あれから、元々私達が出入り口としてスラムに入った場所は、お兄さま達がいる方とは別の出入り口だったらしく。
帰る時も特に誰にも遭遇することなく、約束の時間通りに待ってくれていた馬車にセオドアと一緒に乗り込んで無事に宮に戻ってきていた。
「お嬢さまっ、今日は大変だったでしょう?
ギゼル様に遭遇しませんでしたか?
まさか、ギゼル様がスラムで色々と動いているとは思いもよらずっ!」
私がセオドアと一緒に自室に入るとアルやローラ、エリスに加えて、ハーロックが私達の帰りを待ってくれていて。
開口一番に、そう言われたことに、私はふるりと首を横に振った。
「大丈夫でした」
必要以上に心配をかけてしまう必要もないだろう。
お兄さまと今日会ったのはアズというスラムの少年であり、私ではない。
だから、ハーロックにはそう答えた。
いつギゼルお兄さまがスラムにいるという情報がこの執事に入ったのかは分からないし。
そうでなくとも、お父様の目を逸らすことに今日一日神経を尖らせてくれていたのだろうから。
思いがけない展開が起きて、私達のことを心配してやきもきしていたのだろう。
私の言葉にほっと安堵したような表情を浮かべたのが見える。
それから私は今日、無事にジュエリーデザイナーさんに会えたことを伝え。
明日には王宮に来てもらい、細かい契約などを交わして貰う約束を取り付けてきたということをハーロックに報告した。
「承知しました。
明日のお昼頃からの数時間、私の方でも時間の都合がつくように調整しておきましょう」
私の言葉に頷いて、『もう遅いので私はこれで失礼します』と言ってから、ハーロックが私の部屋から退出していった。
そこで、急激に一日の疲れがどっと押し寄せてきた。
くたくたになりながらも、被っていた帽子を取って、自分の髪をまとめていたピンを一個一個、外そうとすれば。
直ぐに、ローラが気付いて……。
「アリス様、私がやります」
と言ってくれた。
その言葉に頷いて、自室の椅子に座れば、ローラが私の髪から、頭を引っ張ることもなく丁寧にピンを外してくれる。
「では、私はアリス様に何か温かい物をお持ちします。ミルクティーが良かったでしょうか?」
そうして、エリスがそう声をかけてくれて。
その有り難い言葉に。
「ありがとう、じゃぁ、お願いしてもいいかな?」
と、伝えればエリスは『勿論ですっ!』と声をかけてくれた後で、部屋から出て言った。
「……アルフレッド、ちょっといいか?
今日、どうしても俺の間に合わないタイミングがあって、姫さんに能力を使わせちまったんだ。
悪いが、直ぐに見て貰えねぇか?」
そのタイミングで、セオドアがアルに向かって、声をかけてくれる。
切羽詰まったような、そのセオドアのその一言に、驚きに目を見開いていれば。
その場にいた皆の視線が一斉に私の方を向いた。
「……珍しいなっ?
お前でも間に合わぬタイミングがあったのか……?
一体、スラムで何があったんだ?」
「詳しい話は後でする。
とりあえず、今は早急に姫さんの身体を見てやってくれ」
セオドアの言葉に頷いて、アルが私の身体を見てくれる。
「うむ、そこまで歪みも大きくなく、魂に傷は広がってはいないが。
……アリス、能力を使った時の症状は? どんなものだったのだ?」
「あ、うん。
……使った時は反動が強くて、立ち眩みで、ちょっと倒れてしまって。
でも、今は本当に大丈夫! 普段通りに動けるくらいには回復してるよ」
なるべく皆を心配させないように、にこっと笑顔を向ければ。
「……姫さん、嘘はいけねぇぜ?
倒れた後で胸を押さえてたろう?
動悸も激しいものだった筈だし、呼吸音も異常だった。……もしかしたら吐き気とかもあったんじゃないか?」
「あ、えっと……」
セオドアから降ってきた鋭い突っ込みに私は咄嗟に答えられず、思わずシュンと項垂れてしまう。
能力を使うって決めたのは他の誰でもない自分の意思だし。
いつも、ついつい皆から必要以上に気にかけられてしまうのが申し訳なくて、自分の症状を隠す方に動いてしまっているのが癖になっている私のことを。
けれど、セオドアは許してはくれなかった。
それが私のことを思って言ってくれている言葉だと分かっているから余計に申し訳なくなってしまう。
「まだ、ちょっとだけ、頭痛が、ある、ります……」
ローラもアルも、セオドアも。
皆から一斉に心配そうな視線が向いたことに耐えきれず、思わず出した自分の言葉遣いはしどろもどろで、かなりおかしな物になってしまったけれど。
「頭痛だけか? 吐き気は?」
とアルに聞かれて、私は首を横に振った。
「ううん、それは大丈夫。
使った時は確かに反動が強くて、吐き気には襲われたけど。今は落ち着いてるよ」
「そうか」
安堵したような吐息を溢したあとで、アルが私の方を見たまま。
「アリス、お前が思っている以上に能力の反動が大きいのは、お前の能力が“時を操る”という世の中の法則を無視したデタラメな物が故だ。
以前、お前が倒れた時に丸一日目を覚まさなかった時よりも、今回の反動はそう大きいものではないが、それでもまだ完全に馴染むのには時間がかかるだろうな」
と、教えてくれる。
「アルフレッド様、アリス様の能力が身体に馴染むことが出来れば、一切の反動を無くすことが出来るのでしょうか?」
「いや。……少なくとも、アリスほどの力を持つ人間は完全に能力が馴染んだとしても、一度使用するだけで大なり小なり、反動が起きることは覚悟しておかねばならぬ。
前にも言ったが、それでも、一度の放出量を最小限に減らすことは結果的にお前の身体の安定に繋がることだから、僕と一緒にいる時にその練習をすることは止めるつもりはないが……」
「……つまり、だ。
アルフレッドと練習もしていない内から。
例え、どうにもならない時があろうが、無茶しようとすんのだけはやめてくれっ。
姫さんが能力を使った時、本当にっ、生きた心地がしなかったんだからな?」
「うむ、そういうことだぞ、アリス」
ほっぺを膨らませて、此方に向かってセオドアの言葉を肯定するアルと、アルに私の身体の歪みがそこまで大きく広がってないと聞いて、心底、ホッとしたような表情を見せてくるセオドアと。
未だ此方を見ながらも心配してくれているローラのその表情に、何とも言えなくて、反省しながら、私は、こくりと頷いた。
「……うん、ありがとう。心配かけちゃってごめんね。
能力を使うのは、今日みたいな時とか、その、なるべく必要最低限に抑えようとは、思って、ます……」
「……むぅっ。仕方が無いが、まぁっ、とりあえずはそれで譲歩してやろう。
それで? 今日は一体どうしてそんなことになったのだ?」
私の言葉に、アルが頷いたあとで、問いかけてきてくれる。
その言葉に私は今日、スラムで情報屋を営んでいるツヴァイのお爺さんから人身売買の摘発に協力するよう、依頼を受けたこと。
仮面をつけてセオドアと、アズとテオドールという情報屋を騙って、ギゼルお兄さまと一緒に屋敷に乗り込んだ過程で、お兄さまが見張りの男の策略で子供に刺されそうになってしまったことなどを、掻い摘まんでアルに説明した。
私の話を聞いたあとで、アルが微妙な表情を浮かべて此方を見てくる事に、頭の中をはてなでいっぱいにしながら、『アル……?』と呼びかければ。
「事情は分かった。
……それが、致し方のないことだと判断して、お前が能力を使ったのだということも“
と、言いながら。
ちょっとだけ、怒ったような、拗ねたような表情でアルが唇を尖らせるのが見えた。
私が、その姿を不思議に思っていると……。
「……姫さんは、優しすぎる」
今度は、セオドアが私に向かって声をかけてくれる。
「……??」
その言葉の意味がよく分からなくて首を傾げた私に。
「第二皇子に今まで何を言われてきたのか、どんな風に傷つけられてきたのか。
姫さんがどれほど辛い思いをしてきたのかなんて、
と、セオドアにそう言われて、ようやく2人がどうしてそんな風な表情や言葉を出してくれていたのかに合点がいった私は……。
【嗚呼……】
と、内心で思ってから。
「あの時は、そんな風に考える余裕もなくて……。
ただ、今ならまだ“やり直せる”って思ったから、身体の方が先に動いちゃったというか……」
と、声に出した。
お兄さまだけじゃなくて、あのままじゃ犯罪者になってしまいかねなかったあの子のことも、私が能力を使いさえすれば、元通りにすることが出来るって、思ったから。
一度だって、そこに、躊躇いはなかったと思う。
一瞬の出来事で躊躇する時間さえ与えて貰えなかったっていうのもある。
――今までは、自分の大事な人だけ守れればそれでいいと思っていた。
【だって、自分の両手に抱え込める物の数には限度がある】
だから、私は私の大事なものだけは、せめて守れるようにしておきたい。
本当に必要なものは、少量でもいい。
例え少なくても、それだけは決して私の手から溢れ落ちてしまわぬように。
今までは、確かにそう思っていた。
でも……。
【……取り返しのつかない事をしてしまった、と】
後悔をその表情に色濃く浮かべたあの子を見た時。
その思いが、巻き戻し前の軸で生きてきた私の人生そのものと酷似していた。
“間違えたんだ”って思った時にはもう遅くて……。
取り戻すことが出来なくなってから気付く。
大切な人のこと。
自分のことを思っていてくれた人のこと。
――その人を、自分の所為で死なせてしまったこと
見慣れた筈の“赤”。
じわじわと、お兄さまの服を染めて広がっていく、その赤色に。
お兄さまとダブって、あの日私を助けてくれた、ローラの影が重なって見えた。
今、自分の目の前で救える命がもしもあるのなら。
このあと、後悔が残ってしまって、これから先、その思いに
その人の人生が壊れてしまうことを救えるのだとしたら……。
これから先も、私には決して多くの人を救うことは出来ないかもしれないけれど。
それでも、近くで困っている人がいて、その人を助けられることが出来るなら……。
可能な限り、手を差し伸べたい、と今は思う。
あの時、“それ”は、その場では、自分にしか出来ないことだったから。
「むうっ……。だが、お前があの小僧を助けたところで、お前が能力者であることは言えぬ訳だし。
“お前が”命を削ってまで自分を助けてくれたなど、あの男は知る由もないだろう?
刺されっぱなしになるのが、良いとは言わないが。
あれほど酷い言葉をお前にかけてきたあの小僧のために、お前が命を削るのは僕は納得出来ぬっ」
「アル……っ。
私の為に怒ってくれてありがとう。それと、心配をかけさせちゃってごめんね?」
「お前のその優しさに救われる人間が多いのは分かってはいるがな……」
「あぁ、姫さんの身体は代えがきかないんだ。
他の誰かばかりじゃなく、自分の事も、もっと大事にしてやってくれ」
アルとセオドアに言われて、私はこくりと頷いた。
自分の身体のことも、勿論大切にするつもりはあるし。
二人が心配してくれて、そう言ってくれてるのは分かってる。
私にとっては、私よりも、いつも私をこうやって気にかけてくれる二人の方が優しいと思ってしまう。
それから、ローラも。
「いいですか、アリス様。
今後は能力を使用しても、自分の身体のことは逐一私達に相談してください。
吐き気止めとか、頭痛に効くお薬とか、ロイに伝えたら処方してくれる筈ですし、我慢しちゃ駄目ですよっ」
「あ、ありがとう、ローラ。これからは、伝えるようにするね」
「絶対ですよっ、絶対っ!
はいっ、今、約束して下さい、絶対っ!」
「う、うん、ぜったいっ……!」
私がローラの迫力に気圧されて、頷いてそう答えたら、セオドアが、扉の方へと視線を向けた。
その反応で、そろそろエリスが、ミルクティーを持って戻ってきてくれているのだと分かって、私は今日一日、本当に色々なことがあって、長かったなぁと思いつつ。
私の髪の毛をまとめていたピンを外すことを再開してくれたローラに身体を委ねることにした。