本日二度目の治癒の後、再度目覚めた菰野は、フリーと並んで正座させられていた。
「で、お前達はどういった関係なんだ?」
二人の前で、丸太の椅子に腰掛け腕を組むクザンの質問に、その場にいたほとんどの者が(……殴ってから聞くんだ?)と思った。
「フリーさんは、私の恩人です」
そう間を置く事なく、菰野が真っ直ぐクザンを見上げて答える。
「恩人?」
「はい、森で具合の悪くなったところを助けられました」
「……結界か」
と呟いたクザンが、はっと顔色を変える。
「それはお前、フリーに、キスされたって事か……?」
わなわなと目前に両手を広げるクザンに、フリーが慌てて叫ぶ。
「お、おでこだから!!」
それはクザンにとって、フォローではない。
「なんで額だよ! そんなん手だって足だっていーだろ!?」
その言葉に、リルが耳まで赤くして、そっと俯く。
そんな姿に気付いたリリーが「あらあら?」と心で呟いた。
三年前、リルもまた、久居に結界内への侵入を許可していたはずだった。
一体何処に口付けたのだろうか。と、リリーは久居を盗み見る。
けれど久居はいつもと変わらぬ……いや、いつもよりほんの少し眉を寄せて、真剣な瞳で菰野を見つめていた。
「そもそも迷い込む奴が悪いんだ。ほっとけよ。下手に関わるからこんな事になるんだろ?」
クザンの言葉に、フリーが腰を浮かせる。
「違うのお父さん! 菰野は私の怪我を手当てしてくれて……きっと途中で少しずつ具合が悪くなってたんだと思うの。でも、私が動けなかったから、無理して……」
じわり、とフリーの目に涙が浮かぶ。
はぁ。とクザンは心で大きくため息をついた。
思った通り、久居の主人は悪い奴じゃないらしい。
先に殴っといて良かった。
こんな事情を聞いてからでは殴り辛かっただろう。
どんな事情であれ、娘の三年を奪い、リリーやリルや久居に辛い思いをさせた事実は変わらない。
そんな奴をタダで許せるほどの広い心は持ち合わせていない事を、クザンは自分で分かっていた。
クザンは、目の前の二人をよく見る。
菰野は相変わらず真摯にこちらを見ている。
派手に殴られた後だというのに、こちらに怯える様子もなく、人でない者達に囲まれても尚、落ち着いた態度を見せていた。
歳はフリーのひとつ上らしいが、今の姿を見る限り、とてもそうは思えない。
膜の中で眠っていた間は、もっとずっと幼い風に見えていたが。
もうちょっと狼狽えたり、情けない姿を見せてくれれば、少しは溜飲も下がっただろうか。
いや、それはそれで、何でこんな奴の為にとイラつくだけなのかも知れない。
フリーは、目に涙は滲ませているものの、キッとこちらを向いていて、菰野を悪く言うようなら噛み付いてやるとばかりのオーラを放っている。
……一体どういうことだ。
「じゃあ、お前達は恋仲だったりはしないんだな?」
問われた二人が揃って頬を染める。
お互いをチラと見て、目が合って、慌てて視線を逸らすところまでが全く同じタイミングだ。
クザンのこめかみに青筋が浮かび上がる。
「……おい、返事はどうした」
言葉に苛立ちが滲む。
「あらあら……クザン、それは二人の問題よ。そんな風に問い詰めるものではないんじゃないかしら?」
リリーの声に、クザンがそちらを振り返る。
愛妻の宥めるような視線に、クザンはグッと息を詰め、バリバリと頭を掻き毟る。
「っくそっ。リリーが言うんじゃしゃーねぇな」
クザンが二人に向き直ると、菰野は姿勢を正した。
フリーはそんな菰野の横顔をまだじっと見つめている。
クザンは、そんな娘の姿に苛立ちを残したまま、なかば叫ぶように問う。
「次の質問だ! お前はどうしてそんな怪我をしたんだ?」
経緯は久居から聞いていたが、クザンはこの男の答えが聞きたかった。
問われて、菰野が僅かに目を伏せる。
『どうして』と問われても、それは、菰野にも分からなかった。
菰野はほんの先程のような、昨日のような、それでいてずっと昔だったような、義兄との会話を胸に蘇らせる。
「どうして」と問いかけた相手は「理由などお前が知る必要はない」と答えた。
「昔からずっと気に食わなかった」とも言われたが、そう告げる葛原の瞳は、嫌悪ではなく、悲しみの色に染まっていた。
おそらく義兄は……、私に、せめて嫌われたかったのだろう……、と菰野は思う。
……父が生きていた頃ならともかく、父亡き後、私を殺す理由は何だったのだろう。
「従兄に斬られました。理由は、分かりません」
菰野は、できる限り心揺らさぬように、分かる範囲の事実を伝えた。
あんなに悲しそうな瞳をして、私を殺さねばならなかった理由は何だったのか。
私が死ねば、義兄は本当に、城で一人きりになってしまうのに。
菰野の胸に、あの城で一人ポツンと過ごす葛原の背が浮かぶ。
あれから三年も経ったと聞いた。
義兄はお元気なのだろうか。
私を斬った事に、お心を痛めてなければ良いのだが……。
クザンは、じわりと暗い影を滲ませる少年を前に、ほんの少し考えてから、直球で尋ねる。
考えたって分からない。
駆け引きがクザンに向いていない事は、自分が一番よく分かっていた。
「お前は、そいつに殺されかけてどう思った? 相手も死ねばいいと思うか?」
聞かれた菰野が一瞬キョトンとする。
そして僅かに瞳を揺らすと、祈るように言葉を紡いだ。
「いえ……兄様には、できる事なら幸せになっていただきたいと、心から願っています。……お忙しい方ですから、御健勝であればと……」
そんな菰野の切実な願いに、それを腕組みして聞くクザンの顔色が、芳しくない。
よく見れば、こめかみに一筋、汗がつたっている。
菰野は、湧き上がる嫌な予感に視線で久居を見る。
久居はその視線から逃げるように、黒い瞳を伏せた。
「ま……、まさか……」
答えを求めてクザンをじわりと見上げる菰野の声が、僅かに震える。
しかし、声を上げたのはフリーだった。
「えええ? 菰野、あの怖い人の事好きなの!?
菰野の事、殺――してないけど、殺したようなもんでしょ!?」
理解できないという顔で、フリーが菰野に訴える。
菰野は、フリーから見た葛原の行動を考えれば、それもそうだろうと頷こうとして、次の言葉に驚かされた。
「それにあの人、私の事も殺そうとしてたよ!?」
「――フリーさんを……? 僕の後に? どうして……」
菰野の中に、また葛原の姿が蘇る。
幼い自分を、愛しげに目を細めて眺めてくれた、まだ若い頃の義兄の姿が。
「え、分かんないけど、菰野の許に送ってやるって……。すごく優しそうな顔してたのが、余計怖かった……」
フリーの言葉に、菰野はようやく理解した。
全ては義兄の、義兄なりの優しさだったのだと。
義兄は、菰野を譲原に……、いや、譲原に、菰野を会わせてやりたいと、思っていたのだ。
今までの義兄の不可解な行動に、ようやく納得出来る答えを出せて、菰野は小さく震えた。
なぜなら、それがもしそうなのだとしたら、義兄だけがいつまでも一人きりで、どうしたって救われない。
きっと義兄は、私を殺した後に、フリーの事も、久居の事も殺すつもりでいたのだ。
……私が、向こうで寂しくならぬように……。
溢れ出しそうな涙を、菰野は歯を食いしばって堪える。
少しでも気を逸らそうと顔を上げれば、フリーは青ざめた顔をしていた。
フリーはどうやら、蘇らせてしまった記憶の中の殺意に、恐怖を呼び起こされてしまったようだ。
まっすぐ向けられた葛原の殺意は、それまでそんなものと無縁だった少女の胸に、強烈に残ってしまったのだろう。
菰野は、ぞくりとした悪寒に背筋を震わせたフリーの背へ、慰めようと手を伸ばしかけ……、クザンの威圧に動きを止めた。
久居が、菰野の察しの良さにホッと胸を撫でおろす。
なんとか三度目の治癒は免れたようだ。
菰野は手を引っ込めはしたものの、言葉でフリーを慰め始める。
「怖い思いをさせてしまって、ごめん。僕のために、本当にありがとう。
僕がこうして生きているのは、フリーさんと、フリーさんの父君と……ここに居る皆さんのおかげだね」
感謝を浮かべて優しく微笑む菰野が、まだ葛原の死に激しく動揺し心を裂かれている事に、気付く者がいるとしたら、それは久居だけだろうと、菰野は思っていた。