日曜日。穴埋めで朝から出社した舞衣は、モーニング上映の終わった劇場で清掃作業にいそしんでいた。
その周囲をいつものように赤い着物の幽霊が舞う。
「今日これからでしょう? 楽しみだわ。もう劇場には来てるのかしら?」
うきうきで声を弾ませるアマネを無視して、舞衣は、閉じられた席の座部をひとつずつ開いてはまた閉じていく。
上映時間の幕間はおよそ三〇分。遅くても一〇分前にはお客を通せるようにしなければならないため、混みあう週末は時間との闘いだ。
「前々から気になっていたのだけど、そのパタパタは何のためにやっているの?」
舞衣が返事をしないから不満なのだろう。アマネが話題の切り口を変える。流石にこれ以上放っておくと後が億劫なため、舞衣は手短に答えた。
「こういうところによく忘れ物があるの。財布とかスマホとか車のキーとか」
「へぇ、手間ね」
「手間でお金を貰うのが仕事だから」
「そうではなくて。忘れ物をしました、って言われてからでも良いんじゃないの?」
返事をしてくれたのが嬉しいのか、アマネは艶のある笑顔を浮かべて問いかける。
「なんだか二度手間に思えるわ。時間が永遠にあるのなら、その手間すらも一興だけれども」
毎度のことながら彼女の幽霊ジョークは回りくどいというか、僅かに考える時間を必要とする。相手にしていて疲れる理由の半分はきっとそれなのだが、言ってどうにかなるような相手ではない。
「次の回で誰かが座ってしまったら、もう誰の落とし物か分からなくなるでしょう。そうなっていざ問い合わせがあった時の本人確認の方がよっぽど手間だから」
「そういうものなの?」
「そういうもの」
ふぅん、とアマネは納得したようなしてないような曖昧な相槌をうつ。
「でも、そうしたらここじゃ『お嬢さん、落としましたよ』なんて、落とし物から始まるロマンスも夢のまた夢ね」
「それって目の前に落とした人がいるから成立するもんじゃないの?」
「僅かな手がかりからその持ち主を思い描いて、知らず知らずのうちに恋をしているとか素敵じゃない。そしてついに出会ってからのハッピーエンドよ」
「そうやってストーカー被害にあう映画あったね。スマホ落とすやつ」
「なんでもホラー映画に結び付けないでくださる?」
「あれってサスペンスじゃないの?」
もっとも、そんなことはどうでもいいけれど。アマネは依然として「落とし物恋愛」の良さをとうとうと語り続けるが、舞衣の頭の中ではとっくに上の空だった。
『藍田ちゃん、インカム取れますか?』
掃除が終わりかけたとき、耳につけたインカムのイヤホンから横尾の声が響く。普段であればアマネとの無為な会話を切り上げる救世主となる通信だが、今日に限っては取りたくない気分の方が勝っていた。
とはいえ返事をしないわけにもいかず、僅かに時間を置いてから通話ボタンに手をかける。
「今、一番シアターの掃除をしています」
『マイクの音量を確認したいから、事務室から持って行って繋いでくれる?』
視線に気づいた舞衣は、ふと顔をあげる。すると映写窓から横尾が手を振っていた。
OKの返事代わりに手を振り返して、舞衣は重い足で事務室へと向かう。その後ろをアマネが当たり前のようについてくる。
「なんでついてくるの?」
「なんでって、籠目陽奈に会えるかもしれないじゃない」
「あんたね――」
悪びれずに答えた彼女に言い返そうとして、代わりにため息だけを吐き捨てた。こんなところで余計な体力を使いたくない。それくらい今日の舞衣の体調は最悪だった。
アマネはお金も払わずに我が物顔で映画を観るくせに、あくまでもお客としての行動範囲を逸脱しない。これまでは、勝手にスタッフオンリーのスペースに立ち入る事はしなかった。壁も扉も彼女にとっては無いにも等しいのに。
だが絶対に入らないというわけではなく、条件付き――舞衣に同伴するという状況でだけ、その行動を自分に許している。
アマネ的にはそれで許可を取っているつもりらしいが、もちろん舞衣は口に出して許したことはない。どうせ、誰にもバレやしないのに。その中途半端な律義さは、舞衣が認めるアマネの中の数少ない信用ポイントである。
「まだ来てないよ」
「私、自分で見たものしか信用しないの」
じゃあ何で聞いた。いやいや、気にするな、気にするな。舞衣は眉間に寄った皺を人差し指で無理やりほぐす。ゲストは支配人の車でこっちに向かっている、というのはさっきインカムで聞いた確かな情報だったのに。
事務室につくと、目的のマイクがドアの傍に用意されていた。電源を入れてみてバッテリーがあるか確かめている間、併設された映写室からは普段の環境ユーセンとは違ったBGMがついたり消えたりを繰り返していた。
おそらくイベント中に流す曲のチェックをしているのだろう。すべてのマイクがちゃんと充電済みだったのを確認して、舞衣は事務室を後にする。アマネがつまらなさそうに唇を尖らせた。
「本当にまだ来てないのね」
「だから言ったのに」
「今流しているあれ、クレジットの曲よね。いい加減、映画は見たの?」
「忙しくて見てない」
「ええ!? それじゃあ、舞台挨拶を聞いても仕方がないじゃない!」
「いや、職員は立ち会わないし」
イベントのプレゼンターは支配人が担う。進行中の雑務は横尾と別の契約社員が引き受けることになっていたので、舞衣を含む他の社員やバイトスタッフに求められるのは、フロアのお客さんのスムーズな誘導ぐらいだ。
劇場のロビーは、既に沢山のお客さんでごった返している。中には売り出し中の若手女優を一目見れるのではないかと訪れた野次馬も混ざっていることだろう。残念ながら、基本的にバックヤードや非常通路を利用して移動して貰うので、露骨な出待ちでもしないと目に触れることすらない。
だが、これだけの人が一挙に集まることはそうそうない事なので、劇場側のキャパシティは限界ぎりぎりだった。
『すみません! ロビーはもういっぱいいっぱいです! 開場はまだですか?』
表の対応中と思われるスタッフの、悲痛に似た声がインカムに流れる。横尾が落ち着いた口調でそれに応えた。
『ごめんなさい。まだ準備中です。藍田ちゃん、マイクは?』
「今、持っていきます」
舞衣は慌てて劇場まで駆け下りる。早いところ入場を開始できる状態にしなければ、本当にあらゆるものがパンクしてしまいそうだ。
ふと頭をよぎったのは、横尾の他にもう一人いるはずの担当スタッフはどこへ行ったのかということだ。こういう、会場の準備作業はその人の役目じゃないのか。そうしたら自分もロビー対応の応援に行けるのに。
思わず口に出してしまいそうになった毒を、舞衣はギリギリのところで飲み込んだ。それを受け止めることになる相手が、スタッフ通用口の先に見えたからだ。
たったいま舞衣が必要としていた同僚は、にこやかな笑顔で集団を引率している。その中に、舞衣は冷たい魔女の気配を感じ取った。
事務室まで引き返したい。だが一刻も早くマイクを届けなければならない。自分と仕事とを天秤にかけた結果、舞衣の選択は仕事以外になかった。
「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
失礼がないよう挨拶だけしながら、足早に集団の脇をすれ違う。
集団の中ごろにいた男性に、舞衣は軽い面識があった。映画監督の筒井慎一。この劇場を訪れるのは二度目のことだ。前作の舞台挨拶で訪れたのが一度目のこと。その時のイベント担当スタッフは、他でもない舞衣だった。
当時、入社一年目だった舞衣は、思いつく限りの接待に尽力した。その甲斐あってか滞在中はいたく上機嫌で、イベントトークたいそう盛り上がったらしい。
ただ舞衣はその献身的なサービスで監督に個人的に気に入られてしまったようで、打ち上げの席に執拗なご指名を受けてしまった。どうしてもというのなら仕事と割り切ることもできたが、高校を出たばかりの身としてはいくらかの不安もあった。結局、未成年だし酒の席には――という理由で丁重にお断りをすることになった。もっとも、舞衣がそれを言うに言い出せずにいたところを支配人が察して、嫌われ役を買って出てくれたのが大きい。その時から、イケおじが映画やドラマの中だけの存在でないことを舞衣は信じることにした。
今回、実績のある舞衣がイベント担当から外されて、休日サイクル上とはいえオフを与えられていたのも、そういった状況を汲んでのことだろうと解釈していた。
「おっ、久しぶり。今回もよろしくね」
すれ違いざま、舞衣のことに気づいた監督が笑顔で手を振った。細身の体にダウンコート、ハンチング帽、そして無精ひげ。いかにも業界人な雰囲気だ。
流石に無視はよくないので、舞衣は一応足を止めて「よろしく尾根委がします」と社交辞令だけ返した。それから足早に立ち去ろうとしたものの、つい監督の隣を歩いていた女性と目を合わせてしまった。
舞衣は思わず息をのむ。
驚いたとかいうわけではなく、その瞳の輝きに、鼻はもちろん、口も、皮膚すらも呼吸することを忘れてしまった。
彼女は舞衣に合わせて礼儀正しく会釈を返す。栗色に染まったショートボブの髪の毛がサラサラと揺れ、頭を上げた時に僅かに頬に掛かったままの髪の束を、指先でそっと戻す。
たったそれだけの仕草なのに、どうしようもなく目を奪われてしまった。
本当は、彼女と自分の間にスクリーンがあって、盛りに盛った映像を見せられているんじゃないだろうか――それくらい圧倒されて、舞衣は立ちすくんでしまった。
なんてことはない挨拶を終えた栗色の女性は、何食わぬ顔で集団の中でひときわ華を咲かせる……が、突然はたと足を止めた。次に振り向くのは一瞬。今度は、見とれているような余裕はない。
舞衣はようやく息を吸い込んでから、彼女がこちらに気づく前にと先を急ぐ。
「待って!」
日ごろからレッスンを積んでいるんだろう、美しく通る声が舞衣の背中に刺さる。舞衣は聞こえていないふりをしてシアターへと急いだ。
栗色の女性は、戸惑った様子で去っていく背中を見送った。声をかけようと伸ばした手が、宙を泳ぐ。
「舞衣ちゃん……だよね?」
籠目陽奈は、五年前と同じ声色でその名前を呼んだ。