温泉に浸かってポカポカに癒された俺は、そのポカポカが消えてしまう人物と遭遇していた。
「……」
「……っ」
深々と頭を下げる明日香に、俺は心底嫌そうな顔をして魁人と目を合わせる。
「……もう一度聞く、なんのつもりだ?」
「いやっ、これは、あの……あたしが……その……」
明日香は頭を下げ続けるばかりで、その肝心な理由を説明しない。
まぁ、前後の関係からある程度の推測はできるが、それを俺が汲み取ってやる義理はないし、話に応じる理由もない。
全てが終わった後の謝罪ほど価値のないものはないだろう。
「行こう」
「おう」
俺は魁人を一瞥して、頭を下げ続ける明日香の横を通り過ぎた。
「ま、まって!!」
すると明日香がぐるりと回って再び俺達の前に立ち、両手を広げた。
そして覚悟を決めたのか、焦燥した顔で自らの罪を告白し始めた。
「あ、あたしがやったの……あんたが不正をしたってネットに書き込んで、それで、こんなことに……ご、ごめんなさい!」
明日香は再び頭を下げた。
「……」
俺は感情の籠ってない瞳で明日香を見る。
なるほど、環多流が俺個人を陥れる理由が少し欠けていると思っていたが、明日香の書き込みを体よく利用していたのか。どうりで真に迫っている感情的な批判が多いと思った。
……だが、俺にはこの謝罪の意味がよく分からない。
その人に悪気がなければ、やってしまったことへの謝罪は意味を通すだろう。だから俺は東城の謝罪も受け取ったし、魁人の謝罪も受け取った。葵の所業は許したし、隼人の気持ちも理解した。
だが、悪意を持って事を起こした人間の謝罪には一体何の意味がある?
俺にはよく分からない。
「言いたいことはそれだけか?」
「えっ……?」
「もう用がないならどいてくれ」
今さら明日香の謝罪を受け取れない俺は、それ以上何も言わずに明日香の横を通り過ぎようとした。
そのことに一瞬キョトンとした明日香は表情を明るくして。
「あの、じゃ、じゃあ、許してくれるってこと……!?」
そんな思いがけない一言が、後ろから飛んできた。
「は?」
今日一番の殺意の籠った俺の目が、未だ自分の立場を理解していない明日香を睨んだ。
……一体こいつは、何を言ってるんだ?
「お前……」
魁人が呆れた瞳で明日香を見下ろす。
明日香はどうして自分がこんなにも睨まれているのか分かっていない様子で、あたふたしている。
──論外だ。
俺の何をバカにしようと、陰で悪口を叩こうとその人の勝手だ。俺はそのことに関して意を述べたりはしない。仕方ないとか、自分にも非があるとか、そんな理由をつけて"別に構わない"の一言で済ますだろう。
だが、こと
俺は将棋に関して努力を怠ったことは無い、手を抜いたことは無い。全身全霊、全力を尽くして今日この日までやってきたと胸を張って言える。それくらいの想いを持って人生を懸けてやってきたんだ。
それを否定した人間を許すなんてできるわけがない。一度ならず二度までも、俺の人生を狂わそうとしたんだ。
もし俺が自滅帝じゃなかったら、もしくは自分が不正をしていないと証明できなかったら今頃どうなっている?
東城たちにも迷惑をかけ、"約束"も守れず、身に覚えのない冤罪で人生を落とされていたかもしれない。
そんな未来、考えただけでもぞっとする。
「──俺、二度とそのツラみせるなって言ったはずだけど」
「それは……っ」
「散々人を……あぁ、いや、こんなこと言っても意味ないか」
俺はその言葉がただの鬱憤晴らしなことに気づき、事の発端には何ら興味を抱いていないことを自覚して踵を返す。
結局、こうやって余計な言葉を省いていったから、俺は陰キャになってしまったんだろうな。
無意味な言葉であっても、無価値な言葉であっても、それを紡ぐことで会話は成立する。必要最低限の言葉しか発していなかったら、それはロボットと同じだ。
だから段々口数が少なくなり、誰とも喋らなくなり、次第に周りから影の薄い人物として扱われるようになった。
でも、今の俺は会話をしている。会話ができる仲間がいる。
そんな俺が目の前の女と会話をする理由は……特に何も思いつかなかった。
「ちょ、ちょっとまって……! まだ話は……っ!」
その言葉が俺に届くことは無く、俺と魁人は明日香の制止をスルーして自分の部屋へと戻っていった。
※
渡辺真才の正体が自滅帝だと聞いて、驚かない人物がいた。
それは南地区のエース、天王寺魁人である。
彼は天王寺道場の新しい後継者、現役の師範であり現役の将棋指しだった。そのため渡辺真才が過去に天王寺道場に所属していたことを知っており、その実力が凄まじいことを理解していた。
「先生! 先生の次の相手は凄く強いって聞きましたけど、大丈夫ですか?」
夜食時、天王寺道場の一番弟子である凪咲は無垢な顔でそう問いかける。
「そういえば、お前は自滅帝を知らないんだったか」
「はい! ネット将棋自体あまりやらないもので……」
各々が研鑽を積んで強くなる中、圧倒的な才能の暴力で成長していった凪咲は、世間の将棋に対する知識が未だ疎い。
それでも、単純な棋力だけなら遊馬環多流を軽々と超えるほどに強く、また成長のスピードも他の将棋指しと比べて規格外に早かった。
「自滅帝はネット将棋界の怪物、バケモノだ。隣に並ぶものがいないと言われ、恐れられ、そして多くの者を魅了している。棋士が行きつく最後の目標、それに最も近しい存在と言っても過言じゃないな」
「ほえー……そんなにも凄い存在なんですね……!」
普段あまり人を褒めない天王寺魁人から出た絶賛の言葉は、それだけで自滅帝の価値を大幅に上げるものであった。
自滅帝──ネット将棋界最強のプレイヤー。レート3000を超え、前人未到の100連勝、そして十段を達成した異次元の存在。
だが、それでも天王寺魁人の目は勝機に満ちていた。
「切れ負けや秒読みなら俺は負けるだろう。だがこの大会の持ち時間は40分の40秒だ。長考は人の思考の本質を表す。俺と自滅帝に瞬発的な棋力の差があったとしても、それが長期化されればその差は埋まっていくものだ」
刹那の見切り合いであれば負けるかもしれないが、剣戟の後の鍔迫り合いであればその限りではない。
天王寺魁人は己の棋力と自滅帝との棋力に、上を見上げるほどの差がないことを理解していた。
「俺はこの時のために青峰龍牙との戦いを避けたんだ。向こうは少なからず東地区とのエース対決で疲労している。体力的な面でも十分な勝負ができるはずだ」
「わぁ、さすが先生です……!」
キラキラと輝いた瞳で見上げる凪咲。
そんな弟子の様子に、天王寺魁人は思わず凪咲の頭を撫でて尋ねた。
「凪咲、お前の相手は葵玲奈だな。対策はできているのか?」
「はい! 問題ないです! 確か、元天王寺道場に入っていた方なんでしたっけ?」
「ああ、そうだ。お前にとっては姉弟子にあたる存在だな」
「ではより一層気を引き締めなくちゃですね……! では食べてきます!」
凪咲は両手を引いて気合を入れるポーズをとった後、空腹に我慢できなかったのか夜食に飛びついていった。
「食いしん坊だな……」
そんな様子を天王寺魁人は見守りつつ、また自らも食事に手を付けていくのであった。
『【黄龍戦・団体戦】について話し合うスレPart97』
名無しの620
:自滅帝の正体バレの話題ばかりで大会どうなってるのか全く分からないんだけど。東地区との結果はどうなったの?
名無しの621
:>>620 誰も話題にしてないんだから察しろ、圧勝や
名無しの622
:>>620 全勝
名無しの623
:>>620 7勝0敗で西地区の勝ち
名無しの624
:>>623 マジかよw
名無しの625
:>>623 全勝とか草
名無しの626
:>>623 自滅帝以外もバカつえーじゃねぇか!w
名無しの627
:西地区の優勝予想できたやつおる~?w
名無しの628
:>>627 まだ南地区と中央地区が残っとるやろ
名無しの629
:>>627 正直いくら自滅帝が強くても今の南地区には勝てないと思う
名無しの630
:そもそも自滅帝ってそんな強いんか?いっても最強なのはネット将棋だけだろ?
名無しの631
:まぁ確かに、ネットで最強でもリアルでトップとは限らんからな
名無しの632
:ていうか早指しで強いだけだしな。40分将棋で戦えるかは別
名無しの633
:お前ら自滅帝を甘く見過ぎやろ
名無しの634
:自滅帝を知らないからそんなことが言えるんだわ……
名無しの635
:自滅帝の強さが分からん奴はマジで一回くらい将棋戦争で自滅帝の棋譜見て来た方がいい
名無しの636
:十段の凄さが分からない奴はさすがにエアプ
名無しの637
:>>636 何がそんなにすごいの?
名無しの638
:>>636 プロ棋士が将棋戦争本気でやっても八段なんだわ
名無しの639
:>>636 現役奨励会員が七段やぞ
名無しの640
:>>636 あの
名無しの641
:>>638-639-640 は?じゃあそれ絶対不正しとるやろ
名無しの642
:>>641 それがしてないんだよなぁw
名無しの643
:>>641 してないからこんだけ注目されてんだよ
名無しの644
:>>641 渡辺真才の時も同じ流れだったじゃねぇか、少しは学べよ
名無しの645
:>>641 こうして渡辺真才叩きが始まったんだと思うとネットの闇が垣間見える
名無しの646
:>>641 自滅帝が不正……そんなことを言われていた時期もありましたね……
名無しの647
:>>641 お前は自滅帝の本当の恐ろしさを知らない
決戦の日である2日目を前に、掲示板では深夜まで様々な議論が行われていく。
そして黄龍戦は、いよいよ最終日となる2日目を迎えることとなった。