目の前に佇んでいるその人に私はどうすることも出来ずに立ち尽くす。
何か言わなければいけないと、口を開きかけたけれど、結局それは音として出ることなく。
先に口を開いたのは、私では無く侍女長の方だった。
「何の役にも立たないお前でも、少しでもあの御方の役に立つようならばと。
最後のチャンスを与えてあげたというのに、碌な情報を持ってこないばかりか、無意味な時間を過ごして。
挙げ句、不在である主人の為に侍女としての仕事を全うする。
……一体、これはどういうことかしら?」
私は目の前で私に向かって、いっそ不自然なほどに、どこまでも優しい柔らかな笑みを溢してくる目の前の人を見て冷や汗を垂らした。
ぺたりと貼り付けたような笑顔はどこまでも威圧感があって。
今の今まで、私の現状をただ、黙認してくれていただけなのだと知らせてくる。
ごくりと、息を呑んでしまった私は、自然、震え始めた身体に内心で鞭を打って何とか振り絞るように声をあげる。
「申し訳ありません……、ですが、そのっ」
「
けれど、震える声で、言葉を紡ごうとした私を遮って、ぴしゃりと、全てを斬り捨てるような言葉が返ってきた。
その言葉に思わずびくりと、肩が揺れる。
顔を上げれば、さっきまでその顔に浮かべていた笑みすらもう何処にも無く。
能面の様な顔をしている侍女長の姿が目に入った。
「お前が皇女様に付くその前に、私はお前に言った筈よ。
何の役にも立たぬお前でも、皇女様の周辺を探ることは出来る筈だと。
時間ならば、それこそ今までにも山ほどあった筈でしょう?
……お前はその間、一体何をしていたというのかしら?」
そうして、わざわざ近づいてきて、私の耳元で何の抑揚も無い無機質な言葉だけがどんどん、溢れ落ちてくる。
「も、申し訳……ありませんっ」
咄嗟に謝罪することしか出来ない私に。
「いいえ、私は決して謝罪の言葉が聞きたい訳じゃないのよ。
あの方はお前に失望しておられるわ。……このままだと本当に、お前の居場所は何処にも無くなるでしょう。
そうなれば、お前が支えようとしている家族も全員、路頭に迷うことになるでしょうね?」
抑揚のない無機質な言葉の羅列から、今度はどこまでも、優しい雰囲気を醸し出して、侍女長から私に対して柔らかな言葉が降ってくる。
【お前のことを思って言ってあげているのだ】
という、
その実、それがどうしようもない程に圧力をかけて、私自身をコントロールしようとするようなそんな言葉なのだと。
私は知っている。
――知っていて、どうすることも、出来ない
「例えお前が仕えるべき主人の為に身を粉にして働いたところで、あの方のご意志でお前をあの方の側に戻した上で、首にすることも。
全て此方の思いのままであることは、お前も知っておかねばならないでしょうね」
「……っ!」
侍女長から言われたその言葉は、本当に言葉の通りなのだろう。
今はこうして、アリス様のお側に付かせて貰うことが出来ているけれど。
テレーゼ様のお心次第で、私の進退など、本当にどうとでもなると言われているのだ。
アリス様のお側にいる今の現状を取り上げられてしまうことも。
テレーゼ様のお側につくようもう一度、戻されてしまった上で首にされてしまうことも、あり得る話なのだろう。
【若しくは、何か無実の罪を着せられてしまって追放される可能性も】
新人の侍女という立場では自分の発言権など殆ど無いに等しいと私自身分かっている。
一方で、テレーゼ様は苛烈な性格をしているように思えて。
自分に対して有用なことをしてくれている者に対しては褒美を与えることも惜しみなくされていて。
飴と鞭の使い分けも凄く上手い方だと、前に一緒に働くことになった侍女から私は聞いていた。
テレーゼ様の側近になればなるほどに、宝石や靴など上等なものを身につけることが出来るそうで……。
それだけでなく、宮で働く官僚や騎士との婚約話なども持ちかけてもらえたり。
特に目をかけて、可愛がって貰えることから。
侍女の中でもテレーゼ様のお側に付くことが出来るということはステータスであり、そう言った意味で、周囲からの信用を勝ち得ている方だ。
ましてや、世間一般の人から見たテレーゼ様は、前皇后様の代わりに皇后の業務をこなし、どこにも隙が無いほどに、好感度も支持率も凄く高い御方でもある。
考えれば、考えるほどに重くのしかかってくるそれらに。
私は、どうすることも出来ないまま。
今、目の前にいる侍女長が何を私に言い出すのかその動向をただ見守ることしか出来ない。
「それで?
お前に与えられたこの長い時間の中で、少しでも役に立つ情報は得られたんでしょうね?
まさか、この期に及んで、なんの情報も得られていないとは言わないわよね?」
はっきりと、私の耳元でそう言ってくるその人に、私は思わず、びくりと身体が震えてしまった。
今ここで、テレーゼ様の役に立つことが出来る有益な情報を何一つ、私が持っていないのだとしたら。
その時は、本当にお前のことを首にするぞ、と言われているのだろう。
「あ、あの、私は……」
アリス様を裏切ることは、どうしてもしたくないと、言いたかった。
だけど、私の目の前に立ち塞がるように立っているその人が、一気に強大なように見えて、押しつぶされそうになりながらも、声を出せば。
直ぐに侍女長の鋭い眼力が此方をいっそ不躾なほどに見渡してくる。
――私の一挙一動、その全てがつぶさに観察されている
アリス様を裏切ることは出来ないと言った瞬間、私の未来はきっと閉ざされてしまうだろう。
皇宮というこの場所は、相手が何が言いたいのか、言葉の裏が何なのか。
分からない人間から役立たずの烙印を押されて消えていってしまう。
父親譲りの性格の所為で人の言葉の裏を読み取るのが苦手な私でも、今、明確に侍女長が何を言いたいのかが理解出来てしまうほどに……。
――私の立場はそれだけ、もう既に危うくなってしまっているのだろう。
まるで逃げ場のない袋小路に追い詰められてしまったみたいで。
自然、後ろの壁に、じりじりと後ずさった私は、トン、と、もう下がる後ろもないのだと、背中に当たった壁の感触で思い知る。
アリス様のお顔と、家族の顔が、交互に過っては消えていくなかで。
私は、意を決して、声を出した。
「……あ、あのっ……!
ちゃんとした情報になるのかは、分かりませんが……。
もしかしたら、アルフレッド様は……、森の中で暮らしていたことが、あるのかも、しれません……」
私の言葉に、じりじりと後ずさる私を能面のような顔で追い詰めていた侍女長の動きが、ぴたりと止まった。
「……森の中?」
――興味を、引くことが出来たのだろうか
一先ず、その問いかけに安堵しながらも、私は自然に荒くなってしまった自分の心臓の音を一生懸命に整える。
「は、はい……。
そのっ、前にアリス様と一緒に図書館に行った時に、アルフレッド様が仰っていたんです。
“僕が昔、森から出て外界の人間と交流した時は、紙というだけで高価なもので、スクロールでさえなかなか手に入ることすらなかったというのに”と……」
「森から出て、外界の人間と交流、した……?
紙だというだけで、高価なもの?
確か陛下からの紹介であるあの少年は、皇女様と同じ10歳ほどの年齢の筈。
……紙が高価だというのは、一体、どういう?」
「そ、そこまでは、私にも分かりません……」
アルフレッド様のことで、私が分かるような情報は、私が図書館でアルフレッド様の言葉に違和感を覚えたあの時の言葉だけだ。
それがどういう意味をもたらすことなのかは私には分からないけれど。
もしかしたら、アルフレッド様の出生に関わる重要な手がかりにはなるかもしれないと、その時、心の中に留めておいた言葉でもある。
――だけど。
私は今、確かに、自分で考えて、その道を選び取ったはずなのに。
私が選び取った筈の家族の顔が頭に浮かんでは……。
【どうして自分たちの方を取ったのだ】
と、私を責め立ててくる。
直ぐさま、罪悪感が自分の心の中を支配してどろどろと暗く濁っていきそうになって。
私は、襲ってくる胸の痛みに目を背けることも出来ずに、目の前で考え込む侍女長を見ることしか出来ない。
それと同時に優しい雰囲気をいつも纏っているアリス様の姿が思い浮かんだ。
【……きっと、私のことを、許しては下さらないだろう】
あんな風にいつも私のことを気にかけて下さっていたのに。
どんよりと澱んだ気持ちがどんどん自分のことを傷つけていく。
やっぱり、言わなければ良かった。
どうして、言ってしまったのだろう。
自分の発言が、後々、何か大変なことに繋がったりしないだろうか。
【アルフレッド様に、アリス様に、迷惑をかけてしまわないだろうか】
不安な気持ちが抑えきれず。
可能なら、今すぐ逃げてしまいたい思いに駆られたけれど。
でも、逃げてしまったらまた、追い込まれるだろう。
その度に、私は今日と同じ事を繰り返してしまうのだろうか。
――今でさえ、こんな風に心が軋んで悲鳴を上げているのに?
痛んだ心の中で、葛藤して悩んだのは本当に短い時間だった。
私のことを見てくれる家族の顔が浮かんできた。
きっと私が侍女という仕事を首になったとしても、家族は私のことを責めないだろう。
領民には謝るしかなくなってしまうけれど。
空いた場所には、新しく代わりに領民を支える貴族が来てくれることにはなる、と思う。
【
私は、さっきと同じように意を決して、声をあげた。
「その……っ、アリス様のお側についている騎士のセオドアさんの目も厳しくて、何か普段と少しでも違うことをしてしまった時、私に対してやんわりと指摘してきますし。
これ以上の情報はきっともう、私には手に入れることが出来ないと思います。
……それに、私はもう、アリス様のことを、裏切りたくはありません」
だけど、今度はさっきと違って、本当の自分の意思を伝えられたと思う。
私のその言葉に、考え込んでいた侍女長のその顔が、みるみるうちに、変化していくのが手に取るように分かった。
「お前っ……!
あの御方がお前の事を引き立ててくれようとしているのに、裏切るというのかっ?」
「いいえ、今、私が仕えているのはアリス様です。……私の主人は、誰がなんと言おうとアリス様なんですっ!」
「……ッッ、! なに、をっ!」
「あれぇ? 珍しいね、こんな所で。
……もしかして俺、ものすごくヤバい場面に遭遇しちゃったかな?
ねぇ、君って、お姫様の侍女だよねぇ? さっき、陛下の侍女が用事があるとかで君のことを探してたよ」
私の押し切るような言葉に、侍女長が凄い剣幕で怒りの表情を露わにして。
此方を見てきたその瞬間。
別方向から、声がかかったことに驚いて、視線をそちらに向けると。
ウィリアム皇子と幼なじみであるルーカス様が、気安い雰囲気でありながら、どこか困った様な表情で此方を見てくるのが見えた。