入り組んだスラムの路地裏を歩きながら……。
鼻歌交じりに、いつか何処かで聞きかじったサビしか知らない賛美歌を歌う。
教会の前に辿り突けば、“俺”を見つけたゼックスが。
『爺さんからの依頼は終わったのか?』と問いかけてきた。
その言葉に、にこっと人懐っこい笑みを溢しながら、今日も自分で作った“エプシロン”という人物像を演じきる。
――そうなんっすよ
――滅茶苦茶、簡単な依頼だったっす
そう告げれば、報酬を貰うという名目で、教会の目の前にいる番人は扉を開けてくれた。
“ツヴァイの爺さん”と、客が会うときは基本的に一対一。
誰にも情報が漏れることのないようにと。
――過去に“
教会の奥でツヴァイの爺さんが“俺”の姿を見つけて、座っていたベンチから立ち上がるのが見えた。
「ちはっす! 天使ちゃんとお兄さん、爺さんの約束通りに依頼された人物に引き合わせてきたっすよ!」
にこにこと笑いながら声を出せば。
まるで、薄気味悪い物をみるように此方を見て。
「お前さんがその姿で儂に会って話していると、本当に気持ち悪くてかなわんのだが。
一体、いつまで、そんな風に話しているつもりだ、
と、声をかけられた。
「……えぇっ!
俺、このキャラ滅茶苦茶お気に入りだったのに」
口を膨らませて、おどけて見せれば。
目の前で、“
【本当につまらないったらありゃしない】
もっと、反応を見せてくれたっていいんじゃないかと思うけど。
最初の頃は些細なことですら驚きに目を見開いていたくせに。
何十年も一緒にいるせいで、今じゃすっかり見慣れてしまっているのだろう。
新鮮な表情の変化さえみせてくれやしないツヴァイの、そのいい加減な対応に小さくため息を溢しながら。
“
ディティールから、それこそ細部にまで拘って作り上げた、あまりにも馴染みが深くなってしまっている、おおよそ、17歳くらいの年齢の、自分が作った三下感丸出しの男の設定から、元の姿へと戻っていく。
【エプシロンから、
【俺から、僕へ】
変わらないことがたった一つあるのなら、自前のこの
僕がエプシロンではなく、このスラムを取り仕切るアインであることを知っているのは、今の世ではこのスラムで
昔はもっと若くて、血気盛んな男だったのに、爺さんになってからすっかり丸くなっちゃって。
内心でそう思いながら、僕は包帯を取った自分の腕に視線を向けた。
実際の怪我以上に見た目が腫れ上がっていて痛々しいその箇所に視線を向けてふぅっと溜息を溢す。
――手加減してくれていたとはいえ、相手はノクスの民だ。
三下の設定の“俺”じゃ、到底敵いっこない。
だから、ほぼほぼ無防備だった状態の“エプシロン”からしてみればそこそこの痛手である。
お陰で、今日一日、久しぶりの大きな怪我の痛みに直ぐに治すことも出来ず耐えなければならなかったのが多少面倒くさかったりはしたけれど。
【……もう目的はすんだことだし、デルタ達の前では変わらず包帯はするとして。
わざわざ、この傷をずっと残しておく必要はないだろう】
流石に“目”のいいノクスの民を相手に、治った状態を見せれば勘づかれる可能性もあったから、このままでいたが。
デルタ達くらいの目であれば、幾らでも誤魔化しがきく。
未だ、変な捻り方をして腫れ上がり微妙な動き方をしていたその腕を“自分の力”を使って治療すれば、あっという間に、元通り、何の痕跡も残らず完治した腕に。
さっきまで怪我をしていた箇所が急激に治ったその違和感を、僕はぐーっと伸びをするようにして、元に戻した。
「それで?
直ぐに治るとはいえ、珍しくお前さんが腕一本、犠牲にしてまで得られた物はあったのか?」
ツヴァイのその一言に僕は無言でにやりと笑った。
その笑顔を見ただけで、言葉などなくても、ツヴァイはその意味に気付いただろう。
【収穫も、収穫っ。……大収穫だ】
「全てのことは“僕等”が思い描いていた通りに進んでいる」
僕のその言葉に、呆れたような表情を見せたツヴァイが。
「確かに、事実、お前さんの言う通りに事は進んでいるな。
しかし、いい加減に、教えてくれても良いのでは無いか?
スラムでこんな大規模な監視システムを作り上げ、ずっとこの場所に長いこと正体不明の
ずっと言っていた、皇女とノクスの民の組み合わせがいつか、儂のことを訪ねてくる。
「……今はまだ、その時じゃない」
僕のいつも通りの突っぱねるようなその言葉に、ツヴァイは呆れたような視線を向けて。
『相も変わらず、秘密主義か』と、声を出す。
ツヴァイというのは名も無きこのスラムで一番賢い人間に与えられる称号だ。
僕は悠久の刻の中で、寿命で死んだり、定期的に入れ替わる
だけど、本来の目的は誰にも伝えていない。
【僕はまだ、“人間”という物を本当の意味で信じていない】
そうして、これからも。
――
エプシロンも、
このスラムで“人”として偽りのサイクルを繰り返し、随分長いこと暮らしてきたが。
今日、この日が来ることを、僕がどれ程待ち望んだことか。
視線をツヴァイに向けて、この場所から少し離れて一人にして欲しいことを告げれば、長年ここに暮らしてきて、僕の存在を唯一知っているこの男は。
やれやれと、頷いたあとで……、教会の地下へと姿を消した。
ツヴァイのその姿を見送って、教会の更に奥。
礼拝堂のある、僕以外は、誰も入れないその場所へと足を踏み入れる。
――嗚呼
「
壁画に描かれた絵を懐かしみながら、僕は声を出した。
“純粋な魂”だけに溢れていた世界が汚され、穢され、踏みにじられて。
醜い物で溢れるようになってしまって、どれ程、刻が過ぎていっただろう。
久しぶりに感じる懐かしい匂い。
「今代のこの国の皇女は、“君の面影”を色濃く受け継いでこの世界に誕生してくれていたよ」
君が予知した言葉の通り、一度、多くの時間を巻き戻したのだろう。
……確か、君の予想では6年ほどだったか。
――必然だったとはいえ
――それが運命だったとはいえ
その代償は決して少なくない。
可哀想なくらい歪に軋んで悲鳴をあげている魂に。
それだけ、この世界が濁っているのだと実感する。
だけど、これから先、きっと、彼女を中心に世界はいい方向へと動いていくだろう。
――君の最後の希望だった天使のお陰で……。
僕達が誰よりも、その恩恵を受けることになる筈だ。
「長いこと森に引きこもっていた筈の
……僕等が望んだその世界が、もうすぐきっとやってくる」
僕は、長年子供たちの面倒を見るためにと、人間と交わることが大好きだったのに。
僕が自由に外へと出てしまったがために、自分は出ることが出来ずに引きこもっていた
「……やっぱり、お前もかつての僕と同じ。
“天使”に惹きつけられてその力を貸すことを選んだんだね、アルフレッド」
小さく出したその一言は、僕以外の誰の耳にも届くことなく。
そっとその場の空気に溶けるように掻き消えていった。