やっぱり、さっきの侍女長との話が聞かれてしまっていたのだろうか。
内心で、そう思いながらも……。
にこりと笑って此方に向かって声を出すその人に、どことなく違和感を感じてしまったのは。
“君は”と強調されたその言葉に、どうしてか、ルーカス様は、その中に入っていないような感じが漠然としたからだろう。
【
――君は。
その言葉の意味を頭の中で私が噛み砕くよりも先に。
ルーカス様はいつもと同じような雰囲気に戻られていて。
さっきまでのハイライトの消えた瞳で何処を見ているのかもよく分からないような、そんな不思議な危うさみたいなものは、もうどこにも見当たらない。
穏やかで優しい雰囲気でしかないその笑顔に、大丈夫だという確信ではなく。
どうしてか、急に不安な気持ちが湧いてきて。
「……どういう、意味でしょう、か?」
と、震える声で、私は問いかける。
【もしも、侍女長と話していた会話の遣り取りが聞こえてしまったのだとしたら……】
ルーカス様の目は変わらず穏やかなままなのに。
私の心の奥底をまるで覗き込むようなそんな錯覚さえ起こしてきて、段々と落ち着かないような焦りや不安みたいなものが私の心の中を支配していく。
それから、どれくらい経っただろう。
……恐らく時間にしたら数分も経っていないと思う。
一瞬のことなのに……。
けれど私からしたら、永遠とも取れるような無音の時間が私達の間に流れた、そのあとで。
「ねぇ、真っ白なキャンバスにさ、今、自分が持っている色をありったけ、塗り重ねていったら最終的に何色になると思う?」
私の言葉をまるで、聞いていなかったのか。
いや、聞いていて、あえて、私の問いには全く答えるつもりもなかったのか。
ルーカス様から言われたその一言が、意味の分からないもの、で。
突然の話の転換について行くことが出来ずに、思わず私は面食らってしまう。
【一体、何を言っているのだろう……?】
――さっきまでは、確かにアリス様の話をしていたのではなかったのか。
胡乱な瞳が表に出てしまったのか、謎掛けのような言葉を出されて、それに答えることも出来ないでいる私を。
ルーカス様は無邪気に笑いながら。
『正解は、黒だ』と、あっさりとその謎掛けの答えを口に出してしまわれた。
「……黒、ですか、?」
はっきりと言われたその言葉があまりにも突拍子もないものだったから。
その言葉の意図がどこにあるのか全くついて行く事も出来ずに、思案するのに必死になっている私が混乱しているのを、ルーカス様はどこか薄い笑みを湛えて、見つめてきながら。
「人ってのは、色んな仮面を被って色んな人物像を演じている内に、本当の自分が何色だったのか、思い出すことも出来ずに墜ちていく。
色んな“嘘”を塗り重ねていくその度に、どんどん明るい色は真っ黒に染まっていって。
気付けば、もう元に戻ることすら出来なくなってしまう。
……キャンバスに塗られた色は、みんな平等に、初めは綺麗で明るいものの筈だったのに」
一度そこで言葉を句切ったあとで。
――可笑しいよね?
と、私を見ながら声を出してくる。
そこで初めて、それが……。
私の事を言っているのではないかと、思い当たった。
【色を塗り重ねていったら、黒になる】
自分の本心を隠したまま、誰かに都合よく使われている生き方をしていたら。
このままだと、自分の本当の顔さえも、いつか、どこにあるのか分からなくなってしまうと。
ルーカス様は、私にそう言いたいのだろう、か?
「君は、今ならまだ明るい色に戻れるから大丈夫。
今の状態に、ちょっとだけ、白を足してあげる。……それだけでいい」
――黒に墜ちて行ってしまわないようにね?
そうして、言われたその言葉に、私はびくりと身体を震わせた。
侍女長との話を、どこから……。
一体、どこまで、聞かれてしまっていたのだろう。
「……っ、ルーカス、様……そのっ、私っ」
「あぁ、安心していいよ。
君がお姫様の味方でいる限り、俺は君のことをお姫様に言うつもりも殿下に言うつもりもない」
「え……っ、ど、どうして、っ?」
「侍女長にちゃんと自分の主人はお姫様だって言ってたでしょ?
自分のことを度外視して、そう言えるのは凄いと思うよ。
白と黒の
……だからかな。これじゃ、安心出来る材料の答えとしては弱い?」
にこりと此方に向かってどこまでも安心させるように微笑んでくれるルーカス様に思わずホッと安堵する。
言わないでいてくれるというその優しさに救われたような気持ちになる。
――そんな自分の心の弱さに、自己嫌悪に陥ってしまう。
自分から裏切っておいて。
皆さんに……、“アリス様”に……。
そして、そこまで考えて、思う。
「あの、でも私……ルーカス様がアリス様に言われなくてもきっと、侍女長に」
きっと、このままいけば、私は侍女長が私に声をかけてきた言葉の通り。
排除されてしまうのだろう。
……そうなったらもう、アリス様の側にはいられなくなってしまうのだと、痛みだした胸に。
「そうかな?
君が犯しかけた罪のことを、これから先も一生、誰にも言わないでいると決めたなら、多分、大丈夫じゃないかな?」
ルーカス様はあっけらかんと、私に向かって私の考えを否定するような言葉を出した。
「え? ……大丈夫、って、一体、どういうことでしょう、か?」
……その言葉の意味がよく分からなくて、そんなことが有り得るのだろうか、と声をだす私に。
「だって、考えてみてよ?
君の今仕えている主人は、紛れもなく陛下からの寵愛を受けている。
それは、最早、誰の目にも明らかだ。……彼女が君を自分の侍女だと主張している間は、例えどんなに立場のある人間でも君を迂闊に排除することは出来ない筈だよ。
逆に君が可笑しな状況で排除されたとしたら、お姫様は黙ってそれを受け入れるかな?
……何があったか、調べると思わない?」
続けて、ルーカス様は此方に向かって真面目なトーンで声を出してきた。
「あ……、っ」
その言葉に驚きながらも、一方で私は納得してしまう。
アリス様は、どこまでもお優しいから……。
私に何かあったとしたら、きっと自分に出来る範囲のことで私の味方になって下さるだろう。
私がテレーゼ様の方に戻されることになったとしても、きっと自分についているよりはテレーゼ様の侍女に戻ることの方が良いのではないかと気にかけては下さると思うけど。
私が、アリス様のお側を離れたく無いと言えば、アリス様も私の気持ちを無下にしたりはしないはず、だ。
【アリス様はそういう方だから……】
「特に彼女の優秀な従者達は、直ぐさま可笑しいことに気付くだろうなァ。
そうなったら、君を裏から操ろうとしていた側も危うくなるだろう。
……ただ、もしも君が真実を告白したとしたら、君は罪を免れないし、君の上にいた人間からは、上手いこと丸め込まれる可能性もある。
例えば、自分たちは色々と憂き目にあっていたお姫様のことを心配していたからこそ。
君に
――まぁ、要するに
そうして、にこやかに笑いながら此方に向かってそう言ってくるルーカス様に私は目を見開いた。
私だって、今後起こりうる可能性として、あれこれテレーゼ様からの圧力とかそういった面で自分の事を考えてはいたけれど。
今、私から話を聞いただけで、そこまでルーカス様は想いを巡らせることが出来るのかとびっくりしてしまった。
このまま、アリス様に何も言わないでいるよりも、せめて、裏にいる人達のことを私の罪を告白することで暴露した方がいいんじゃないかとも考えたことはあったけれど。
ルーカス様の言うことは確かにその通りだった。
私が罪を告白しても、テレーゼ様も侍女長も知らぬ存ぜぬで通すだろう。
証人だというのなら、あの時テレーゼ様のお側にいた侍女達、全員が証人になるかもしれない。
それが私に決して優位に働くようなものではないと、私も思う。
彼女たちはきっと、言うだろう。
【テレーゼ様は、アリス様を心配しておられました】
と……。
だって、あの時テレーゼ様は、確かにアリス様のことを心配されていた。
【寂しくしている子供に贈り物を届けたら喜んで貰えるだろうか】
とか、そういう言葉を使って。
例えそれが本心からの言葉じゃ無かったとしても、その裏に何か含みを持たせた言葉に過ぎなかったとしても。
あの時、テレーゼ様は、アリス様のことをどこまでも心配している素振りを見せつつ。
私に対しても一度の失敗くらいではクビにしたりしない、チャンスを与えてやると言っただけだ。
私に侍女長が接触してきたのは二人っきりになってから。
そこに、どの侍女も関与すらしていない。
……私がアリス様の周囲を探るということは、あくまで私と侍女長の間で行われた遣り取りにすぎなくて。
テレーゼ様本人は、関与していないと幾らでも言い逃れが出来るだろう。
もしも、私を助けることに証言してくれそうな人がいるのだとしたら。
それは、今目の前にいるルーカス様、だけだ。
それでも、ルーカス様だって全然関係のないお立場で、突然、ただの侍女である私を助けるためだけに、皇宮のドロドロとしたいざこざに巻き込まれてしまうことになるのは良しとはされないと思う。
そうでなくとも、ウィリアム様と親しくされているのだから、その母親であるテレーゼ様を糾弾するようなことになってしまう証言だと二の足を踏まれるかも。
もしかしたら、侍女長の上に誰がいるのか、ウィリアム様と親しいルーカス様なら、その正体には薄々気付いているかもしれない。
だとしたら、さっき、侍女長に。
【
という旨の発言をしたのが、そういう理由からだったのなら納得出来る。
【私と話をしている間も、ルーカス様はあくまで、その上に誰がいるのかは分からないというスタンスを崩されることは無かった】
本当に知らない可能性もあるけれど。
薄々気付いた上で、その上に誰がいるのか知らないという体を装っていて。
それでも、自分に出来る範囲でこうやって私のことを救うような発言もして下さっているのではないか。
「君に出来ることは、上からの指示があったことなんて全て綺麗に忘れて。
これから先、お姫様に、誠心誠意仕えることだけだ」
はっきりと言われたその言葉が……。
どこまでも正しいようなものに思えて、私は戸惑いながらもこくりと、頷いた。