誰よりも努力をしてきたつもりだった。
誰よりもつらく、苦しい努力を……してきたつもりだった。
「……」
雨天の日。東城は傘もささずに学校の帰り道を走っていた。
それは渡辺真才が将棋部に入部したての頃、自らが挑んだ対局でボコボコにされてしまった日のことである。
真才に正論を叩きつけられた東城は泣きながら部室を飛び出し、雑然とした感情に飲まれながら帰り道を走っていく。
「あ、アタシがっ……! アタシだって努力してるのに……っ!!」
涙なのか雨なのか分からない雫が頬を伝って流れ落ちる。
それと同時に、真才の言葉が脳裏をよぎった。
『努力って、そういうものじゃないのか?』
言われた言葉が的を射すぎていると感情がおかしくなる。
東城にとって、将棋は己の全てを費やしたもののひとつだった。
なのに、そんな自分より遥かに努力した存在にあっさりと負かされ、その上自分の努力が足りないと突きつけられた。
これだけ努力していて、まだ足りないと告げられたのだ。
「……っ! ……っ!」
息も絶え絶えになりながら雨の中を疾走する自分に、告げられてもいない言葉が勝手に心に突き刺さる。
──まだそれだけの余力が残っているのに、努力をしたなんて本当に言えるのか?
そんな鬼のような問いかけが自分の中から告げられた。
限界まで努力をしたつもりでも、本当はまだまだ余力が残っている。限界までやりきったと思っていても、彼に追いつける未来が見えない。
東城は思わず足を止めた。
「──変わらなきゃ、いけないんだ」
東城にとっての変化。それは古きを踏襲してきた定跡を捨てて、新しい現代の将棋を覚え直すということである。
言うは易し。それをすることは今までの努力の結晶を否定し決別するに等しい。いくらそれが正しい決断であったとしても、簡単にできるわけがなかった。
だが、それをしなければこれ以上強くはなれない。自分がやってきたことを否定しなければ、更なる高みを目指せない。
過去を踏襲することに意味がある。歴史を学ぶことで失敗を回避できる。
──
しかし、時代は常に変わるもの。万物は流転し、人々は往々にして新時代の迎合を余儀なくされる。
変わらなければいけない。変わらなければこの先戦えない。
「……また、最初からか」
雨に身を叩きつけられ、ずぶ濡れになりながら空を見上げる東城。
灰色の雲が覆いつくして何も見えないその空に、確かな晴天を感じ取らなければならない。
「……よし」
未来を視るのであれば、変わる努力から始めるべきである。
東城はそこで覚悟を決めると、先へ進む新たな努力を決断した。
※
南地区の平均的な棋力は東地区に劣る。
しかし、それはあくまで数合わせのための弊害に過ぎず、勝敗を決める場において南地区が東地区より劣っている理由はなかった。
──
これまで南地区の多くの大会で活躍していた深嶋は、元々天王寺道場出身者ではない。南地区の小さな交流会『
しかし、その強さを天王寺道場の師範である天王寺魁人に買われ、つい最近天王寺道場への入門を果たした。
南地区には即戦力となる人材が少ない。しかし磨けば光る宝石はいくらでもある。
天王寺玄水の意志を継ぐ魁人の手腕は見事なものであり、たった数ヶ月という短い期間で多くの者達の棋力を底上げしていった。
深嶋は元々南地区の上位層と争っていた一員であり、魁人とも大会で幾度も戦ってきていた。そんなかつてのライバルと共闘する高揚感は、何物にも代えられない感情である。
そんな深嶋が相対するは西地区の元エース、東城美香。
かつては天才の名を欲しいままにした彼女の実力が、ついに一般帯に踏み込んだ。
それは多くの地区の者達が警戒する問題であり、時代の変わり目を実感する瞬間でもあった。
西地区の主力は主に3強。天竜一輝、
今まではこの3人が一般帯の大会を荒らしまわっており、県でも中央地区に迫る勢いでその猛威を振るい続けていた。
しかし、時代が変わったのか今回の大会にその3人は姿を見せていない。
代わりに出てきたのは東城美香を含む学生チームである。
深嶋の目には、そのチームが他と比べて明らかに劣っているように見えた。いくら地区大会を勝ちあがったとはいえ、学生同士で固めたチームが道場の主力で構成されたチームを抜けるはずがないと。
しかし、西地区の大将を務める謎の少年──渡辺真才が正体を明かしたことで、深嶋は大きな衝撃を受けることとなる。
まさかその正体が、ネット将棋界で伝説扱いされている自滅帝であったなど誰が予想出来るものか。
渡辺真才の正体が自滅帝であれば、あの天竜一輝に勝ったというのにも理由が付く。県大会という大舞台まで来れたのも納得だ。
──しかし、それは一部に限った話である。
前々から渡辺真才の正体は謎に包まれていた。本当は当て馬だの、新たな強豪だの、様々な憶測が飛んでいた。
ゆえに、その正体が明かされた後でも現実を背くほどのものではない。
強さの底が見えなければ、最悪を想定するのは当然である。それは他のメンバーも同じだろう。
深嶋は考えていた。
中学生大会でもトリックスターとして大暴れしていた天才である葵玲奈。無冠の女王と言われながらもその殻を破った来崎夏。何の特訓をしたのか急激な成長を見せた佐久間兄弟。そして堅実な指し回しをしながらもまるで底が見えない武林勉。
これらのメンバーは成長の度合いが激しい。ゆえに底が見えなく、自身との棋力差が明確に見破れるものではない。
しかし、東城美香──彼女だけは全く棋力が上昇していなかった。
「……さすがに強いな」
東城と対面する深嶋は、激しい中盤戦でポツリとそう呟いた。
武林勉以上に安定した指し回し、最善手は指せなくとも悪手の採用率は非常に低いことからミスが全くない。
まさに実力至上主義と言わんばかりの徹底した手の強さは、古来の剣豪と戦っている気分に陥らせる。
「だが、それだけだ」
東城美香は強い。圧倒的に。しかし、成長には限界というものがある。
深嶋は激しい中盤戦を凌ぎきってから、ついに反撃に出た。
狙うはリードの拡大。最低でも戦線の維持である。
読み抜けの少なさで安定した勝率を誇る東城は、終盤戦を得意とする。
つまり、序中盤でどれだけ差を付け、終盤戦で追いつかれないように工夫するかが東城を破るカギとなっていた。
深嶋の棋力は東城とほぼ互角。それは天王寺の教えが入る前での話である。
現在の深嶋の棋力は当時から数段上がっており、仮に東城が同じくらいの成長を果たしていたとしてもやはり互角という立ち位置になる。
しかし、深嶋は感じ取っていた。──東城の棋力が全くと言っていいほど上昇していないことを。
そして、その理由もおおよそ掴めていた。
(そんな指し方が今さら通用するわけないだろう)
東城の指し方はこれまでと違って現代風にアレンジされていた。
恐らく、これまでの古風な戦い方ではこの先成長できないと踏んだからだろう。
その選択は正しい、と深嶋も同意を示す。
しかしそれは、自ら歩んできた道を外れ、新たな道を歩むのと同じ。今まで培ってきた指し方を捨てるような行為である。
そんな真似をしてしまえば、棋力が大幅に下がって一時的に大きなリスクを冒すことになる。
東城はそこからも相当な努力をしたのだろう。以前と変わらないくらいの棋力にまでは戻っていた。
だが、そんな状態では現在の深嶋の棋力には追いつけない。敵わないのだ。
「……」
東城は一瞬だけ視線を上げて深嶋を一瞥する。
しかし、再び俯いて盤上に目を向けた。
追い詰められた王様は先んじて逃げるべく上部への脱出を図る。上へ上へ、深嶋の激しい攻めから逃げるように。
(終わりだ、東城美香。ここで1勝は稼がせてもらうぞ)
深嶋は心の中でそう告げて勝負に出る。
逃げることに専念してしまった東城の王様になど目もくれず、飛車や角を次々と成って端から次々と駒をむしり取っていく。
東城は途中で何度か抵抗を挟むものの、深嶋との棋力差が出てしまっているためかその全てが失敗に終わってしまう。
駒得は顕著になりつつあり、東城の駒台には大駒が消えてしまい小駒だけが増えていった。
「──アタシ、これで一回だけ負けたのよね」
突然口を開いた東城の言葉に、深嶋は首を傾げた。
「でも、もう慣れたわ」
そう言って東城は小駒を掴むと、王様の周辺にその小駒を打ち込んだ。
「……は?」
突然の守りに転じた一手に、深嶋は思わず怪訝な表情を浮かべる。
粘るための一手だろうか。自分に見えていない頓死の筋でもあったのだろうか。
そんな考えを巡らせる深嶋を差し置いて、東城は持っていた小駒たちを次々と王様の周辺に埋め始めていった。
「……おい、まて」
──既視感、それは驚くほどの恐怖を感じる既視感である。
深嶋は唇を震えさせながら正気じゃない者でも見るかのように東城を見上げる。
「なんだ、それは……ッ」
見覚えのある一手、既視感のある一手に深嶋はあり得ないと首を振る。
──だってそれは、この世でたった一人だけが許された戦い方であるから。
それができるのは、この世界に一人しかいない。一人しか許されない。一人しかいないからこそ、誰もが戦慄を走らせて恐怖する戦術なのだ。
そう、これは──。
「これをアンタたちは『自滅流』って、確かそう呼ぶのよね?」
──東城美香による。自らが導き出した『正解』だった。
「バカな……ッ!」
その場にいた者達全員が、驚愕の表情で東城へと視線を向けた。