「……将棋に愛を向ける? 何言ってんだ親父」
玄水の言葉に対して、魁人は呆れた様子を見せる。
将棋への愛──それは将棋が好きかどうか、という単純な問いかけでないことは魁人も理解していた。
ゆえに、その意味が理解できない。
「ワシはこれまでの人生で、多くの者に同じような問いかけをしてきた。お主は将棋を愛しているか、好いているかと」
玄水は魁人の目を見つめる。
「皆揃って首を縦に振った。自分は将棋が好きだ、指していて楽しいと。じゃがそれは詭弁というものじゃ。都合の悪い部分を排除した見方に過ぎん」
「何を言いたい?」
急かす魁人に、玄水は縁側から腰を上げて立ち上がった。
「将棋における力の差と言うのは、読みをどこで切り上げるかで決まる。……人は将棋を指す際、または考える際、必ずどこかで読みを切り上げる。ここまで読めばいいだろう、これ以上は読めない。そうやって自分の中で納得してから次の一手を指す。当然じゃ、人の思考には限界があるからのう?」
玄水は皮肉を言うかのように空を眺めた後、続けるように肝心となる一言を放った。
「──将棋を好いている者が、何故読みを切り上げる?」
「……!」
それはまさに、将棋を一番よく知っている人間の発言であった。
「ワシは将棋を好いていた。どこまでも果てしなく続く読みの中をさまようのが好きじゃった。そうして見つけた一手こそに本当の価値があるからのう。──じゃが、今の世代の将棋指しと言うのはまるで将棋を好いておらん。愛を向けていないのじゃ。……そんな体たらくで
玄水の放つ将棋の真理に、魁人は言葉を詰まらせた。
「先刻の問いに答えよう。──ワシが見た渡辺真才という人物は、将棋を誰よりも愛していたぞ」
※
互角の勝負として始まったはずの戦いは、真才の読みの鋭さが限りなく光るものだった。
「くっ……!?」
魁人の手は決して弱くはない。完璧に近い、それこそ95点から100点の手を指し続けている。
だが、相手の指している手は100点以上だ。
(コイツ、どこまで読めばこんな手が指せるんだ……?)
真才の手に魁人は一瞬"そんな手が通用するはずがない"と感じるが、その後時間を掛けて読み進めていくと、その手が最善を通り越した非凡の一手であることを悟る。
あり得ない、なんて言葉をあり得ている現実の前で放てるはずもなく、魁人は全力を出して読みを進めていた。
そんな二人の対局を周りの観戦者たちがこぞって見ており、その棋譜もAIの評価値付きでリアルタイムでネットに公開されていた。
『【黄龍戦・団体戦】について話し合うスレPart99』
名無しの271
:自滅帝悪手指し過ぎw
名無しの272
:またマイナスの手指しとるw
名無しの273
:本当にネット将棋最強なんか?
名無しの274
:評価値プラスになったぞ
名無しの275
:プラスになった
名無しの276
:え?
名無しの277
:さっきまでマイナス150だったのにプラス100になっとるw
名無しの278
:あ、またマイナスになった
名無しの279
:マイナスやんけ
名無しの280
:またプラスに戻ったぞ
名無しの281
:AIですら読み切れてなくて草
名無しの283
:AIの評価値故障した?
名無しの284
:お、プラス250や
名無しの285
:プラスで安定してきた
名無しの286
:は?じゃあさっきの最善手だったってことかよ!?
名無しの287
:マイナスって言ってた奴まだ自滅帝を甘く見てんのかよ
名無しの288
:ようやくAIの読みが追い付いた感じか、1分くらいかかったな
名無しの289
:演算機が1分かけないと自滅帝の読みに追いつけないとかヤバすぎるだろ
名無しの290
:ようやくこいつが恐れられる理由が分かった気がしたわ
中飛車vs超速から始まった将棋は、まさかの真才が居玉で攻めたことにより戦線が混乱。
魁人は正しい手だけを目指してなんとか局面を打開しようと動くも、倍以上の読みを入れた真才から飛んでくる一手に頭を悩ませていた。
(一体何手読んでんだコイツ……!)
読むことに一切の毛嫌いを感じない。読むことそのものを楽しんでいる。好いている。
何故なら──将棋に愛を向けているから。
(残り時間は5分対7分、決して悪い差じゃないのに局面の差だけ埋まらないのはなんなんだ……!)
魁人の予想をことごとく崩していく真才の将棋に、魁人自身が冷や汗を浮かべ始めた。
──天王寺の看板が後ろに迫る。生徒達を率いた試合に責任がのしかかる。
しかし、相手は人生そのものを懸けている将棋指しである。
それまで居玉で攻防を繰り返していた真才は、一定の段階で突然守りに移って王様を移動させる。その手が再び手順の前後を錯乱させ、魁人が隙を見つけて攻めを入れようとすると、真才はその手を利用して一転攻勢に転ずる。
……という展開が見えている以上、魁人がそのまま攻めるわけにもいかず、かといって真才の攻めを完全に受け流せるほど守りに注力する余裕もない。
そんな完全な手詰まりとなるのを読み切って、真才は敢えてその攻めを途中で中断させたのである。
──人の指せる領域の将棋じゃない。
(指し手のペースはバラバラなのに、気づけば時間配分も完璧にこなしている。早指しだけが得意なんじゃなかったのか……!)
魁人は視線を右往左往させてなんとか手を見つけ出そうとしていた。
そもそもとして、真才が早指しを得意とするのは当然である。手を読むことに対する嫌悪感が一切ないのだから、瞬間的な手の速さが他人と比べて大幅に違う。
しかしそれは、早指ししか出来ないということには繋がらない。
時間が長ければ長いほど読む手が増えるだけ。──むしろ、長時間の方が真才の棋力は果てしなく上昇する。
今の真才の将棋に弱点などなかった。
では何故そんなことができるのか? どうしてそこまで強く将棋を指せるのか?
答えは単純である。──将棋が好きだからだ。
真才は将棋を誰よりも好いており、誰よりも楽しんでいる。本当の意味で、将棋を指すことに命を懸けられる人間である。
愛に勝る力など無い。好きなことに全力を注ぐ人間に勝てる道理など無い。
葵に向けた『将棋を楽しめ』という言葉の本意、それは真才もまた将棋を楽しんで指しているからである。
好きであれば苦痛を感じない。苦痛を感じないのであれば無限に手を読むことができる。真才が将棋に向ける愛は狂気にも等しい。狂気にも等しいからこそ、誰よりも将棋を理解し、誰よりも将棋に価値を見出そうと努力できる。
──才能で将棋を指さないとは、そういうことなのだ。
『将棋という魔物を愛することができなければ、あやつと同じ舞台にはどうやっても立てぬ。将棋に愛された
玄水の言葉を思い出した魁人は、なんとか真才と同じ舞台に立とうとギリギリまで読みを進める。
しかし、何百というパターンを読んでいくうちに限界が来てしまい、自分の意志とは関係なく脳が勝手に読みを切り上げてしまう。
「くそっ……!」
それでも魁人は頭を抱えて打開策を考え続ける。
(正直ここまで強いとは思わなかったぞ、渡辺真才。──いや、自滅帝。だがまだ互角、互角の範疇だ。僅かな差は開いたが、ここから逆転できないわけじゃない。もっと読みを進めれば必ず追いつける。将棋に絶対はないからな)
魁人は天王寺道場から培ってきた全ての知識を動員させて、盤上を睨み続ける。
間を縫って守りに手を付け始めた真才の手を隙と見て、魁人は少しでもポイントを稼ごうと駒得の応酬を繰り返す。
まだ足りない。まだ形勢は戻らない。もっと良い手を。もっと迫る手を。
そんな魁人の勢いに駒達が応えるように、盤上の形勢は少しずつだが魁人の方に傾いていた。
最初は中飛車で上部の抑え込みを狙っていた魁人の陣形も、気づけば平べったい
(残り1分を切ったか。だが秒読みなら俺の方が不利だ。そろそろケリを付けに行くぞ、自滅帝……!)
そう告げた魁人が意気揚々と大駒の飛車を盤上に放った瞬間、真才の口角が上がった。
「……!? しまっ──」
真才の得意とする自滅流は、相手との戦いで攻防を繰り広げつつ上空に城を作り、駒損を覚悟の上で王様を繰り上げ城に入場するというもの。
しかし、中飛車と銀冠の組み合わせであれば事前に上部が手厚くなり、真才の自滅流は効力を発揮しない。
だからこそ、真才は超速という自滅流とは全く正反対の攻めを行って魁人の策を翻弄した。
オーソドックスな定跡と最速の攻めに魁人は銀冠を作る余裕がなく、
──するとどうだろうか。巡り巡って自滅流の"条件"が満たされる。いいや、最初から真才は条件を満たすための行動しか起こしていない。
「お前、まさか最初からこれを狙って──」
その言葉を紡ぐ頃にはもう遅い。
真才は最速で王様を繰り上げ、不安定ながらも空中楼閣のようなものが中段に完成する。
そこで持っていた小駒を次々と埋め始めると、一気に自滅流──『耀龍楼閣』の誕生である。
「バカな……!?」
その日、天王寺魁人は生まれて初めて心の底からの恐怖を感じた。
そして同時に、魁人の残り時間が1分を切る。
──自滅帝の得意な早指しの時間である。