第20話

 僕は、どうしてここに寝転がっているんだっけ、真っ暗なテントの中で目を覚ました僕は、自分自身の置かれた境遇を把握できなかった。


 なんだか、長い、懐かしい、温かい夢を見ていたような、おかしな気分だ。


 だけど少しずつ、バラバラになった記憶をつなぎ合わせていく。


 そうだ、僕は――


 状態をゆっくり起こすと、僕の熱で温まったタオルがポトリと落ちる。


 その横には――タオルケットもかけずに熟睡しているスゥの姿が見えた。


 ぐいと背中を伸ばすと、ぱきぱきと体の節々が音を立てる


 どうやら熱も、体の痛みもどこかへ消え去ったようだ。


 着ていたものも、いつの間にか新しいものに代わっている。


 スゥの痛み止めと、一晩中の看病のおかげだろう。


「ありがと」


 そういって僕は、テントから出た。


―――


「あー、ずるい!」


 朝焼けがテントを照らし始めるころ、スゥのけたたましい声が響く。


「ねえねえ! ウチにもコーヒー淹れて!」


「了解です」


 僕はそういって、フライパンを再びガスコンロに乗せると、お湯を沸騰させる。


 そしてインスタントコーヒーのマグカップに注ぎ


「はい、お待たせしました」


 スゥに差し出した。


「サンキュ」


 そういうとスゥは、待ちわびたように一口コーヒーを含んだ。


「あー、たまんない。マジ最高。朝もやの中で飲むコーヒーって」


「お気に召したようで、光栄です」


 僕は恭しく頭を下げた。


「熱は、下がったみたいね」


「おかげさまでね。ありがとう、スゥ」


「ううん」


 そういってスゥは首を振る。


「せっかくだからさ、あのベンチに座って飲まない?」


―――


 朝もやの、たっぷりと湿り気を含んだ涼やかな風が、僕たちの頬を撫でる。


 昨日まではサンドペーパーのように感じられたそれは、今日はまるで、シルクのヴェールのようにも感じられた。


 もはや慣れっこになった、山鳩の機械的な鳴き声もまた、今日は耳にここちよい。


「あ、そうだ。着替え出すために、勝手にサドルバッグさぐらせてもらったけど、嫌だった?」


「そんなわけないじゃん。なんでそんなこと聞くのさ。むしろ、感謝したいくらいなのに」


「そっか」


 そういってスゥは、コーヒーの注がれたティンカップに口をつけた。


「んー、みんなさ、人それぞれ、口には出せない悩みってのがあるもんなんだねぇ」


「どうしたの、急に」


「ん、なんでもない。ただ、ふとそう思っただけ」


 そういって、スゥはふるふると顔を振った。


「みんなそんなもん。強いとか弱いとか、そういうことじゃないんだよ」


 スゥが何を言わんとしているか僕には掴みかねたが、スゥの美しい横顔に目がとらわれて、そんなことがどうでもよくなってしまった。


「ねえ、顔洗っといでよ」


「また急に。さっきから、変だよスゥ」


「いいからいいから。さっぱりと洗い流せば、心もすっきりするからさ」


 そういって、スゥは肩にかけていたタオルを僕の肩にかけなおした。


「わんこくんが顔を洗ってる間に、朝ごはん作っといてあげるからさ」


 顔を洗ってテントに戻ると、スゥは手鍋の中をくるくるとかき混ぜていた。


その日は、コーンスープで作ったパン粥を、二人で少しずつ、分け合いながら食べた。


「あ、見てわんこくん」


 僕たちの目の前には、雄大な富士山が、その威容を誇らしげに示していた。


―――


日が暮れるまで公園の木陰で仮眠をとった後、ライブハウスを探して聞き込みを行う。


最初は横浜の時と同様しゃべることを渋られたが、すでに“ジェリーピースのギタリスト”を知っているという三十過ぎの店員は、ようやく口を開いてくれた。


「この街には、ほんの数日いてすぐいなくなったよ。東京や横浜と違ってそれほど大きくない街だから、そんな街には用はない、ってことなんだろ」


「そっかー、“ジェリーピース”って、そんな有名なんだー。スマホでどんなに検索しても、全然出てこないから、売れてないのかなーって思ったんだけど」


「まあ、インディーズシーンで有名になってる、その程度だけどな」


「んー、でもさ、その割には、ホームページとかもないし。なんでだろ」


 するとビールのケースを積み上げていた店員は、吐き捨てるように言った。


「“そういうセールス”ってことだろ」


「え?」


「ま、本当は俺も口止めされてるし、今後の経営もあるからあまり詳しいことは言いたかねぇんだけどよ、次は浜松向かうって言ってたぜ」


 僕たちはその店員にお礼を言って頭を下げ、ゼファーを止めたところまで戻って行った。


 しかし、ゼファーを目の前にして、スゥの足が止まる。


「ねえ、わんこくん――」


―――


 ゼファーは海沿いの道を、僕達を乗せて運ぶ。


 数十分かけてたどり着いたそこは、大瀬海岸。


僕たちは路肩にゼファーを止めた。


「ごめんね、本当はあの近くの公園でテントを張ればよかったのに」


 僕は首を振る。


 ライブハウスを出た後、スゥは僕に、急に海が見たくなった、と言った。


 だから僕たちは海が見える場所、それも、とてもきれいに見える場所を探してここまで来た。


「僕も、そういう気分だったから」


 浜辺に降りると、遠くに明かりが見える。


 来る途中に標識があった、内浦漁港という港だろう。


 僕たちはしばし砂浜に座り、漁港や漁船の明かりを無言で眺めていた。


「“グールズ”ってさ」


 スゥは、ふいに口を開く。


「はっきり言うのもなんだけど、売れる要素なんか全然なかったと思う」


「それはひどいな」


「だって、ほんとのことなんだから仕方ないっしょ。だって今時、ハードコアパンクバンドだよ? 売れる要素なんか、一ミリもなくね?」


 スゥはそういって苦笑した。


「そんなモッチが今いるバンド、“ジェリーピース”がセールスラインの音楽をやってるなんて、うちには信じらんない。“ノット・フォー・セール、”、モッチはいつもそう言ってたのに」


「きっと、早く売れて有名になりたいんだよ。スゥのために」


「それって、そんなに大事なことなのかな」


 スゥは振り向き、僕をまっすぐに見つめて言った。


「ウチは別に、そんなのなくたっていい。モッチが売れなくたって、セレブな生活なんてできなくたって、モッチと一緒にいて、モッチのベースとヴォーカル聞ければ、それでいいんだし。ウチさ、モッチに会ったら、成功なんてしなくたっていい、二人で一緒に暮らしていって、自分の好きな音楽をやっていければそれでいいじゃない、って言いたいんだ。それだけで、十分幸せじゃん。ウチも、パートでも何でも、日雇いでもなんでも働くしさ、お金なくったって、二人でいられれば、それで幸せじゃん、って」


 一気呵成にそう言うと、スゥは、小さくふぅ、と息を吐いた。


 その後僕たちはゼファーに乗って小さな駅を見つけて、その近くにテントを張る。


 スゥも僕も、その日は無言で眠りについた。


※※※※※


朝日の照り返しに目を覚ますと、スゥが抱き枕のように僕の体を抱きしめていた。


 気持ちよさそうに寝息を立てるスゥの顔にしばし目を奪われていた僕は体を起こし、両手で頬を張り、日課になっているロードワークに出て行った。