【もしかして、今の話を聞かれてしまったのだろうか?】
と、内心で慌てるしか出来ない私を置いて。
「……っ、お見苦しい所をお見せして申し訳ありません、ルーカス様。
……此方には一体、何の御用で……?」
直ぐに普段通りに戻った侍女長がルーカス様に対して、淑女の礼を取ったあとで声をかけるのが見えた。
「うん、さっきも言ったけど、陛下の侍女が聞きたいことがあるって言ってお姫様の侍女のことを探していたから。
じゃぁ、俺が殿下の部屋に行くついでにお姫様の部屋の方まで見に行ってあげて、もしも居るようだったら声をかけてあげるよ、って提案したから来てみたんだけど」
「そうでしたか。
……それで、陛下の侍女は何の用事で彼女に?」
「さぁ?
そこまでは俺も詳しく知らないけど、陛下から何かを頼まれたのかもしれないし、陛下の意思が絡んでいるのだとしたら、例え侍女長であろうともそこに介入することは出来ない筈だよね?
勿論、それは俺も同じことが言えるけど……」
「えぇ、仰る通りです。
……出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした」
「いや、大丈夫だよ。
……とにかく、急ぎの用事であることは間違いなさそうだし。
何か取り込み中だったみたいだけど、話が終わったようだったら俺が彼女をお借りしてもいい?」
「畏まりました。
……それで、ルーカス様、今の遣り取りを」
「あぁ、
「……いえ、それなら構いません。
引き留めたりして申し訳ありませんでした」
ルーカス様を前にしても、一切その表情が切り替わることもなく、真顔のままの侍女長がルーカス様に声をかけたあとで。
「じゃぁ、一緒に行こっか?」
と、のんびりとしたルーカス様の声と視線が私の方を向いたことで。
私はこくりと、頷いて、その場に佇んだままの侍女長の顔に一度視線を向けたあとで、ルーカス様のその背中について行く。
ルーカス様は、侍女長に、私と侍女長の遣り取りがよく聞こえなかったと言っていたけれど。
結構、大きな声で遣り取りしてしまっていたから、今の会話の遣り取り全てが聞こえていなかったとしても、最後の方の遣り取りは聞かれてしまっているだろう。
ウィリアム様と幼なじみであるルーカス様は、アリス様のマナー講師も担当されていて。
アリス様と婚約話も持ち上がっている程、最近は特に親しくされている様子でもあるから。
【もしも、私が……、テレーゼ様や侍女長の下で今まで命令されて動いていたことがバレてしまっていたら……】
と、急に不安な気持ちに襲われてしまう。
侍女長は、テレーゼ様のことをあの御方と表現していたし。
テレーゼ様のことまではバレていないかもしれないけれど、私が侍女長に命じられてアリス様に何か良からぬことをしようとしていたことは、あの遣り取りで知られてしまったかもしれない。
私の前を歩くルーカス様のその横顔を見るけれど、その表情からは何を考えているのかが全く読み取れず。
私は内心でドキドキしながらも、ルーカス様の後をついて行くことしか出来なかった。
――それから、どれくらい経っただろう。
ルーカス様はウィリアム皇子のお部屋に行くつもりでは無かったのだろうか。
曲がらなければいけない道を華麗にスルーして、彼が無言のまま向かったのは、宮の外で。
黙ったままその背中に着いて行っている私は混乱してしまう。
【陛下の侍女が私に何の用なんだろう?】
もしかして、このまま、陛下がいつも仕事をされている方の宮まで案内してくれるつもりなのだろうか。
だけど、この道は陛下がいつも仕事をされている宮の方でもなく。
それどころか、どんどん人気のない方へ進んでいっている気がして、私の不安は大きくなっていく。
【本当に、こんな所に、陛下のお付きの侍女がいるのだろう、か?】
よく分からないまま、その後ろをついて行っていたけれど、段々と大丈夫か心配になってきて。
前を歩くルーカス様に声をかけようとしたところで。
「……ここまで来れば大丈夫かな」
ぽつり、と何か独り言のような言葉を出したあとで。
ルーカス様は、そこでぴたりと止まって後ろをついて歩いていた私の方を振り返った。
「あ、あのっ……ルーカス様、っ、陛下の侍女が私に用事とは、一体……?」
ルーカス様が振り返ったそのタイミングで、私はさっきから、かけようと思っていた質問を投げかける。
ここには、私とルーカス様以外、本当に誰もいなくて、シーンと静まり返った場所の中で、私の方を向いてくれていたルーカス様がにっこり、と人懐っこいような笑みを溢してくるのが見えた。
「あぁ、さっきのあれね? あれは、俺の嘘だよ」
「嘘、ですか……?」
はっきりとそう言われて、私は戸惑ってしまう。
“嘘”、というのはどういうことなのだろうかと、頭の中で一生懸命その意味や意図を理解しようとする私に。
「侍女長に何か怒られて、君が困ってるようだったから、助けた方がいいかなって思ってさ」
と、目の前の人は何でもないことのようにそう言って笑ってくる。
「あっ……、そっ、そうだったんですか。
……助けて下さってありがとうございます。
あれ……?
でもそれならっ、尚更、おかしくなりませんか?
アリス様は今、療養に出かけていていませんし、どうして、ルーカス様はあの場所に?」
ルーカス様が侍女長に色々と言われていた私のことを見つけて助けてくれたのだということにホッと安堵しながら、お礼を言って。
そこで、違和感に気付いた。
それなら、どうしてルーカス様はあの場所にいたのだろう、ということに。
【アリス様の部屋は奥の方にあって、侍女長もそれが分かっているから誰も来ないのを確信して私に話しかけてきたはず……】
ルーカス様が、陛下の侍女に頼まれて私を呼びに来たというのなら、確かに筋は通るけど。
ルーカス様は今、それが嘘なのだとご自身で否定された。
私を助ける為に、間に入って下さったのだと、偶然、私達の遣り取りに遭遇したのだとしたら、今度は、ルーカス様がアリス様の部屋がある方に来たことの説明がつかない。
その話を聞いてこんがらかる私に対して、ルーカス様は特に私の言葉に驚く訳でもなく、ふわっと此方に笑顔を向けてきてから。
「君に用事があったのは、俺の方なんだ」
と、声を出してきた。
「……私に、ですか?」
まさか、自分に用事があったとは思いもしなかった私は、突然のルーカス様のその言葉に驚いて、目を見開いた。
エヴァンズという侯爵家の由緒正しい家柄で。
立場のあるこの方が、一介の侍女である私に何の用があるのだろう?
不安な気持ちになりながら、ルーカス様の言葉を待つ私に。
「そう、お姫様のことなんだけどね?」
と、ルーカス様が此方に向かって声をかけてくる。
その言葉に私は、思わずびくりと肩が跳ねてしまった。
「……アリス様の、ことですか……?
あ、あのっ、私にお答え出来ることなんて、そんなにないと思いますっ!」
さっきの侍女長との遣り取りがあったから。
どうしても警戒してしまって慌てて声を出す私を見ながら。
ルーカス様は苦い笑みを溢しつつ『落ち着いて』と私に向かって声をかけたあとで。
「いや、ごめん、俺の言い方が悪かったかな。
そんなに、警戒しなくても大丈夫だよ。
……そこまで大した話じゃなくて、ちょっと気になったことを君に聞きたかっただけなんだ」
と、どこまでも安心させるような声色でそう言ってきた。
「気になった、ことですか……?」
「うん。
……今ってさ、お姫様、“療養のため”に古の森に行っているでしょ?
お姫様の普段の体調とか、心配になっちゃってさ。
君なら普段からお姫様の側についているからそういう事にも詳しいかもしれないって思って。
お姫様の体調不良って、結構頻繁に起こるものなのかな? ……特に、“貧血の症状”とかが頻繁に出てたりしない?」
私がルーカス様の言葉に問いかけると。
ルーカス様はさっきまでにこやかに笑っていたその表情を真顔にして、真剣な表情で此方に聞いてくる。
まるで、予想もしていなかった言葉をルーカス様からかけられたことにびっくりしてしまったけれど。
その言葉からアリス様のことを心配してそう言ってくれているのだということは読み取れて。
【良かった。
アリス様のことを心配して私に声をかけてくれたんだ】
と、内心で何を聞かれるのかとビクビクしていた手前、ホッと安堵もしていた。
【あれ……?
でも、なんで、貧血の症状って、限定的なんだろう……?】
「いえ。
……あの、私がお仕えしていた間には、アリス様にそこまで目立つような体調不良は無かったと思います。
貧血の症状も、あったのかもしれませんがっ、アリス様は普段から色々な面で我慢されている方なので、もしかしたら私が知らないだけで、アリス様の体調はかなり深刻なものなのでしょうかっ?」
貧血の症状とピンポイントで、症状を出してくるルーカス様に。
逆に何か、アリス様の御病気などに心当たりでもあるのかと思って、声をかければ。
「いや、ちょっと気になってね。……そっか、傍から見て目立つような体調不良はないのか」
ルーカス様は私の言葉を否定するように一度首を横に振ったあとで、少しホッとしたような、安心したような表情を此方に向かって見せてくる。
「……それで、お姫様が色々な面で我慢、してるってのは?」
「あ、それは……っ、アリス様は普段から、辛いこととか、顔に出されないので。
……あのっ、お側につくことになって、私もローラさんから聞いて知ったのですが。
アリス様は、今まで付いていた侍女や騎士などにぞんざいな扱いをされてしまうことも多かったみたいで、そのっ、殆ど育児放棄に近いようなことも……」
「……育児放棄?」
「はい。
……ローラさん以外の方がアリス様の担当になっていた時は、本当に生きるために必要な“最低限”のことしかされずに育ってしまったみたいなんです」
「……ッッ、!」
ローラさんから聞いたアリス様の事情を勝手にルーカス様に話していいのか、一瞬悩んでしまったけれど。
私は、ルーカス様がアリス様の体調を心配して私にわざわざ声をかけてきてくれたことから、戸惑いながらも、信用して話すことに決めた。
ローラさんや、他の従者の皆さんがアリス様を過保護なくらいに守っているのだって。
今までアリス様が過ごされてきた日々の中で、周囲から酷いことをされてきた事情も関係しているのだと私はローラさんから最近になって教えて貰った。
皇女という立場柄、完全な育児放棄とまではいかないにしても、今まで、アリス様が侍女や騎士などからされてきたことを聞けば、決して普通の幼い子供が受けるようなものではないことをされてきて、独り寂しく過ごされてきていたのだということが私にも手に取るように理解出来る。
【それなのに、アリス様は本当にいつも私達には笑顔しか向けてこない】
アリス様が公爵家に行かれる時に溜息を吐いているのを見て、私が大丈夫なのか声をかけたあの時も。
アリス様は、無理をしているような笑顔で、『うん、だいじょう、ぶ』と声を出されていた。
たまに憂鬱そうな表情をされることもあるけれど、それでも私達が心配して声をかければ、アリス様は、その感情をさっと隠してしまわれる。
それも、意識的にではなく、そうすることがまるで当たり前のようにアリス様は殆ど無意識の内にそれをやっているように感じてしまう。
逆を言えば、そうして自分の感情をコントロールして、苦しみも悲しみも心の奥底に閉じ込めて蓋をしないと、自分を守ることが出来なかったのではないか、と。
私は思ってしまう。
ローラさんからアリス様の今までの事情を聞いた私は、まだ幼いにもかかわらず、アリス様がそれらの感情を表に出すことも出来ない生活を強いられてきたのかと思うと本当に胸が痛んだ。
「今まで、本当に大変な思いをされていて、まだ幼いのに、悲しいとか苦しいとか、そういう感情を殆ど表に出されない方なんです。
いつも笑顔で優しい雰囲気で話されているので、時々此方が心配になってしまうほどで」
私の言葉に動揺し、息を呑んだ様子で固まってしまったルーカス様に。
「……ルーカス様?」
と、声をかければ、ルーカス様は、ハッとしたように此方へと顔を上げて。
「そっか。……聞かせてくれてありがとう」
と、ふわりと此方に向かって声を出してくれた。
その表情はどことなく硬いままで、どうしたらいいのか迷っているような、そんなものにも思えて。
ルーカス様の感情がどこにあるのか、今一つ、読み取ることが出来ずに首を傾げる私に。
「俺はお姫様の現状を、本当の意味で知らなかったんだなって、ちょっと驚いちゃって」
と、苦笑しながら、ルーカス様は私にそう言ってくる。
「本当の意味で、知らなかった、ですか……?」
「詳しい実情までは、ね。
最近、お姫様の側にいることが増えてきて、今になって分かってきたことも多いし。
大変な思いをしてきてるのは、俺も感じてはいたけど……。
陛下がお姫様に仕えていた人間を一斉に粛清したことは知ってても、結局俺は、その結果だけしか見てなかったんだって今、痛感させられたよ」
「あ……っ、私もアリス様のお側につくまでは、アリス様が今までどんな風に過ごされてきたのかは、知らないことでした。
噂だけが、いつも独り歩きしていて……、アリス様の現状を見ようともせずに」
「うん、そうだね」
私の言葉にルーカス様が普段喋られるその声よりも1オクターブ低い声を出したのが聞こえてきて、私は驚きに目を見開いた。
アリス様のお側につかせて貰うようになってから、ルーカス様を見る機会も増えたけれど。
ルーカス様はウィリアム様と幼なじみということもあり、王宮で働く侍女の間では有名で、誰に対しても、優しく柔らかな言葉をかけてくれることから、侍女の中でも特に人気もある方だ。
私の同期である侍女も、ルーカス様を見て、きゃぁきゃぁ、とはしゃいだように声を出し、目の保養になると言いながら、ルーカス様に声をかけていたことがある。
ウィリアム様がいつも無表情で侍女に対しても特に何の反応もされないのに対し。
ルーカス様はとても優しく、マメな方で、誰に対しても声をかけられたら、にこやかに対応されていた記憶があった。
だから、今、そんな風に低い声を出されることもあるのだと驚きながら、目の前にいる人を見れば、ルーカス様は此方を見ているようで、まるで此方を見ていないような。
笑顔も一切、消え失せたようなその表情からはルーカス様が何を考えているのかまで読み取ることが出来なくて。
急に不安な気持ちに襲われてしまった、私は。
「……あのっ、ルーカス、様……?」
と、震える声で、その名前を呼んでいく。
私の呼びかけで、一瞬で、その瞳に戻った光に、ホッと安堵していれば……。
「君はそのまま、いつだって、お姫様の味方でいてあげて」
と、ルーカス様から、続けて声をかけられて、にこりと微笑まれてしまった。