エシュニーは混乱のるつぼにいた。
北の町から遠路はるばる参拝に来た、という老女に見つかり、彼女から拝まれていたと思ったら、聖堂を飛び出したライエスににらまれた。
あまつさえ、「泥棒猫」呼ばわりされて刃まで向けられる。
そんな彼へナイフを投げたトーリスとの間に、一触即発の空気が流れている。
(怒ったトーリスなんて、初めて見た……)
唖然となっていたエシュニーだったが、ハッと自我を取り戻す。そして背中にしがみつく老女を、回れ右させる。
「おばあさん、早く逃げてください」
「で、ですが聖女様は……」
「私は大丈夫ですから、早く!」
「はいっ……!」
膝の震える老女を逃がしつつ、二人へ声を荒げた。
「神聖な神殿で、武器を振り回すんじゃありません! 剣を納めなさい!」
「うるさい、泥棒猫のバカ女!」
しかしライエスから、再度なじられた。
(バカであることは認めてやらんでもないが、泥棒猫ってなんだ!)
「バカはともかく、泥棒猫とは失礼ですね!」
腹が立ったので、そのまま怒鳴り返す。「バカはいいのか」と、トーリスが驚愕の目を向けて来たが、無視した。
「兄上を騙して、ボクから奪った泥棒猫め! 兄上を返すのだ!」
ライエスから涙交じりの声で、次いでそう怒鳴られる。こちらの魔剣はブラコン、でいらっしゃるらしい。
「奪ったも何も……一般人として生きる道を選んだのは、トーリスなのですよ?」
「知るか! お前がそう言い聞かせたんだろう! そうなのだ、そうに違いないのだ!」
「ええぇぇー……」
エシュニーは顔を引きつらせ、たじろいだ。
地団駄を踏む姿は、駄々をこねる子供そのものだ。外見上は、トーリスとさして変わらぬ十代後半程度なので、なかなかどうして不気味でもある。
「違う。選んだのは僕だ。エシュニーに出会ったのは、その後だ」
時系列がてんでめちゃめちゃな弟に、油断なく剣を構えるトーリスが静かに言った。
「軍を辞め、エシュニーと出会って、友になった。だからエシュニーは悪くない」
「違う違う!」
ぶんぶんと首を振ったライエスは、エシュニーへ再度向き直り、両手で斧を振りかざす。
その背中めがけ、トーリスが一足飛びで肉薄した。
「なぜ分からない!」
怒号と共に振り下ろされた剣を、驚愕の表情を浮かべるライエスが受け止めた。
しかし驚愕の表情は、みるみるうちに
「わっ……分からないのは、兄上の方だ!」
ライエスが剣を弾いた。後方へ飛び退るトーリスを、更に追いすがる。
二振りの黒い刃が、重い金属音を響かせながら何度も打ち合った。
エシュニーはその場にへたりこんで、その光景を呆然と眺めている。
「ふふふふふ……」
いや、少し違った。彼女は笑っていた。めちゃめちゃ、怖い顔で。
(神殿で好き放題暴れやがって……いい根性してるじゃないか!)
ついでに、めちゃめちゃ怒っていた。恐怖を怒りが塗りつぶしていたのだ。
彼女はへたりこんだのではなく、自主的に座っていたのだ。その手は床のタイルに触れており、彼女はぶつぶつと、何事かを唱えていた。
彼女が唱えているものは古代語だった。魔剣にも分からぬ言語は、現代語に訳せばこのような内容だった。
「太陽神よ。神殿で暴れる、馬鹿者二人を叱りたく思います。そのために、少し力を貸してください。え? 焼却処分にしてやる? いえいえ、そこまでの力は必要ありません。ただ少し、あの鼻っ柱をへし折ってやりたいだけなのです」
つぶやきは、太陽神との交信であった。
そこから間もなく、打ち合う二人の足元が、金色に光った。
まばゆい光に気を取られ、二人の動きが止まる。顔も、唖然としたものに変わる。
「いい加減にしなさい、この、バカ兄弟がぁぁっ!」
トーリスの怒号など比ではない声量と怒気に、びくん!とライエスの体が強張った。
次の瞬間。
地面からまばゆい光が、爆発と共に噴出した。
エシュニーによる、神降ろしの奇跡である。暴力の塊でしかない奇跡に、二人は吹っ飛び、そして無様に床を転がった。
人工皮膚も破れ、あちこちから機械が露出している。
ボロボロになった二人を、法力を使い果たし、真っ白な顔になったエシュニーがにらむ。
「次暴れたら……木っ端みじんに吹っ飛ばす!」
「ひぃっ……鬼嫁だ!」
ライエスが恐怖ですくみあがった。
聖女様の本気の声音に、魔剣二人から戦意が失われた。取りこぼした剣と斧が、それぞれの影に吸い込まれ、消える。
慌て怯える老女から、事態を聞き及んだ神官長とギャランが、ここでようやく姿を見せた。
「お嬢、何があったんだ!」
「お、お二人とも大丈夫ですか!」
男二人が、わっと慌てふためいた。
(むしろ被害の大半は私が生んだんだけど……駄目だ、もう限界……)
口をわずかに開いたエシュニーは、声にならないつぶやきをあげるや否や、ぐらりと体を傾けた。
「エシュニー!」
意識を失い、倒れた体をトーリスが受け止める。
彼らのもとへ、ギャランも駆け寄った。
「おい、トーリス! 何があったんだ?」
「それが、よく分からない。ライエス──弟がエシュニーを『泥棒猫』と言い、僕と彼が喧嘩をしたら、地面が光って爆発した」
ちらりとライエスを見ると、まだ座り込んだ体勢のままだ。人間からの手痛い反撃と恫喝に、かなりの衝撃を受けたらしい。
「……お嬢の奇跡か」
彼の端的な説明で、全てを察したらしい。はあ、とため息のギャラン。ただ、どこか安堵したようでもある。
「お嬢は法力切れで寝てるだけだ。それよりお前……色々モロ見えだけど、大丈夫かよ?」
べろん、と皮膚が剥がれた腕や足を見て、ギャランはうなる。
「損傷はあるが、エシュニーは運べる。問題ない」
「そりゃよかったよ。お前も災難だったな」
髪紐が外れ、ボサボサ髪になったトーリスの頭を、ギャランはやや乱雑に撫でる。
撫でられながら、ちがう、とトーリスはつぶやいた。
「僕とライエスが悪かった。でもギャラン」
「あん?」
もはや見慣れた強面を、トーリスは見上げる。
「あれは、奇跡なのか?」
「ああ。悪魔の所業にしか思えねぇが、れっきとした奇跡だ」
何故だろう。「悪魔の所業」と言う時、ギャランはひどく楽しそうだった。
「聖女とは、恐ろしいのだな」
しみじみ言いながら、トーリスはエシュニーを横抱きにして立ち上がる。
そのままツカツカと、へたりこんだままのライエスへ歩み寄った。そして、彼のあごを思い切り蹴り上げた。
声も上げられず、後方へふっとぶライエス。
「きゃああ!」
存外可愛らしい悲鳴を上げ、震え上がる神官長。
「うわっ、痛そうだなぁ」
他人事のギャラン。
トーリスは
「エシュニーを傷つけてみろ。僕がお前を木っ端みじんにする」
そう言い捨てて、彼は別館へ向かった。その後を、慌てた様子のギャランが追う。