舞衣がすべての業務を終えて事務室に上がったころには、そろそろ日付が変わろうかというころだった。
部屋ではかつて『貞子VSゴーストバスターズ』論争を繰り広げた横尾が、パソコンとスマホを交互ににらめっこしながら頭を抱えていた。
「藍田ちゃん、良いところに」
タイムカードを切りかけた舞衣を、横尾は呼び止める。ロバート・デニーロみたいなおどけた困り顔を浮かべる彼女を見て、舞衣はなんとなく嫌な予感がしていた。
「今度の日曜日、もう予定入れちゃった?」
「日曜ですか……いえ、残念ながら」
「おー、じゃあさ、申し訳ないけど仕事出られないかな?」
たいして上がってもないテンションがガタっと下がる。正社員である横尾は、この劇場の言わば人事担当だった。そんな彼女から予定を聞かれる時は、決して飲みや遊びのお誘いなんかではなく、シフト調整の相談以外ありえない。
次の日曜日と言えば、舞衣は休日サイクル上でオフの扱いになっていた。とはいえ特に入れる予定はなく、溜まっているドラマでも見ようかと思っていたくらいだ。
「イベントがあるし、結構な人数が入ってましたよね。イレギュラーですか?」
「それが、バイトちゃんがインフルに掛かっちゃったみたいでさ。それも二人同時に」
「ああ……」
インフル。その四文字を聞いた瞬間、舞衣は僅かに見せようか迷っていた抵抗の姿勢を完全に諦めた。
契約社員であるところの舞衣は、シフトの穴埋めも仕事のひとつであることは理解している。社員と名はつくが、結局のところは月給制のアルバイトみたいなものだ。
もちろん売り上げやグッズの在庫管理など、パート以上の責任のある仕事も任されているものの、最大の役割はシフト表の屋台骨になることだというのがもっぱらの認識だ。
業務の一環と考えればシフト調整自体に思うところはない。ただ、できれば次の日曜日だけは、休みのままが良かったというのが素直な本心だった。
「えっと……そうだな、火曜日は人が足りてるから、ここ代休にするからさ」
「ああ……はい、良いですよ。ただイベントのことはまったく関わってなかったので、表の仕事に回して貰えれば」
舞衣はせめてもの思いでそんな条件を付け足す。「表」と言うのはこの場合、窓口対応や場内清掃など、接客を基本とした普段の劇場業務の事を言う。
横尾も納得した様子で頷いた。
「むしろそれをお願いしたかったんだ。支配人も私も、準備とゲスト対応で掛かりっきりになるだろうからさ」
「支配人も来るんですね。流石、初動ヒット作」
「今年一番の大行事になっちゃったからね。流石に顔を出さないわけにはいかないよ」
フォレストにも責任者として支配人が在籍している。舞衣も一緒に仕事をしたことがあるが、ロマンスグレーが似合うナイスミドルなおじ様だった。
グループの別の支店と掛け持ちをしているいるため、常に居るというわけではない。むしろ、いわゆる本社オフィスがそちらの方にあるため、舞衣の働く支店に居ることの方が少ないくらいだ。
そういうこともあり、普段の劇場運営に関しては、数少ない正社員である横尾と舞衣をはじめとした契約社員たちで取り仕切る場合が多い。支配人が一日中劇場にいるのは、横尾がオフの日くらいで、それ以外は日に一度、見回りがてら顔を出すかどうか程度である。
「ほんと助かったよ。それじゃ、日曜日よろしくね」
「はい。お疲れ様でした」
挨拶を交わして、舞衣はタイムカードを切る。ちょうど日付が天辺を回ったところだった。
舞衣が車を走らせて家につくと、細かな雪がちらつき始めていた。
藍田家は駐車場に屋根がないので、車のワイパーは忘れずに上げなければならない。そのままにしておくと、氷点下のフロントガラスに凍り付いて、翌日えらい目にあってしまう。
隣に並んだ父のセダンのも下がったままだったので、一緒に上げておいた。
「ただいま」
白い息を吐きながら家に入り、玄関先でうっすらコートに積もった雪を払う。すると、鼻先をほんのり線香の匂いがかすめた。
廊下の傍ら、仏間の戸の隙間から光が漏れている。舞衣はそれを素通りして、リビングへと向かった。
「ただいま」
「おかえり。雪、降ってたか?」
仏間とリビングを繋ぐ敷居からスウェット姿の父親が顔をのぞかせる。舞衣は食卓に鞄を置いて、真っ先にお風呂場の方へと向かった。
「んー……少しだけ。ワイパー上げといたよ」
「ああ、忘れていた。ありがとう。冷蔵庫にお酒あるぞ」
「ほんと? やったね」
追い炊きのスイッチを入れた舞衣は、とんぼ返りで戻ってきて冷蔵庫を物色する。
「あ、これ最近CMやってるやつ。飲んでみたかったんだ」
並んだチューハイ缶の中から目ざとく新しい一本を見つけると、さっそく口をあけた。
「今飲むのか?」
「まだお風呂炊けてないし。おいしいものはいつ飲んでもおいしいし」
「やっとお酒が飲める歳になった娘の言葉じゃないな」
呆れた様子の父親をよそに、レモン風味の酸味と苦みを飲み下す。後を追うように炭酸が喉の奥で弾けて、舞衣は心地よさそうに顔をしかめた。
最初のひと口を楽しんだあとは、ひとつに結っていた髪を解いてから食卓の椅子に腰を落ち着ける。髪を手櫛で整えながら鞄を漁り、感触だけでスマホを引っ張り出す。
テーブルに置いた缶の中で、ぱちぱちと活きの良い炭酸が踊っていた。
「お歳暮の燻製があるぞ」
「あー……今日はいいかな。成人式に向けて絞ってるんだ」
「そうか。食べたくなったら好きに開けなさい」
「わかった。ありがとう」
「じゃあ父さんは先に寝る」
「はーい。おやすみ」
スマホを見ながら、リビングを出ていく父親に手を振る。開いていたのはSNSのタイムラインだった。
今週の日曜日は、なんと『シリウスを見上げて』の監督・筒井慎一さん。
市内出身の主演・籠目陽奈さんがフォレストに来館!
作品の魅力や裏話をたっぷりお聞きしちゃいます!
チケットは完売してしまいましたが、
ご来場予定の方は楽しみにしていてくださいね!
(横尾)
「横尾さん、まだやってる……お疲れ様」
トップに真っ先に現れたのは、つい今しがた投稿された職場アカウントの書き込みだった。届かない言葉の代わりに拡散だけして、舞衣は他のタイムラインに指を走らせる。
新作映画の宣伝。芸能人の日常の書き込み。高校時代の友人の、大学生活の書き込み。
画面の流れに沿って目を通してから、やがて指先は検索タブに伸びた。「か」と最初の一文字を入力した瞬間、検索予測のトップにその名前は表示される。
籠目陽奈――飾り気のないアカウントをタップすると、それまで雑多だったタイムラインは彼女の書き込みで埋め尽くされた。
今週末は舞台挨拶で地元の映画館にお邪魔します。
こういう機会で地元に帰るのは緊張します。
作品の魅力をたっぷりお話ができればと思います!
最新のツイートは、日中に更新されたそれだった。一緒に近影の写真が投稿されていたが、舞衣は流し見るように画面を滑らせてからアプリを閉じた。
いつのまにか、リビングいっぱいに漂っていた線香の香りはかすかなものになっていた。
寝る前に線香をあげるのは、この五年間欠かしたことがない父の日課だ。火をつけて消えるまでのおよそ二〇分。父は日記をしたためるように、その日の事を母親に語って聞かせる。
父親のことをどちらかと言えば寡黙な方だと捉えていた舞衣は、その姿を見たときに驚いたし、違和感も覚えた。だが母親のいない生活が日常になったころには、そんな父親の姿も当たり前になっていた。
それくらい母親の遺影はとても聞き上手だった。
「お父さんって、再婚相手とかいないの?」
三回忌を終えた日、舞衣はふと父親に尋ねたことがあった。別に探りを入れるとかそういう意図はなく、単なる雑談としてのつもりだった。
「もうそういうのを考える歳でもないからな」
父親はちょっと困ったような顔で答えた。表情の意図ははかりかねたが、本心をごまかしているようなていでもない。
舞衣は線香をあげながら、写真の母親に笑いかけた。
「お父さんの相手は生涯ひとりだけだってさ。おかーさん、幸せもんだね」
実際これまで父親から新しいお母さん候補を紹介されたことはないし、きっとこれからもないのだろう。
だから高校の学期終わりの進路希望調査で、舞衣は大学進学という父親の勧めを蹴って、第一希望に「就職」の二文字を書き入れた。
もちろん父親は強く説得したが、舞衣は決して折れることがなかった。たいして生きていない中でも、高校は出なければならないというのは分かる。具体的になぜなのかは分からないにしても、世間の当たり前に反抗するほどロックな生き方は望んでいない。
だが大学に関しては別だ。とくにやりたい事はなかったし、学びたいという分野もない。高校は行かなければならない場所、大学は行きたければ行く場所とするならば、行きたくない舞衣の頭に進学の選択肢は初めから存在していない。
とりあえずで行くくらいなら、今後一生付き合っていくお金を、ちょっとでも早く稼いだ方がいくらでも有意義に思えた。
だから高卒という苦しい条件の中で雇ってくれた今の職場には、大きな恩を感じている。
舞衣はおもむろに立ち上がって、チューハイの缶を片手に仏間へと向かう。リビングから差し込む光を頼りに蝋燭を灯すと、線香に火をうつして香炉の灰に立てた。
時間も時間なのでお鈴は鳴らさず、写真立ての笑顔をみつめる。父親と違って舞衣には遺影に語るほどの日常はない。アマネの事なんか語っても仕方がないし、自分の気分が悪くなるだけだ。
何も言わずに手を合わせる。ふたたび漂い始めた線香の香りの中で、お風呂場のブザーが追い炊きの終わりを告げた。