時代の移り変わりは必然で、古きは踏破される運命にある。
柚木凪咲の才能は他を圧倒するほど飛びぬけていた。
天王寺道場の敷居をまたいで僅か半年、道場の生徒達を全員倒せるレベルにまで成長し、自他ともに天王寺の主力へと成り上がる。
まさに天才。純粋無垢な天才である。
しかし、そんな凪咲にも唯一越えられない壁があった。
道場の入口の壁に立て掛けられた段位を示す名札。その中の全ての生徒達を凌いで『四段』という場所に名札を掛けられていた凪咲は、その隣にある空白の傷跡を目にする。
既に名札は取られているが、以前までは誰かの名前が掛けられていた跡が残っている。
──これは、凪咲にとって初めて、自分より上がいると実感した瞬間だった。
後日そのことを天王寺魁人に尋ねると、その名札の持ち主は今も大会で活躍している『葵玲奈』という少女であることを知った。
その少女は天王寺玄水が最後に教えた生徒であり、その後継者である天王寺魁人ですら詳しいことはよく知らない。
ただひとつ言えるのは、葵玲奈の棋風は天王寺玄水の全てが込められた鬼才の棋風であるということ。
彼女が道場を去るまでその棋風が完成することはなかったが、確かな片鱗を残して去っていったことは確かだった。
──天才とは、往々にして爪痕を残す存在である。
凪咲の成長は止まらなかった、留まるところを知らなかった。
天王寺道場の師範、天王寺魁人にすら届き得るその才覚は、今や南地区でも頭一つ抜けた存在である。
たった10ヵ月という期間でありながらその棋力は大幅に飛躍しており、今や凪咲の名札は『六段』の場所に掛けてあった。
その棋力は既に葵玲奈を超えている。超えてしまっている。
凪咲にとって、葵の存在は既に過去の天才だった。
移り変わる時代に古き戦術はついてこれない。それが今の、現代の将棋の真実だからである。
仮に衝突する日が来るのなら、そこで正しく格が付くであろうと。
※
凪咲の考えは当たっていた。
黄龍戦の県大会、二回戦。葵玲奈と対峙した凪咲は、彼女の指し手を軽く受け流していた。
(先生の言っていた通りです……!)
序盤から定跡を無視した独自路線の指し回し。大昔の芸当から用いられるその古風な戦術は、劣勢になりづらい反面、優勢にもなりづらい。
定跡を外すという行為は、最善手を指さないという行為に等しい。つまり、マイナスの点を稼いでいく指し回しを自ら受けて入れるということでもある。
(それが通用するのは地区大会。アマチュアでも有段の下位層だけですよ……!)
対する凪咲はひたすら定跡、現代の棋風に
この差は非常に大きな亀裂を生んでいる。
局面は互いに悪手を指すことなく進行しているものの、盤面の評価値で言えば凪咲が圧倒的に優勢を築いていた。
当然である。0点の最善手を指し続ける凪咲に対し、葵はマイナスの手を指し続けているのだから。
それが盤面をよりよく彩るためのものであっても、現代将棋に
それが天才、柚木凪咲が相手であればなおさらである。
(今の私はあなたより強い。その首、貰い受けます──)
盤面のリード、攻めの主導権を持っている凪咲は、自らの攻めが通ると確信を得た状態で攻勢の一手を放った。
中盤戦への強制的な移行である。
対する葵は攻められた以上受けに回るほかなく、かといって受け続ければジリジリと削られる必勝態勢にされてしまう。
葵の独創的な指し回しにより局面は混沌となっているが、理論的な数値上では凪咲の方が優勢なのは誰の目から見ても明らかだった。
後は凪咲がこの混沌とした局面を上手く収められるか、その手法に勝敗がかかっていると言ってもいい。
つまり、葵には勝敗の行く末を左右する選択権がない。と言うのが実情だった。
「……」
静かに俯きながら沈黙する葵に、凪咲は僅かだが口元を緩ませた。
※
才能の自覚は、努力している瞬間には分からないものである。
東城、来崎、そして真才。天才たちに囲まれながら指す将棋はどこか憂いてしまう部分があった。
葵玲奈にとっての将棋とは何か。そんな原点に振り返っても何かが解決することは無い。
葵玲奈にとっての弱点は何か。そんなありきたりな対策では一時しのぎにしかならない。
もっともらしい答えを求めているのではなく、もっともらしいと自分の中で納得する答えを欲しているのである。
それが葵に足りない考えのひとつだった。
──東城との練習将棋が終わった葵に、真才は尋ねた。
「人が一番集中するのは、何をしている時だと思う?」
「……?」
困惑する葵に、真才は間をおかずに答える。
「好きなことをしている時だよ」
そう、何事も自分にとって好きか嫌いかで作業効率が変わっていく。
好きなことをしている間は疲れを感じない。時間の流れを感じない。それをしている時こそが幸福であり、至福の時間だからである。
「今まで君は将棋を目的のための"手法"として使ってきた。勝たなければならない、勝たなければ未来がない。そんな追い詰められた精神状態で指していても苦痛なだけだ」
真才の言葉に、葵は視線を下げた。
葵にとっての将棋とは、夢を叶えるための方法でしかなかった。
かつては将棋が好きだったはずなのに、いつからか将棋に苦痛を感じるようになっていき、それを払拭するために勝ち星を重ねることで何とか自分を騙していた。
しかし、真才に負けたことでその考えも効力を為していない。
今の自分には何も残っていない。将棋を指すことに対する明確で強い思想を持っていない。
これだけ真才に恩を貰ってもなお、葵の将棋観は路頭に迷っていた。
「葵、もっと将棋を楽しめ」
ただ黙って聞いていた葵に、真才はその言葉を投げかけた。
「将棋を、楽しむ……?」
「ああ。君はトリックスターなんだろ? だったら対局の勝ち負けよりも、目の前の将棋を楽しむことに全霊を懸けるべきだ」
ぶっ飛んだ考えを述べる真才に、葵は驚きの表情を浮かべていた。
勝つことが全てとされるこの勝負の世界において、勝敗を意識せずに楽しむことを第一に考えろだなんて正気の言えることじゃない。
「楽しくない将棋を指して何が得られる? 楽しくないことで掴んだ勝利に何の価値がある? 葵は将棋がしたくて将棋を指してるんじゃないのか?」
核心的な問いかけに、葵は視線を上げた。
「勝ちたくて将棋を指しているのなら、じゃんけんでもすればいい。結果だけに幸福を覚えるのなら将棋を指す意味なんて無い。葵は将棋が嫌いか?」
その問いに葵は真っ先に否定した。
「ち、ちがう! アオイは将棋を指したくて、将棋が好きだから将棋を指してるんすよ!」
「だろ? なら勝敗になんてこだわらず、好きなように指せばいい。悪手も最善手も関係なく、自分の戦いたいように戦えばいい。そのやり方に多くの者が惑わされる。多くの指し手が狂わされる。そこに必要なのは過程であり、結果は勝手についてくるものだ」
真才の持論は、葵には無いものだった。
これまで誰からも聞いたことがない常識外れなそれは、
この人は、他人にない発想で将棋を指している人だ。
葵は思わずそう思ってしまった。
いや、だからこそ、自滅帝という伝説を生み出せたのだろう。誰かの考えと重なるような思考では、秀でた何かを持つことなど出来はしない。
葵はその日以来、将棋に勝敗を求めなくなった。
その代わり、将棋の楽しさを求めるようになった。
※
勝敗までの綺麗な道のり、将棋の教科書に載せられるほどの芸術的な棋風を辿る凪咲に、葵は問答無用で風穴を開けた。
「えっ……?」
勝敗の選択権は葵にはない。その考えは正しくとも、間違いである。
葵は唯一の攻撃策である大駒の飛車を切り飛ばして早々に捨てる。
まだ中盤戦、駒の損得が大きく響くこの状況で葵は特攻でもするかのように大駒を切ったのである。
終盤でもないこの状況で指したそのあり得ない一手に、凪咲の思考は一気にかき乱される。
次いで葵は端の歩を突き捨てると、張ってあった罠を起動させる勢いで次々と小駒を捨て始めた。
(無理攻め……!? いや、これは──!)
混沌としていた盤上は更にその混沌を激化させていき、形勢がめちゃくちゃになるほどの無秩序な盤上が形成される。
──局面の難化。葵の狙いを凪咲は肌で感じ取ろうとする。
(くっ、局面を難しくさせて私にミスを誘発させる気ですか……!)
違う。葵の狙いはそんな安いものではない。
四方八方に駒の利きが当たった状態、ある程度の駒の損得はあれど両者攻め方には困らない陣形。
そんな状態で最善手を指すのはプロ棋士でも難しい行為である。
しかし、葵にはその苦痛がない。難局に対する抵抗感がない。
何故なら──"天才"だからである。
「は……?」
局面が難化して僅か数手、葵は全てを見切った勢いで前後左右から四面楚歌の挟撃を仕掛ける。
戦い方に一貫性がない。あらゆる戦場を別々な所からランダムに爆撃する戦闘機のように、葵の指し手は踊り狂っていた。
(手が、見えない……!)
葵の手が最善手なのか悪手なのかも判別がつかず、自分の形勢がどうなっているのかも分からないほどめちゃくちゃに荒らされる盤上。
指せば指すほど勝敗に霧がかかっていくというのに、葵は一切ためらわず手の応酬を繰り返す。
それは天才だけに許された芸当。天才だけが指せる戦い方。その他の凡人を置き去りにして、自らの戦場を掴み取る自由な将棋である。
そう、この日この瞬間──葵玲奈は自らの真価にたどり着いた。
盤上の遊戯者、本物のトリックスターの誕生である。