「なあ、親父。俺とその渡辺真才ってヤツ、どっちが強い?」
道場が開かれる前の早朝、縁側で茶を嗜む玄水に魁人が尋ねた。
真才の姿を直接見たことがない魁人は、彼がどんな将棋を指していたのかも詳しくは知らなかった。
「当然お前じゃ。目を瞑ってでも勝てるじゃろうて」
玄水は躊躇わずにそう答える。
それに対して魁人は「当然か」といった表情を浮かべるが、玄水は僅かな間をおいて続きを語った。
「……じゃが、それはあくまでも当時の話。もしもあの棋風が完成されたのならば、それは何物にも勝る武器となろう。振るう者が強者であればなおさらじゃ」
それはまるで、無敵の棋士の誕生を示唆するような言葉だった。
「つまり、プロレベルってことか?」
「否。あやつの場合は比較するべきものが違う。戦っている舞台が全く違うんじゃ」
「どういうことだ?」
玄水の抽象的な物言いに魁人は眉を顰める。
同じ将棋を指しているにもかかわらず、戦っている舞台が全く違う。それが玄水の感じる感性のひとつなのは魁人も理解していたが、そんな感性から常識を越えた発言が出たことに魁人は納得がいってないようだった。
暫しの沈黙。鳥の鳴き声が数度木霊した後に、玄水は思いがけない一言を放った。
「──魁人よ。お主は将棋に愛を向けられるか?」
「……は?」
※
中飛車であれば、渡辺真才は自らの得意戦法である自滅流を繰り出せない。
そんな考えのもとゴキゲン中飛車を繰り出した魁人だったが、その戦法を見て真才の表情が変わることは無かった。
むしろ嬉々として繰り出した超速に、魁人は今大会で初めての動揺を顔に出した。
(自滅流が主な戦法じゃないのか? 中飛車に対して超速、それも居玉での超速なんてあまりにもリスクが大きすぎる。仮にもAI学習をしている現代の学生なんだ。▲6八玉のひとつくらい上げてから攻めるべきだろう。それとも血迷ったのか?)
心の中で様々な可能性を模索する魁人だが、目の前の男は盤面を見つめるだけで何か答えを提示することは無い。
真才が指した超速は、先後が逆転した状態でも指せることから、現代の中飛車を終わらせた戦法とも言われている。
超速が中飛車にとって最適解な戦法であることは間違いない。間違いないのだが、真才は今までその最適解を放棄して、自滅流という自らが編み出した戦術を使っていた。
だからこそ、ここにきて突然の定跡戦法。超速というオーソドックスな指し手を繰り出したことが魁人の中で違和感の大部分を占めていた。
「……まさか、単純な読み合いで俺に勝てると踏んだのか?」
魁人は思わずそんな疑問を呟いた。
そのことに真才は反応を示すことが無かったが、何かを悟った魁人は笑みを浮かべて顔に影を落とした。
「なるほど、そうか。確かに互いの棋力に優劣をつけるのは必要だな──」
そう一言だけ零して、魁人は顔を上げる。
そこにあったのは、本来の魁人の──天王寺魁人の本性を現すかのような狂犬にも似た笑みだった。
「覚悟しろ、自滅帝……!」
※
西地区と南地区が決勝への進出をかけた激戦を繰り広げる中、その隣では北地区と東地区の戦いが行われていた。
「……」
「……」
しかし、その光景は初日からは全く想像のつかないものだった。
絶望して士気が完全に落ち切った東地区、優勝を逃してやる気の失った北地区。
両代表地区ともに戦意が失われており、実質的な消化試合のようなものとなっていた。
しかも東地区はチームの大将である遊馬環多流が来ておらず、実質的な不戦敗。同じく北地区の大将である青峰龍牙も来ておらず、実質的な不戦敗。
不戦敗同士で大将戦は勝敗が決められないという事態にまで陥っていた。
環多流の方は前日のやらかしやネットへの書き込みが露見したことで問題となっており、今大会の責任者である立花徹から厳しい指導が入っている最中である。
対して龍牙の方は、特にこれといった用事もなく、会場の隣にある旅館の方に足を運んでいた。
「……ん?」
旅館の中を適当にぶらついている龍牙は、目の前を歩いてくる一人の少女を視界に入れる。
顔立ちはアイドル顔負けなのに、そこに纏う雰囲気だけは異常としか言えない何かを感じさせる。
そんな正体不明の少女を龍牙はじっと見つめていた。
「……何か用か?」
少女は龍牙の前で立ち止まり、自身の何倍も体格差がある龍牙に対して物怖じせずに顔を上げた。
龍牙はそれを少しばかり面白そうに観察しながら、少女に尋ねた。
「お前、この県の人間じゃないだろ?」
「……」
龍牙の単刀直入な問いかけに、少女は沈黙で返した。
それは否定や肯定と言った返しではなく、そのどちらにも含まれないがゆえの沈黙という回答だった。
「まぁいい。なぁ、暇なら俺と一局指さねぇか?」
龍牙はそう言って少女を誘うが、少女はその問いに対してはハッキリと否定した。
「いや、勝ちの決まった戦いをするつもりはない」
「ほお? 余裕だな。この俺に勝てる棋力を持っているのか?」
「……ああ、お前が人生を何回やり直しても勝てないくらいの差はある」
少女は何の迷いもなく、龍牙の目を見返してそう断言する。
青峰龍牙と言えば、遊馬環多流と並んで悪い噂が絶えないほど横暴で非道な人間として知られている。
そんな龍牙に対してここまでハッキリと実力の差を告げた人間は、後にも先にもその少女だけだった。
「……ハッタリの目はしてねぇな。正真正銘の……というやつか」
「そういうことだ」
少女はそれだけ言うと龍牙の横を通って立ち去る。
少女の言葉は挑発にも似た堂々の発言だったが、龍牙はそれに対し珍しく何もすることなく、少女に背を向けて去っていった。