第145話【ギゼルSide】

 バタバタと忙しい事後処理を終えて。


 やっと王宮に帰ってきた俺は、父上に報告したその後の廊下で、偶然兄上に遭遇した。


 手には何かしらの書類を抱えていることからしても、もしかしたら今の今まで仕事をこなしていたのかもしれない。


「あ、兄上っ……」


「あぁ、ギゼルか。……聞いたぞ、今日は大活躍だったみたいだな?」


 俺がスラムで人身売買の奴らを摘発したということは、もう既に兄上には知られていたのだろう。


 珍しく兄上の方から、褒めるように声をかけてきてくれたことに、驚きに目を見開いた俺は直ぐにその言葉に返事を返すことが出来ず、一瞬だけ、固まってしまった。


「ギゼル……?」


 そんな俺を見て不思議に思ったのだろう。


 怪訝な表情をしながら俺を呼ぶ兄上に、ハッとして。


「いえっ……そのっ、俺が、兄上に褒めてもらえるのなんて、いつぶりかと……」


 動揺しながら、声を出した俺に、兄上はほんの少し罰の悪そうな顔をしながら……。


「いや。

 ……成長を認めてやらないとって、この間、痛い所を突かれて諭されたばかりだからな」


 と、声をかけてくる。


「……兄上?」


 兄上が俺にかけてきたその言葉がどういう意味なのかよく分からなくて、首を傾げつつ、問いかければ。


「お前が気にするような話じゃない」


 それ以上を俺に教えてくれるつもりはないのか。


 兄上はいつも通りに戻っていた。


【……あれ? いつも、通り、の筈だよ、な?】


 そこで、俺は明らかな違和感に気付く。


 最近、アリスのこともあって兄上を碌に見ることもせず意図的に避けていた所為もあって、いつからそうなったのかは分からないけど……。


 久しぶりにまともに見る兄上の表情は、いつもよりも格段に、柔らかい印象になっていた。


【いつも無表情だから、どうしても傍から見たら冷たい印象になってしまいがちだったのに。

 一体、いつから兄上はこんな風に穏やかな顔をするようになったんだろう?】


 兄上の片目が義眼であることは、誰にも言えない秘密であり。


 兄上がそれを隠すために目に違和感が出ないようにと、普段から無表情でいることを心がけていることを俺は知っている。


 それ故に、どうしても表情に変化が出にくく。


 俺はそれを知っているから何とも思わないけど。


 他の奴らからすると、ともすれば怒っているのだろうかと勘違いされてしまいそうな程に、その目は冷たさを帯びていた筈なのに。


 気付かない間に、角が取れて丸くなったような、そんな雰囲気を醸し出す兄上に、驚きながらも……。


「父上も今回のお前の功績には満足しているだろう。

 ……事業がまだ拡大するその前に人身売買の摘発が出来たことは被害を最小限に抑えることにも繋がった筈だ」


 と、兄上から更に言葉をかけてもらえて。


 その、滅多に出ることの無い兄上の褒め言葉に、びっくりしながらも、何て言うか、認めて貰えたような気持ちになって、じわりと嬉しさが内心に広がっていくのを感じる。


「はい、ありがとうございますっ!

 あ、でもっ、これは俺だけの功績じゃないっていうか、なんていうかそのっ……」


「お前だけの功績じゃない……?」


 だけど、はっきりと俺だけの功績だって言えないのが何とも格好つかないよな。


 と、内心で思いながら、俺は兄上に事実を伝えることにした。


「スラムで出会った情報屋の2人組が協力してくれたんですっ。

 本当なら、その2人に功績に対する報奨を出したかったのですが、気付いたらいなくなってしまって……」


 多分、昔のままの俺だったら、あいつらのことは抜きにして。


 自分の功績ということにして手柄を自分の物だけにしていただろう。


 でも、今はあいつらの存在を隠したまま、自分の手柄だと胸を張って言うことは、どうしても出来なかった。


【そもそも、倒した人数でいえば、テオドールが圧倒的だったしな】


「スラムにそのような、善行をする者が?

 他に何か目的があったとは考えられないのか?」


 俺がそんなことを考えていたら、怪訝な表情を浮かべた兄上に問いかけられた。


「いえ、それは絶対に有り得ませんっ。

 放っておいても俺から父上に話が伝われば、協力者として報奨が得られたはずですしっ!

 それを辞退した上で……。特にアズは、本気で子供たちのことを心配して救いたいと思っているようだったので」


 兄上のその言葉に、俺は首を振ってその言葉を否定する。


 アズとテオドールとは、ほんの少ししか一緒にいなかったけど、あの2人が本気で子供たちのことを救おうとしていたのは俺には分かってる。


【だから、兄上が心配しているようなことは絶対にないだろう】


 もしも何か目的があって俺に近づいてきたのだとしたら、あいつらが俺に黙っていなくなってしまったことの理由に説明がつかない。


 未だに一言だけでも声をかけてくれれば良かったのに、という思いが強くて、何でいなくなっちゃんだよ、と内心で思いながら、唇を噛みしめる俺に。


「明日生きて行くにも大変で、自分のことで精一杯な暮らしをしている筈の人間が、わざわざ、お前に協力して、子供のことを救う、か……。

 ……アズと言うのは? お前が会った2人組の1人のことか?」


 と、兄上が、考え込む素振りをみせたあとで、更に詳しく聞いてくるのを。


「はい。

 なんていうか本当に、心が清いっていうかっ、滅茶苦茶良い奴でっ。

 俺の事も理解してくれて……。あっ、それで、兄上……、そのっ、大声を出しただけで直ぐに倒れてしまうようなそんな病気に何か心当たりがありますか?」


 俺はアズがもの凄く良い奴であることを強調しつつ。


 今日、アズとテオドールに会った時にどうしても気になってたことを、兄上なら知っているかもしれないと思って問いかけた。


「……大声を出しただけで、倒れる?」


「そうなんですっ。

 ……アイツ、滅茶苦茶、身体が弱いみたいで。

 俺と人身売買の摘発の為に乗り込んだ屋敷でも、ふらっと、倒れてしまったのが見えたんでちょっと気になって……っ」


「……いや、それだけじゃなんとも言えないな。

 範囲が広すぎるし、医療のことに関しては俺もそこまで誰かに語れるほど詳しくもない……。

 だが、もしも、ふらっと倒れたのだとしたら、直ぐに思いつくのは貧血だ」


「……貧血っ」


「何かの病気を発症してるのだとしたら、それの副次的な症状として貧血が起こることも不思議ではない。

 というよりも、そんな身体で人身売買で捕まっている子供を助けようとしていたのか?

 それは無茶を通り越して、無謀だと思うが」


「あぁ、いえっ!

 2人組の内、1人は身体が滅茶苦茶弱かったんですけどっ、もう1人がべらぼうに強くてっ!

 その並外れた身体能力で、殆どの人間はソイツが倒してくれたんで」


 兄上の言葉にあいつらの事は悪く言って欲しくなくて、首を振って否定すれば、それで、兄上も納得はしてくれたようだった。


 ……それにしても、貧血の症状、か。


 あいつらと一緒に居たときはそこまで頭が回らなかったけど、確かにアズがふらっと倒れてしまったのには、それで納得がいく。


【だけど、ただの貧血で、テオドールがあんなにもアズに過保護になって心配するだろうか?】


 いや、ちょっとというか、アズに対してはかなり、ブラコン気質な所を発揮しているような気がしたけど。


 それでもただの貧血なら。


 あそこまで必死になって、アズの心配をしているのに説明がつかない気がした。


 だからこそ、兄上の言うように。


 アズが持病を持っていて、それに対して副次的な症状として起こる貧血なら、テオドールがあんなに心配していたのにも頷ける。


「あ、あのっ!

 兄上っ。スラムで人探しをしたら、直ぐに見つかりますか?

 もしも、アズが持病を抱えているのなら、今回俺に協力してくれた礼として、いい医者をつけてやって、助けてやりたいなって思ってっ」


 もしも、アズが持病を抱えているのだとしたら、スラムでテオドールと2人で暮らすのも大変だろう。


 王宮の医者をつけてやることが出来るなら、それに越したことはないと。


 アイツのことを助けてやりたいと声を出した俺に、兄上の表情は思った以上に厳しいものだった。


「……いや、そもそも雑多に入り組んでいるスラムで人を探す事自体が難しいからな。

 お前の言うように、その2人組が情報屋なのだとしたら、ある程度スラムの中でも生計を立てて、暮らしていることが出来ている部類の人間の筈だ。

 そういう人間が、帝国の皇子であるお前に積極的に関わること自体が珍しいことだし。

 スラムは人の入れ替わりも激しい場所でもある。

 今日、スラムで会った人間が明日も同じようにその場所で生活しているとは限らない。

 特にきちんとした情報屋としての基盤があるのなら、例えば、ある程度ここで暮らしたあとで、余所の国に移ったりしていても可笑しくはないだろう」


 兄上のその言葉に、落胆が大きくて……。


 俺は思わずがっくりと、肩を落とした。


「確かにテオドールは、色々な所に移り住んで暮らしている風だったもんな……」


 小さく呟いた俺の一言に。


 ぴくりと、兄上が僅かに反応したのがみえた。


「ちょっと、待て。……今、って言ったか?

 確か、アズは身体が弱くて、もう1人はもの凄く強いんだったよな?」


「えっ?

 あっ、あぁっ……そうです。

 アズとテオドールっていう男の兄弟2人組で。

 テオドールは本当に、何て言うかこんなに強い奴いるんだっ!

 ってくらい強い奴でしたけど、兄上、もしかして、テオドールに心当たり、が?」


「いや……、なら、違うっ、だろうな。

 テオドールっていう名前と、そんなにも強い人間だっていうのなら、アイツの可能性もあったが。

 そもそも、スラムにアイツがいる筈もないし、な……っ。……何でもない、俺の勘違いだろう」


 思考をまとめるようにあれこれと声を出したあとで、兄上は自分の中で自己完結したのか、その話をさらっと終わらせてしまった。


 一瞬、テオドールっていう名前に聞き覚えがあるのかと思って、希望を持ってしまっただけに滅茶苦茶ショックだったけど。


【確かに、スラムにいる人間が兄上の知り合いである訳ないよな】


 ――だったら、もう仕方が無い。


「あの、兄上。それと、俺っ。

 ここ数年で、帝国で起こった事件について調べたいことがあって、もしも可能なら過去の事件が遡って記録されている書物の置かれている部屋への出入りを許可して頂きたいのですが」


「……過去の事件? あそこは父上の許可がなければ入れないことになっているぞ。

 もしも、何か調べたいことがあるのなら俺ではなく、父上に許可を仰がないといけないだろうが……、一体何を調べるつもりなんだ?」


「過去数年の間に、で、誘拐かなんかで攫われてしまって未だに行方知れずになっている事件とか起きてないかと思ってっ。

 そ、そのっ、俺が今日会ったアズっていう奴が、スラムで暮らしている人間とは思えないほどに綺麗な敬語を使っていて……。

 屋敷の内部の構造とかにも詳しかったし、簡単な計算の知識もあって、昔、悪い奴に捕まってたことがあるって言ってたんで。

 もしかして、本当は貴族の子供かなんかで、悪い奴に捕まって逃げ出してきたから……っ。

 スラムで暮らしているのかもしれなくて……」


 自分の知恵を振り絞って、2人のことを必死に考えた俺の策がこれだった。


 ――もしもアズが元々は、貴族の出の子供だったのだとしたら?

 

 それならば、アズがあれほど綺麗な言葉を喋っていたのにも、簡単な計算とかの知識があったのも、貴族の屋敷の構造に詳しかったのも全部理解出来る。


 テオドールとは、それこそ今日の人身売買みたいに奴隷か何かにされそうになって同じ場所に捕まってしまっていたところを、お互いに助け合ってなんとか脱出したんじゃないだろうか……。


 そうしてそれ以来、2人で支え合って義理の兄弟として生活しているのなら。


 全てのことに辻褄が合う気がして……。


【自分の立場を乱用してしまうみたいでちょっと気が引けるけど】


 それでも、俺はもう一度、あの2人に会いたかった。


 ……特にアズには。


 単純に今回の協力者として、お礼を伝えたいから会いたいというだけでは、弱い。


 アズの体調のことを言っても、さっき兄上が、スラムで人探しをするのは難しいと難色を示していたように。


 俺のただの我が儘で、大規模な捜索なんか、誰もしてくれないだろう。


 ――でも、過去に誘拐された未だ行方知れずの子供の手がかりが掴めたとなったら話は別だ。


 その子供が生きている可能性がある以上。


 もしかしたら帝国の騎士を派遣して探すのを許可してくれるかもしれないという希望があった。


 そのために、過去に起きた事件の記録を見て、アズに該当するような特徴のある子供が誘拐されていないか、俺は調べたいと思っていた。


【……あいつらともう一度会えるかもしれない可能性は、最早、それしかない】


「事情は分かった。

 ……そういうことなら、父上に頼めば見せて貰えるかもしれないな」


「……本当ですかっ!」


「……あぁ、確約はしてやれないが」


「それでも充分です。今度、父上に頼んでみます」


「そうか。……それで、ギゼル。

 お前は、アリスのことに関して、このままで、本当にいいと思っているのか?」


 俺が目を輝かせて、兄上にそう言えば、兄上が此方を見て、そう言ってくるのが聞こえてきた。


「……っ!」


 この間も図書館で一方的に俺が怒ったあと、ルーカス殿と2人で、兄上が俺と話をしようと言ってきたのを。


 突っぱねて『何も聞きたくないっ』と言ったばかりだったので、途端に気まずくなって、その場に沈黙が流れ落ちる。


 そんな俺を真っ直ぐに見つめながら……。


「アリスには、俺の瞳のことを伝えておいた」


 と、兄上から降ってきたその言葉に俺は驚きに目を見開いた。


「ッッ! な、なんでっ、!

 だって、ずっと隠してっ……。

 ア、アイツに伝えたらっ、もしかしたら兄上の秘密が利用されるかもしれないんですよっ!?

 ……兄上は、絶対に父上の跡を継ぐべき人なのにっ!」


「アリスは、絶対に、そんなことはしないだろう」


 俺の取り乱したような言葉に、兄上が落ち着いた声色で、けれどしっかりと。


 此方に向かって声を出してくる。


「……っ!

 そんなのっ、分からないじゃないですかっ!

 今は確かに大人しいかもしれないけど、アイツはっ!」


 そのことに、納得がいかなくて更に声を荒げる俺に。


「ギゼル。

 ……俺のことを伝えた時、アイツが俺に何て言ったと思う?」


 と、問いかけるように兄上が俺に声をかけてきた。


 その声色はどこまでも、穏やかで……。


「……どういう、!?」


「俺がずっと黙って隠していたことに対して、“?”って言ったんだ。

 アイツは俺が隠していたことに対して本来なら俺が受ける筈だった誹謗中傷も全て、自分だけが今まで背負ってきたことを、一度も責めるような発言はしなかった」


「……っ、!」


 混乱して吐き出した俺の言葉に。


 兄上はそのまま、アイツと2人で交わしたのであろう遣り取りを教えてくれる。


【アイツがっ、アリスが……兄上のことを労るような発言、を?】


 兄上が今、語っている人物は、本当に俺が知っているあの“アリス”なのだろうかと。


 どうしても信じることが出来ず、疑う気持ちの方が強くなって、表情に出た俺に。


「もしも俺のことで、と、過剰にお前が反応しているのならそれはもう止めていい。

 ……お前にも何が正しくて、何が間違いなのかきちんと見極める目を持って欲しい」


 と、兄上から言われて……。


 その言葉に俺は戸惑ってしまう。


 そんな風に、急に言われてもっ……、直ぐにはそれを頭の中できちんと整理して、呑み込むことなど出来やしない……。


【ずっと我が儘に、皇族の予算も湯水のように使って、好き放題やっていると思ってた】


 例え今、以前に比べて大人しくしているといえども、アイツのことを、兄上のように、父上のように、直ぐに認めることなんて出来ない。


 ……最近の父上は必要以上にアイツのことを気に掛けて、俺たちのことを放置しているとまでは言わないが。


 俺たちのこと以上に、過剰なまでにアリスの心配をしているように感じるし、何より、以前のような厳しさもありつつ、最近父上の表情がどこまでも柔らかくなった。


 アリスに向けるその視線は、特に、だ。


 ――そこで、気付いた


【兄上も、さっきそんな表情をしていた、な】


 ……


 確かに、兄上の言う通り、今までアイツも、……アリスも、生きている以上は、拒むことも出来ずに、誹謗中傷の類いを受けてきたのだろう。


 俺だって、アイツには酷いことを沢山言ってきた。


 ……それは変えようもない、事実だ。


 そのことに関しては、俺だって、悪い部分は、あったと思う。


 どう足掻いたとしても。


 


 


 俺が生きてきたことは事実、だから。


 ――どうしてか、今、アズの姿が頭を過った。


【アズは、許してくれるだろうか】


 赤を持った奴に対して過剰なまでに、汚い言葉を吐き出した俺のことも。


 忌み子だって声に出して、口汚く罵ってきた俺のことも。


 今まで俺が明確に赤を持つ者に対して差別してきたということを。


 一度、アズに対しては謝ったけれど。


 本当の俺がどれほど醜い言葉を吐き出してきたのかを知ったら、幻滅してしまうかもしれない。


 そこまで、考えて、思った。


 ――きっと、アズは許してくれるんだろう。


 アイツの纏う雰囲気がどこまでも優しいものだから……。


【仕方が無いって、笑うんだろうか……?】


 赤を持っているから、仕方が無い。


 それは当然、自分が受けるべき物なのだと……。


 諦めながら、そうやって生きてきて。


 ――どうして、アイツは、あんなにも、綺麗なんだろう。


「俺は、っ……まだ、兄上のようにアイツのことを、アリスのことを認めることは出来ない。

 でも、っ……俺が今までアイツにかけてきたその言葉に対しては悪かったと思ってる部分も、あります」


 吐き出したその言葉は、今の俺の精一杯だった。


 ……俺の言葉に兄上は驚いたように目を見開いて。


「そうか……」


 暫くしてから、此方に向かってかけてきたその声は、どこか、安堵したような、嬉しそうなニュアンスが色濃く混じったような、そんな声色だった。