第157話【ルーカスSide】


 ありがとうございますと、頭を下げながらお礼の言葉を口にして。


 俺から離れていった彼女の背中をぼんやりと眺めたあと。


 自分の口からはただ、小さく乾いたような笑みが溢れ落ちた。


「あーあ、本当に。

 ……な」


 この下らない感情にもしも名前をつけるのなら、これが感傷に浸るって奴だろうか。


 ……本当に、碌でもない。


 真っ白なキャンバスに、色を塗りたくって塗りたくって。

 もう、戻れなくなってしまったのは、他でもない、俺自身でしょう、が。


「君は、には来ないでいい」


 ぽつりと口から零れ落ちたその言葉は、誰にも届くこと無く空気に溶けて消えていく。


 汚いのも、穢れているのも、俺だけで充分。


 覚悟も、決意も、何もかもが一瞬、揺らぎそうになって、中途半端に宙ぶらりんになっている今の自分をあざけって。


 俺は、仕事をするためにお姫様の部屋に戻ろうとする彼女とは、決定的に違う道を歩いて行く。


 彼女が白に戻るなら、俺は黒に突き進んでいくしか道はない。


 既に閉ざされてしまった光が差す道の方を。


 羨ましいと眺めたって何もならないということを俺は誰よりも理解している。


 感傷も、感情も、何もかもが俺にとっては不要なものだ。


 今さら、あの子が育児放棄されていたことを、聞いたって。


 今さら、あの子が魔女であることを知って、その身体のことを心配したって。


【その全てが、本当に意味のないこと、なのに】


 無駄な時間を過ごしてしまったことに気付いているのに、湧き上がってくる感情に思わず。


【そんなキャラじゃないでしょ?】


 と、自分で自分をあざ笑いそうになりながら、思いっきり、ドンと壁を叩いた。


 焦りも、不安も浮かんでくるのは仕方ないだろう。


 ……だって、もう本当に


 もしもの時のことを考えなければいけないと、頭の中では分かっている。


 お姫様のことを心配なんて出来る程のゆとりも余裕も今の俺には何処にも無い。


【……もしもの、時は……】


 壁にぶつけた反動で思いっきり、ざらりとしたその壁に、作った握り拳から滲み出るように血が出てきたけど。


 今の俺には、それがクールダウン出来て、丁度良かった。



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 にこりと笑みを溢しながら、いつものようにテレーゼ様を訪ねれば。


 既に、侍女長から話は通っていたのだろう。


「そなたが、そろそろ来る頃合いだと思ってこうして待ってやっていたぞ」


 と此方に向かって笑みを深くするテレーゼ様と、その側に侍るように付いている侍女長の姿が見えた。


 仮想の相手でも用意して戦っているのだろうか。


 庭の円卓の側に置かれた椅子に座り。


 お一人でチェスに興じなからテレーゼ様はティーカップに口をつけて、優雅に俺のことを待っていた。


 俺は彼女の向かい側に座り。


 既に動かされた盤面の駒を見ながら、その続きを一手、自分の手元側にある黒のクイーンを動かすことで、白のポーンを払いのけたあとで。


「……残念ですが、手土産になりそうな収穫は無しです。

 お姫様の侍女は、陛下の侍女と引き合わせた瞬間、陛下の元に連れて行かれたんだと思います。

 ……粘ってみたんですけど、そこに俺の入る余地はどこにもありませんでした」


 と単刀直入に、相手が聞きたがっていることの結論から入り、あからさまに落ち込んだ雰囲気を出すために困り顔を表情に滲ませて、息をするように嘘をつく。


 なんてどこにもない。


 俺のその言葉を聞いて、テレーゼ様が。


「そなた、嘘くさいから、その表情は止めた方が良い」


 と、盤面に置かれた白のポーンを一歩前進させ、ティーカップをテーブルの上に置いたあとで、口の端を片方吊り上げてわざわざ俺に教えてくれる。


 その言葉に、俺はさっきまでの困り顔をやめて、今度はどこまでも無邪気であること意識しながら、取り繕って、にこりと笑った。


「あはっ、バレちゃいました?

 だって、お姫様の侍女が陛下の侍女に呼ばれたところで、それが何の用事だったのか知ったとしても、何一つ関係のない話ですからね、俺にとっては」


「相変わらずだな。

 ……そなた、わたくしに使われているという立場を忘れているのではないか?」


 俺の言葉に呆れたような表情を浮かべてテレーゼ様が俺を見る。


 俺はそれに構わず、盤面に置かれた自分の黒駒を動かし、再び白のポーンを外に追いだしたあとで、声を出した。


「だから、可能な限り彼女には着いていって情報は得ようと努力していた訳でしょう?

 俺のこの頑張りを認めてくれたっていいじゃないですか」


「……で、結局情報は得ることが出来ずに、おめおめとこうして引き下がってきたのであろう?」


「えぇ、そうですね。

 ……そう言われると本当に弁解のしようもないんですけど」


 はっきりとテレーゼ様からそう言われて。


 お役に立てずに申し訳ありません、と上っ面の言葉を口にする。


 俺がこんな風にいい加減な対応をしていても、テレーゼ様は本気で怒ることはされないだろう。


 そういうキャラで押し通してしまえた方が楽だし、どうせいつもの冗談だと都合良く受け取ってくれるのは分かってる。


 本当に頼まれた仕事に関しては決して疎かにすることのない俺を……。


 この御方が重用しているのは分かっているし、今までにこの方に任された仕事に関しては丁寧にこなすことで、それだけの信頼関係は築いてきたつもりだ。


 そう、例え今、自分の出したその言葉が。


 ――“嘘”であろうとも。


 この方がこうして、いとも容易く俺の事を信頼してしまうくらいには。


「それより、侍女長、誰が来るかも分からない場所で。

 ……俺だったから良かったものの、あんな風に大声で話していたら、もしも誰かに聞かれてたとき、どう言い訳するつもりだったの?」


「申し訳ありませんっ。……あの場所に来られたのがルーカス様で本当に良かったと思っています」


「私の側近である侍女がこんな風に失態を犯すこと自体、珍しいことだ。

 そのようなことが一度あったくらいでは、私が揺らぐことはない」


「ありがとうございます、テレーゼ様。

 ……ですが、私がもっと気をつけるべき案件でした」


「あぁ、そなたが理解しているのならば、それでい。

 ……それより、ルーカス。そなたは、あの新米の侍女のことをどう思う?」


 白のビショップを動かして、俺の手駒である黒のポーンを取られたあと。


 テレーゼ様から突然話を振られて、俺は驚いたように自分の瞳を見開いてみせる。


 そうやって、見せただけで、別に本当に驚いた訳じゃない。


 この件に関しても、十中八九、俺の意見もこの方は求めてこられるという確信があった。


 日頃から、こういう風にしてみたらどうですか?


 とか、そういう助言はしておくものだ。


 いざという時、こんな風に相談という形で話を振られて俺の意見も聞き入れて貰いやすくなる。


 だから、俺は、表情では驚きを全面に出しながらも。


 をつらつらと並び立てるだけでいい。


「……うん?

 それって、俺に決定権があるんですか?

 でしたら、彼女には下手に触れない方が良いと思いますよ。

 今のお姫様は陛下の寵愛を一身に受けていますから。

 彼女を排除しようと下手に動いてしまったら、お姫様が彼女を自分の侍女として大事にしている以上は、こっちにまで火の粉が降りかかってくる可能性があって危険です。

 いっそ、あの侍女が色々とぶちまけて自爆してくれた方が、まだ良いのでは?

 彼女が自爆してくれたところで、その告発に逃れるだけの手段を貴女あなたが用意していないとは思えない」


 にこりと笑みを溢しながら、さっき俺のポーンを取り除いたことで、クイーンを守るように盤面に置かれた白のビショップをまたひとつ、払いのけて声を出した俺のその言葉に。


 テレーゼ様は口の端を吊り上げて楽しげな笑みを溢したあとで、テーブルの上に置かれていた扇を手に持ってパンと開くとその口元を隠すように扇で覆った。


「矢張り、そなたもそう思うか」


 俺の発言はこの方の満足にいくようなものだったのだろう。


「……全く厄介なものだ、いっそ使えぬ侍女だとあの小娘が斬り捨ててくれたら、その後始末も楽だったというのに」


「あぁ、そういえば以前、お姫様にあの侍女のことを聞いていたことがありましたよね。

 あの時点で既に、彼女を排除しようとする考えをお持ちだったんですか?」


「碌に役にも立たぬ存在をいつまでも手元に大事に置いて残しておく道理などないであろう?

 あの小娘の我が儘や癇癪などで、絆など芽生える筈もないと思っていたが。

 以前に比べて随分と小娘が大人しくなっているのも、私が送った侍女をあれが、気に入る訳もないと思っていた故に想定外だった」


「……っ、お姫様の癇癪とか我が儘って、そんなに酷いものだったんでしょうか?」


「私も実際にあれが泣きわめいているのを数回ほどしか見ておらぬ。

 だが、アレに付いていた侍女の話では、いつも、お忙しい陛下の気を引いたりするのに我が儘を言ったり、ちょっとのことでも、ぼろぼろと泣きだして、手を焼いていたそうだ」


「っ、、ですか……」


 憎々しげに吐き出されたテレーゼ様からのその言葉に俺は内心で苦笑する。


 育児放棄に近い様なことをされて、殆ど誰からも世話をして貰えなかったその事実も。


 マナー講師から躾と称されて、幼いその足を鞭で打たれて、殿下と比較されて生きてきたそのことも、ちょっとのことでしかないのだろうか?


【嗚呼、ほんとうに……、胸糞が、悪いな】


 ここは、こんなにも煌びやかな皇宮の筈なのに。


 ――まるで、どろどろと濁った汚泥の中にいるみたいだ。


 そこまで考えて俺は嗤った。


 人様のことをどうこう言う権利など俺には無い。

 その泥濘ぬかるみに自ら進んで入った俺もまた、同じ穴のむじなに他ならないし。


 例えどんなにそれに嫌悪感を抱いたところで……。


 自分自身が既に薄汚れ、あかにまみれて、綺麗なものでは居られなくなったことを、俺が一番認識している。


「だが自爆か、そうなると陛下に私が動いていたかもしれないという心証を一度は与えてしまうことになるだろう。……今後、ますます動きにくくはなるだろうな」


 テレーゼ様が、盤面に置かれた白のナイトを動かして、声を出したところで。


 俺は、現実に意識を戻した。


 あぁ、そういえば、今はお姫様の侍女の話をしてたんだったな。


「ええ、そうですね。

 ……ですが、その辺り、先手を打って釘を刺しておいたので。

 彼女は今後、お姫様に迂闊なことは言わないと思いますよ。

 確かに、彼女がお姫様の側についている間、こちら側がお姫様に対して何かしようとしたという真実が彼女の中にある以上、何かを言われてしまうかもしれないという危険は常にあると思いますが……。

 このまま此方からは何もせず、さっさと切って、彼女に命令していた話ごと、すっぱりと無かったことにしてしまった方がいいと思います」


、か。

 そなた、私のために、いつからそんなにも働き者になったのだ?」


「おや、それはあまりにも酷い言い草ではありませんか?

 これでも俺は、僅かな時間で可能な限り出来る範囲のことをしたつもりなんですけど」


 テレーゼ様の言葉ににこりと笑みを溢しながら。


 侍女長の尻拭いまでした俺のことを『もっと褒めてくれても良いのでは?』という言葉を言外に滲ませながら声をだす。


 お姫様の側についているあの侍女を救ったのは俺の気紛れにすぎない。


【……ただ、それだけのこと】


 そして、それら全てを馬鹿正直にこの方に伝える必要も無い。


 あの侍女がお姫様に今後何も言わないで黙っているだけで、全てが丸く収まる話なら。


 それに越したことがないという判断をしたのは嘘ではない。


 それが誰にとっても一番いい解決方法だと思っただけにすぎない。


 あの侍女が余計なことを言ってしまって、陛下の疑惑がテレーゼ様に一瞬でも向いてしまうことも防げるし。


 あの侍女も何も言わないという選択肢をとることで。


 このチェスの盤面みたいに、クイーン皇后に、ただのポーン侍女が排除されてしまうことも無くなるだろう。


 心を入れ替えてお姫様に誠心誠意仕えるのだとしたら、お姫様側の手駒が一人増えてしまうけど。


 あの侍女彼女はそこまで脅威ではない。

 本当に気をつけなければいけないのは、盤面に置かれた白のクイーンを傍らで守っているこのナイトだろう。


 自分の持っている黒駒を動かして、俺はナイトに手をかけた。


 これで、俺の手持ちにはポーン歩兵から始まって、ビショップ聖職者ナイト騎士が揃う。


 残るは、ルークに、クイーンに、キング、だけ。


 薄々気付いていたけれど、その状況がどういう意図で作られたものなのか明確に理解した上で、テレーゼ様に視線をやれば。


 やはり予想通り、俺の黒駒が取れる状況にありながら、取ることもせず、ルークを全然関係のないところへと、一手、動かして。


 テレーゼ様は俺に視線を向けた。


「ふむ。

 そなたは、本当にあの新米の侍女が自分の罪の重さに耐えきれず、いつか周囲に私の指示の下、行っていたと告発するような事は無いと言い切れる自信があるのか?」


「ええ、まぁ。

 ……彼女はお姫様の側に仕えたいという気持ちが大きいようでしたし。

 自分の罪を告白したら、その罪に対する対価は払わなければならないでしょう?

 彼女にとってということは強調して、その辺り、上手いこと言って誘導しておいたので、多分大丈夫だと思いますよ」


「そなた、本当に嘘をつくことに関しては一流よな?」


「全く嬉しくないんですけど。

 ……褒めてくれてます? それ」


 にこりと笑みを溢しながら。


 俺は自分の駒を動かして、白のクイーンに手を伸ばす。


「チェックメイト」


 ――その瞬間、勝敗が決まったことには、お互いに気付いていた。


 どこをどうやろうとも、テレーゼ様は、次の一手でキングを何処へも逃がすことが出来ない。


 はっきりとその言葉を口にした俺に……。


「どうやら、私の負けのようだな」


 と、テレーゼ様が声をあげるのを聞きながら。


「試合で勝って、勝負には負けたような気分ですよ。

 ……俺はあなたの手のひらの上で踊っていただけに過ぎない」


 と、口にする。


 俺にあえて、侍女ポーンを取らせ、アルフレッド君ビショップを取らせ、騎士のお兄さんナイトを取らせて。


 最後に、お姫様自身クイーンを取らせることで、チェックメイトへと誘導させたのは。


 お姫様と、お姫様の側にいる人間をチェスの駒に見立てていたからに他ならないだろう。


「なかなかに面白い余興であった。

 そなたが優秀すぎるせいで、常に最善の手を追ったが故の結果であろう?

 それにそなた、途中から気付いていたのに敢えて何も言わずに忠実に私の意図を汲んでいたではないか?」


「俺の忠誠心をこんな所でも試すなんて、酷い人ですね?」


 こんなことをしなくても、俺はこんなにもあなたに忠義を誓っているっていうのに、と。


 苦笑しながら声を出せば。


 テレーゼ様は面白い物を見るような目つきで俺を見ながら。


「ふふっ、忠義などそんなもの、目に見えぬではないか。

 人の感情ほど、あっさりと崩れ落ちてしまう脆いものなど他に存在しない。

 価値の欠片も無い、いつ切れるかも分からぬ不安定なものに頼ることほど滑稽こっけいなことはないであろう?」


 と、声に出してくる。


「だからこそ弱みを見せた人間に、確実に首輪をつけて、リードをつけて、裏切ることのないように、その手綱を握っておく」


 その言葉に、此方もにこりと、笑みを溢しながら。


 テレーゼ様の言葉を補完するように声をだせば。


「そなたは本当に、よく出来た賢いいぬだ」

 と、喉の奥を鳴らしながら俺の飼い主の口元が満足そうに歪んでいくのが見えて。


【1を言えば、10を理解する。……お前のような賢い人間は、好きだ。

これから先、私の、手足となって動いてくれる丁度良い人材を求めていたのだ】


 瞬間、この方が過去に俺に近づいてきて。


 その口から提案してきた契約に、躊躇いながらも他に選択肢などどこにもなく、自ら進んでその手を取った、あの日の光景を思い出しながら……。


 俺は、光栄です、と間髪入れずに、その言葉に声を出して。


 見えない鎖で繋がれたこの首輪が、どこまでも重たいものであることを頭の中で再確認して、テレーゼ様のその顔を真っ直ぐに見つめた。