姫さんの部屋に入ってから、どれほど時間が経っただろう。
図書館から様子がおかしいな、って思ってたのは、嘘じゃない。
ただ本格的におかしいって思ったのは、部屋の前に来て。
……姫さんの辛そうな声が、室内から聞こえてきたからだった。
【皇族を縛る、呪い】
【お母様】
そして、極めつけの。
――言葉にならない、泣きそうな、声
姫さんの口から零れ落ちる、それらの単語と声を聞けば、誰だって明らかに様子がおかしいことに気付く。
心配になって、少し躊躇ったあと、扉をノックすれば。
少ししてから、まるで何かに怯えるように、青白い顔をして出てきた姫さんに。
……ただでさえ。
今日は、
【情緒が不安定になったって、なんら可笑しなことじゃなかったのに】
もっと早く気付いてやれたら良かったと、自分自身に舌打ちしたくなるような気持ちを抑えながら……。
俺は、青白い顔のままの姫さんを抱え上げて、問答無用でベッドの上に強制連行した。
……まだ子どもだってのに、俺から見ても分かるくらい。
姫さんは、誰かの悪意や敵意みたいなものを、完璧に受け流す術を、覚えてしまっている。
だからこそ、その辛さも、痛みも、誰かに吐き出すようなことさえ、思いつきもしないのだろう。
【どれくらい長い間、自分の中にだけ溜めて、流してきたのだろう……】
それが“異常”だってことに、本人が気付いていない。
だから……。
少しでも抱えたものを吐き出して、ちょっとでも、楽になればいいと思って、言葉で促してやれば。
堰を切ったように、ぼろぼろと、その目から涙が溢れてきて。
――今に、至る。
俺の腕の中でずっと、声にもならないような涙を流し続けてた姫さんが。
暫くして、少しだけ落ち着いたのか……。
困った様に、顔を上げたあとで。
涙声のまま……。
「……セオドア、ごめんね。
ずっと、こうしてくれてて、ありが、と。……もう、大丈夫、だよ」
おずおずと、そう言ってきたのを聞いて。
最後まで、目尻に浮かんだままの、落ちきれていなかったその涙を指でぬぐってやる。
「……んっ、ぅ……っ」
大人しく俺に身体を預けきっている姫さんが。
俺の腕の中で擽ったそうに、身じろぎ一つ、したあとで。
「あ、あのね、もしかしたら、今日で、一生分、泣いちゃったかもしれない。
セオドアのおかげ、だよ……、ほんとうに、ありがと、う」
と、ふわりと此方に向かって笑顔を向けてくる。
こういう時まで心配かけないように、そんな顔する必要なんてどこにもないのに。
俺の方を見上げて、笑顔を見せる姫さんの頭をぽんぽんとあやすように撫でたあとで。
俺は姫さんの頬をむにっと、摘まんだ。
「……っ、ひ、ぁっ、!」
「また、そんなこと言って笑って……っ、」
加減して摘まんだから、痛くはなかった筈だけど、驚いた様な声を出したあとで。
俺の言葉を聞いた姫さんが不思議そうな顔をして……。
「……うん? 私、ほんとうに、セオドアのおかげだと思ってるよ?」
と、俺に言ってくる。
……その勘違いを。
「姫さんの言葉を疑った訳じゃねぇよ。……我慢して、無理に笑わなくていいからな?」
訂正するように声を出せば。
そこで、合点がいったのだろう、俺の言葉に、姫さんが
「……うん、だいじょうぶっ。本当に、無理して笑った訳じゃないよ」
と、苦笑しながらそう言ってくる。
その姿から、言葉の通り、我慢して無理矢理笑った訳じゃなかったのだろう、ということは察することが出来て、内心で安堵する。
……それから。
時間にしたら、そんなに経ってないと思うけど。
俺たちの間に、ほんの少し生まれた静寂を掻き消すように……。
「あ、あのね。セオドア……。
そのっ、今日、ギゼルお兄様に、言われたことなんだけど……」
……と。
どこか、気まずそうな顔をした姫さんが、意を決したように俺に向かって声をあげた。
今日“第二皇子に言われた言葉”ってのに、心当たりが多すぎて。
姫さんが“どの”言葉を指しているのかが分からなかったが。
いずれにせよ、碌でもない言葉ばかりだったのを思い出した俺は。
姫さんが泣く原因を作ったあの餓鬼が許せなくて、眉間に皺を寄せる。
そんな俺の姿に、一瞬、びくり、と不安そうに姫さんが肩を揺らしたのが見えて……。
「あぁ、どうした……?」
と、俺は努めて冷静に、柔らかい声色になるよう注意しながら、声をあげた。
「……あの、っ……。ギゼルお兄様が、私に言っていたこと……。
今まで、皇族のお金を湯水のように使ってた、っていうの、本当、なのっ……。
別に隠してたことでも、なかったん、だけど……。その、っ、幻滅、したかな、って……」
そうして、姫さんから降ってきた予想外のその言葉に、俺は思わず面食らってしまう。
「……あぁ、悪い。その、なんつぅか……。
大体、侍女さんから、事情は聞いてて……。知ってた」
「……っ、!」
そういや、確かにその話は、姫さんとはしたことなかったよな。
あえて言うものでもなかったから、別に話してなかっただけなんだけど。
……俺の発言を聞いて。
姫さんがこの世の終わりかと言うような感じでショックを受けているのが見えて。
あぁ、これはまた、なんか変な方向に勘違いしてんな、って思いながら俺は笑った。
【なんだ、この、可愛い生き物……】
姫さんには悪いけど、心配して、そわそわ、おろおろしながらも。
俺にどう言っていいのか言葉が出ずに、何かを言いかけては口を閉じるその仕草が……。
ぴょこぴょこしてて、なんつぅか、あまりにも絵本とかに出てくる小動物みたいな動きに見えて……。
俺からすると、ただ可愛い生き物でしかない。
「……別にそんなんで、姫さんのこと嫌いになんねぇよ」
そもそも、姫さんが宝石とか洋服を強請っていたっていうのは、俺等騎士とかにも別段隠されていた訳ではなく、表に出ていた情報で。
それだけ聞くと確かに、姫さんが我が儘だったのかなって思うけど。
俺が侍女さんから聞いた話や。
今の今まで、ずっと姫さんが置かれていた状況を合わせて考えると。
碌に愛情を注がれずに育ったこともあって、寂しさから物を欲しがるようになった、ってのは理解出来る。
っていうか、必要な愛情すら、一切注がずに。
好きなだけ物を与えていた方も俺はどうかと思う。
俺の一言を聞いても、まだ不安そうな顔をしてる姫さんに。
「第一。今、姫さんはそれを後悔してるんだろ?」
と、俺が聞けば
「……うん」
と、小さく返ってきたその言葉が何より、今の姫さんが昔の姫さんとは違うということを、如実に表していた。
まぁ、そんなことは、今さら聞かなくても分かりきっていたことだったけど。
……最初から、俺が出会って、過ごしてきた姫さんは、今ここにいる姫さんでしかない。
俺の言葉を聞いて、ほっと、安堵したような姫さんを微笑ましく思いながら。
俺は暫くそのまま、姫さんの部屋で……。
姫さんが眠りにつくまで、とりとめもない話をすることにした。
この部屋に入って、少し経ってから。
――
それが、“見知った人間”の気配だったってことと。
とりあえず、姫さんを最優先にした結果、後回しになってただけで。
……逃がしてやるつもりなんて、毛頭ない。
穏やかな会話をして、疲れてもいたのだろう姫さんが、段々口数が少なくなっていって。
うとうと、して……、やがて、眠りについたのを見て。
俺は姫さんにシーツをかけてやって。
音も立てずに部屋の外へ、出た。
「……で? アンタはこそこそ、こんな所で盗み聞きか? 随分、趣味が悪いじゃねぇか」
扉を開けて、気配のする方へと鋭い視線を向けた俺に。
壁にもたれ掛かっていたその男は、特に驚いた様子もなく、此方を、ちらり、と一度、横目で見たあとで……。
「……はっ、こんな夜遅くに、“主人”の部屋に入ってる騎士なんて見たことがないけどな。
趣味が悪いのはお前の方じゃないのか、
と、皮肉交じりの言葉を俺に向かって返してきた。