改善報告書という名の始末書を書かなければならないのを思うと、ちょっぴり憂鬱な気分にもなる。
「近ごろ多いわね」
「年末に向けてたくさん新人バイトを雇ったしね」
研修中のミスは仕方がない。結局のところ、映画館の仕事の大半は金勘定だ。チケットの売買、パンフレットやグッズの売買、飲食物の売買。
時代の波に乗ってフォレストでもキャッシュレス化は進んでいるが、それでも大半が現金払いである以上ミスは起きる。
とはいえ、アマネが言う通りここしばらく目立っているのも事実だ。いい加減、報告書に書く改善案のレパートリーも尽きかけている。これから忙しくなる前に、何か抜本的な処置が必要な時期なのかもしれない。
「いっそのこと自動販売機みたいに清算できたら良いのかしら」
「確かに大きな映画館じゃセルフレジ化が進んでいるけど」
言いながら、舞衣がぼんやりと思い返すのは子供の頃に母親と映画を見に行った時の記憶だった。
ポップコーンを塩が良いかキャラメルが良いかで決められなかった舞衣に、コンセッションのお姉さんが優しくハーフ&ハーフがあることを教えてくれた。量は多くなるが、私も食べるからと母親が買ってくれた。
食い意地が張った時期だったので舞衣は一人ですっかり全部食べてしまい、母親は少し拗ねていた。
その時のお姉さんはとっくに辞めてしまっただろうけれど、舞衣がフォレストの採用試験を受けた理由のひとつだったのは間違いない。
「私は、映画館の売り場には人が立っていた方が良いかな」
「まあ、気持ちはわかるわ」
ふたり意見が合えば話が終わる。しばらく、舞衣がパンフレットを数える音だけが響く。
「そう言えば、話は戻るのだけれど」
「戻すな」
静寂は舞衣にとっては安らぎだとしても、お喋り好きな幽霊にとってはそうでもないらしい。とっくに今の回の上映が始まっている時間のくせに、今日はやたらと会話をねだる。
彼女の何がそうさせているのか、舞衣はまったく興味がなかったが。
「陽奈ちゃんとお友達なのよね?」
「そうだけど」
「じゃあ、きっとあなたに会いに来たのね」
聞き流しの態勢に入っていた舞衣は、アマネの言葉を理解するのにいくらか時間が必要だった。だいたい、パンフレット九冊分を数えたくらい。それからようやく、言われた言葉を咀嚼しはじめる。
会いに?
誰に?
あたしに?
誰が?
「は?」
びっくりするくらい低い声と共に顔をあげる。そのままアマネの顔、アマネの目、アマネの視線を順に追っていった先にヒロインの立ち姿があった。
亜麻色の女性が自動扉をくぐる。吹き抜けた風は自然現象。暖房の効いた館内との気圧差で、外の銀世界をバックに髪とコートが舞い上がる。とっさに髪の乱れを手で押さえて、彼女はどこか愉しげに笑みを浮かべた。
ただそれだけなのに、やっぱり絵になる。それが住む世界の違いなのだと、舞衣は二度目にして理解した。