天才なのは当たり前。その上でどれだけの努力を積み重ねたかが勝負の鍵となる。
そんな事実に気づいたとき、葵玲奈は思わず視線を落とした。
「あぁー!! また負けたっすー……!」
「まだまだ終盤の寄せが甘いわね。後半につれて集中力が途切れてるわよ?」
県大会に向けて真才の特訓が開始された頃、葵は本格的に特訓するための準備運動として、東城と計10回の練習対局を行っていた。
そしてその結果は10戦1勝9敗。葵が9回も負けるという大惨敗を喫していた。
その途中でなんとか勝ち取った1勝も、東城がたまたまミスをして偶然勝ちを貰った試合である。
「はぁ……実力が違い過ぎるっす……」
かつては実力でねじ伏せようとしていた相手にも関わらず、実際に戦ってみればその壁がどれだけ大きなものだったかを理解させられる。
葵の想像する東城の棋力は、高く見積もっても自分より1つ上くらいの段位。あれから成長していたことを考慮しても1つ半くらいの差だろう。
……初めはそう思っていた。
しかし、実際に戦ってみれば2つも3つも差がついている。いや、そもそもどれだけの差が開いているか分からないくらい底が見えない。
東城の棋力は、葵の思う想像の数倍かけ離れていた。
東城の棋風も指し手も至極平凡なもの。しかしその正確性は膨大な勉強量からくるものであり、不動の如く安定した将棋である。
対峙してみて初めて分かるそれは、まさしくプロの器たる硬派な戦い方だった。
しかも、最近では真才の指し手を真似ている片鱗が垣間見え、かつての硬派な戦い方に僅かなキレのある鋭さが混ざっている。
これが覚醒したら一体どんな鬼才へと変貌するのか、想像するだけでも恐ろしい。
「……それで、こっちはこっちでバケモノっすか」
そういって葵は隣に目を向ける。
そこには、来崎と真才が二人でPCと睨み合いながら小難しい話を繰り広げている姿が見えた。
来崎はもうワンステップ先の指導に移っており、現代ならではの先の先まで考える新手研究、いわば定跡の詳細、次善手を確認する作業へと入っていた。
あの自滅帝と対等に話せる人物なんてそれこそ一握りだろう。まるで出来て当然のように盤の符合でペラペラと話す自滅帝に、来崎は一切の後れを取ることなく言い返している。
まさに天才だ。互いにネット将棋という舞台で活躍していた感性があるからか、二人とも楽しそうに研究をしている。
そんな姿に少しだけ妬いてしまう自分に、葵は思わずため息を零してしまった。
──右も左も天才だらけ。天才たちに囲まれる中、自分だけ特筆した才能がない。
「はぁ、アオイにも才能があれば、東城先輩にもう少し善戦できたんすかねぇ……」
思わず吐露してしまったそんな言葉に、東城は首をかしげながらこう返した。
「何言ってるの? この中で一番才能あるのは葵、アンタでしょ?」
「……え?」
※
ついに幕を開けた黄龍戦県大会2日目、最終日である。
前大会優勝者である中央地区を除き、残り4地区はまだまだ熾烈な争いが続く。
初戦で負けてしまった東地区と北地区、そして初戦を勝ち切った西地区と南地区で2回戦が行われる。
特に後者はこの試合で決勝進出への枠が決定するため、会場入りした瞬間からピリついた空気感を出していた。
「……」
「……」
西地区と南地区の選手達は、互いに顔を合わせても何も言葉を発さない。
昨日の和やかな雰囲気からは一転、全員が戦場に立っていることを自覚しているのは西地区。絶対に勝てる自信を持っているのは南地区だった。
「……っ」
南地区、天王寺道場──。その強さを真に理解している葵だけは、南地区と相対して冷や汗を流していた。
「緊張してるの?」
横で見ていた東城が心配そうに声を掛ける。
「……大丈夫、平気っす!」
葵は無理に笑顔を作りながらそう返す。
そんな葵の様子を見て、佐久間兄弟や部長である勉も心配そうな視線を向けるが、真才だけは僅かに口角を上げて自分のことだけに集中していた。
(大丈夫、私なら出来る。東地区との戦いでも上手くいった。だから今回も絶対に上手くいく)
葵はなんとか平常心を保とうと、自分にそう言い聞かせる。
相手は稀代の神童と謳われた天才少女、柚木凪咲。今の天王寺道場の中枢を担う実力者でありながら、彼女の噂はほとんど世に出ていない。
何故なら、彼女が将棋を始めたのは僅か3年前。天王寺道場に入ったのはたったの10ヵ月ほど前だからである。
それほどの短い期間で天王寺道場のトップに君臨した凪咲はまさしく天才、恐らく新生の秘宝、時代の寵児である『第三世代』と言えるだろう。
彼女がここまで強くなった原因は明確だ。もちろん本人の才能によるものも大きいのだろうが、彼女の成長を著しく上げたのは、彼女を指導する天王寺魁人のズバ抜けた指導力によるものだ。
天王寺の看板を創り上げた天王寺玄水、伝説と呼ばれたその老人の正当な後継者である天王寺魁人もまた、親の血を引いた類稀なる指導者なのである。
一時は潰れかけていた天王寺道場を、たったの1年余りで復興させたその手腕は聞くまでもない。
そんな天王寺魁人によって磨かれた柚木凪咲という原石は、瞬く間に光を解き放って天王寺道場の主戦力と成り上がった。
今葵の前に立っているのは、今も成長を続けている才能の塊。これから天才、天才と、祝福喝采される未来が待っている神童である。
──果たして勝てるのか? それほどまでの天才に。
そう考える葵の脳裏に、ある言葉が過ぎった。
『葵、もっと将棋を──』
それは不安をかき消すための言葉。将棋に向き合うための考え方。言ってしまえば特にこれといった意味は込められていない単純な言葉。
──しかし、それは葵玲奈の全てを始発させた言葉でもある。
その言葉を思い出した葵は、それまで緊張していた表情を変え、猟犬のように狂い笑った。
「……分かってるっすよ、ミカドっち。勝ち負けなんて二の次っすからね……!」
並ぶまもなく席に着く各地区の選手達。
互いに目線を合わせることもなく盤上に視線を向けた各々は、大会スタッフの開始の合図とともに己の全てを出し始めた。
──これが、後に伝説を築く葵玲奈の初戦である。