あれから、魔女のことが書かれていたはずのあの黒の本については、今は考えないようにして、童話や、恋愛小説など、そういった物語が書かれている本が並んでいる棚をじっくりと眺めていると。
世間では華やかな劇場で見る
(こういうの、巻き戻し前の軸の時も全然読まなかったから、今ひとつよく分からないんだけど、ハッピーエンドではなくて、巷ではこういったものの方が人気を集めているのかな?)
――私は、せめて、物語だけでも、ハッピーエンドの方が良いなと思ってしまうんだけど。
私自身、今までは、家族にすら愛をもらえなかったということと、巻き戻し前の軸でも、赤を持つ私を好きになってくれるような人なんていなかったから、こういった内容のものについては無縁だと思っているし、昔からそうだったのだけど、今ひとつ、そういった好きの気持ちがどういうものなのか、自分でもあまり理解出来ていなかったりもする。
それでも、もしも叶うのならば、自由に空想できるお話の中では、少なくとも
だからこそ、あまり好んで悲恋だと分かっているような恋物語を読む気はしないなと、ぼんやりと頭の中でそんなことを考えているうちに、ほんの少し時間が経ってしまったのか。
「姫さん、何か良さげな本は見つかったか?」
と、気付いたら、私の方へ、手持ち無沙汰な雰囲気のセオドアがやってきたことで、私は思わずパチパチと目を瞬かせてしまった。
「うん。
私は勉強のために歴史関係の本を幾つか借りることにしたよ。
それで今は趣味で読めそうな本を探していたんだけど、あまり、めぼしいものが見つからなくて、どれを借りようか悩んでいたところだったの。
セオドアはもう借りたい本は見つかった?
何か良い本があったりしたのかな?」
そうして、その手に何も本を持ってはいない様子ではあったものの、もしかしたら、私に遠慮して借りたい本があるのに、言い出しにくいのかもしれないと、先んじて、『セオドアも借りたい本があったら遠慮しないで借りてくれたら良いんだよ』という視線を向ければ……。
「いや。
俺自身、前に本を読んだりするようなこともあって、本自体は別に読めない訳じゃないんだが、こういった図書館みたいな場所にきたことで、単純に俺はあんまり本を読むのには向いていないってことが分かっただけ だった。……俺はやっぱり、身体を動かすことの方が性に合ってんだろうな」
と、私に向かってそう言って、どこまでも苦い顔をするセオドアに、本を読むことについては、確かに向き不向きがあるのかもしれないと感じつつ。
セオドアが、本を読むこと自体、そんなに得意じゃなかったことを知って、そこまで気にかけてあげられなかったことを申し訳なく思いながら。
「そっか。ごめんね。
……じゃあ、もしかしたら図書館は、凄く退屈だったんじゃない?」
と、声をかければ……。
「心配してくれてありがとな。
だけど、別に、退屈な訳じゃねぇから、姫さんがそんなふうに俺のことを思って気にする必要はどこにもねぇよ。
ただ、最近は、アルフレッドも来て、もの凄く賑やかな雰囲気になってたから、夜以外で、急に与えられた一人になる時間ってものに何をして過ごせばいいのか分からなくて、自分自身でも、びっくりして戸惑っていたところだ」
と、セオドアから補足するようにそう言ってもらえたことで。
『良かった。セオドア自身、ただ退屈をしていた訳ではなかったみたい』と感じて、私はホッと胸を撫で下ろした。
「そういえばそうだね。
私はずっと、一人だったから、みんなが来てくれるようになって凄く嬉しいんだけど。
そうじゃなくても、最近は、アルだけじゃなくて、ルーカスさんとかお兄様も私のお部屋に来てくれるようになってるし、大分、人が増えて賑やかになっている気がするもんね……っ!」
私自身、巻き戻し前の軸では、セオドアやアルにだって出会えていなかったし、二人が傍にいてくれることで、私のお部屋の中が、一気に華やかな感じになって、話に花を咲かせることが出来ることを凄く嬉しいと感じているんだけど。
未だ、お兄様やルーカスさんといった巻き戻し前の軸の時には殆ど関わりがなくて、私の部屋に来るだなんてことさえあり得なかった人達がお部屋にやってくるようなことになっているのに戸惑ってしまうことばかりだから……。
もしかしたら、私ほどではないかもしれないけれど、セオドアもそういった気持ちを多かれ少なかれ感じていて、最近の周囲の賑やかさに慣れてしまっていることで、図書館みたいな静寂な場所で、急に一人っきりになってしまったことについて、一体、何をすればいいのかと困惑してしまったのかもしれない。
私は、みんなが来てくれて賑やかになる『あの部屋の居心地』みたいなものが温かくて好きだから、突然、一人になったことで、ほんの少しの寂しさを感じたりだとか、セオドアが、もしもそういう気持ちを抱いているのなら、僅かばかりでも、理解出来るなとは思ったんだけど……。
「……あー。そうだよな。
姫さんからしたらそうなるのか。
でも、俺は別に、皇太子にもエヴァンズ家の嫡男にも、全くこれっぽっちも興味なんてねぇんだけどな。
なんなら、俺自身は、いつだって、彼奴らは、いなければいない方が良いと思ってるし」
けれども、私の予想は完全に外れてしまい、お兄様にもルーカスさんにも全く興味がないといった感じで、どこか眉を寄せて、ほんの少し警戒していると言わんばかりに声を出してくるセオドアに、私自身、目を大きく見開いたあと。
「そうだったんだね?
てっきり、私はセオドアも同じ気持ちなのかなと思っちゃって、勘違いしてしまっていたのかも。
私自身は、これまでずっと、いつも部屋の中が寂しいなって思ってたから、みんなが来てくれて、温かいものに変わっていってくれているのも、セオドアやアルやローラのお陰だなって思っていて、ずっと独りだった分だけ本当に有り難いなって思っているよ」
と、巻き戻し前の軸の時から比べると、いつの間にか独りぼっちではなくなって、一人、また一人と、特に、セオドアやアルみたいに私を大切に思ってくれる人達が増える度に、私自身は凄く温かみのあるお部屋の中で楽しく過ごすことが出来ているのだということを分かってほしくて、そう伝えれば……。
私は、そう思っていたんだけど、セオドアからは、それを否定するかのように決して自分達がその空間を作っている訳ではないと言わんばかりに、一度、首を横に振ったあと……。
「それは、姫さんが……っ」
と、言ってきてくれたことで、そこで一度、区切られてしまったその言葉の続きを想像することが出来なくて、その言葉に、『私が……?』と問いかけるように、「うん?」と、首をこてんと横に傾げながら、どうしたんだろうと感じて、真っ直ぐにセオドアの方を見つめれば……。
「……っ。俺等じゃなくて、姫さんが、一回入ったら、もう二度とそこから出たくなくなるような、柔らかくて優しいぬるま湯みてぇな居場所を作ってくれるから、凄く居心地が良い場所になってるんだよ。
んなもん、俺には、不釣り合いな筈だったのに……」
と、多分、続けて何かを言ってくれたんだとは思うんだけど、セオドアにしては珍しく、敢えて言葉を濁すようにしながら、その声量もあまりにも小さくて、上手く聞き取れなかった私は、今、何を言ってくれたんだろうと、セオドアに向かって。
「セオドア?」
と、もう一度、その言葉が聞きたいなと思って聞き返してみたんだけど、私の問いかけに、セオドアは口元を緩め、ふわりと穏やかで優しい笑みを浮かべてくれたあと。
まるで誤魔化すかのように「何でもねぇよ」と声を出してきてしまったから、私はそれ以上、セオドアに続きを聞くことが出来なかった。
そうして、そのあと、セオドアと一緒に、あれこれと、継続して本を探していると……。
――キィ……っ。
という鈍い音がして、図書館、唯一の出入り口である扉が開けられたのに気付いて、反射的に、私はそちらへと視線を向けた。
……そうして、何秒か、視線が交差した、……それだけで。
「……おま、えっ!」
と、多分、
それ以上に、それまで素のままだった表情が、あからさまに此方に気付いた途端、一気に険しいものへと変わっていくのが見えて、私は、ここで出会ってしまった以上、本当に、どうすることも出来ずに、『あー……』と声にならない声を内心で溢した。
こっちに気付いても、無視をしてくれたなら、それだけで有り難いんだけど、バッチリと交差するように目が合ってしまった以上、多分、そういう訳にはいかないだろう。
瞬間的に沸騰するような怒りを抱えて苛立ちを募らせたように、ツカツカと、足早に此方へと向かってくるその足音を聞きながら……。
なるべく早く、この時間が通り過ぎますようにと願った私は、小言の一つや二つくらいなら聞き流せると覚悟を決めながら、目の前の人に対峙する。
「……帝国の第二皇子様にご挨拶を。お久しぶりですね、ギゼルお兄様」
それから、何かを言われるその前に、なるべく、柔らかい口調を心がけて挨拶をしてみたのだけれど……。
「なんで、お前がこんな所にいるんだよっ!」
と唇を尖らせて、目の前で激しい怒りを露わにする第二皇子である兄に、それが功を奏したとはとても言えない状況だった。
「実は、今日、家庭教師の先生が私の下へ来て下さったのですが、勉強をするのに図書館で本を読むのがいいと教えて頂いたので、此方にやってきたんです。
私でも、図書館の利用は許可されている筈ですよね?」
そうして、何とか、誠実でいようと、今日あった出来事をありのまま伝えれば、私と、私の後ろに立ってくれていたセオドアに嫌悪感の混じったような視線を向けたあとで、ギゼルお兄様は、小馬鹿にするように、フン、と一度だけ鼻を鳴らして、私のことを睨みつけてくる。
「確かに、お前が図書館を利用することは許可されているかもしれないが。
……その男は、別だ。この場所は、関係者以外の立ち入りは禁止されている筈だぞ」
そうして、『ソイツがこの場所にいるのは可笑しいのだ』と言わんばかりの物言いで、責め立てるように言われたその言葉に、違和感を感じて私は首を傾げた。
たとえ、皇族の護衛騎士であろうとも『主人』が図書館を利用する時に限り、一緒に入ることは許可されているはず。
それは、私についてくれている侍女のローラとエリスが私と一緒にこの場所へ入ってこられるのと同じだ。
だからこそ……。
「……えっと、それは、可笑しな話ですよね。
確か、皇族の護衛騎士の立ち入りは、主人と一緒なら許可されていた筈です。
もしかして、お兄様は、そのことを知らなかったんでしょう、かっ?」
と、セオドアは、この場所にいてもいい存在のはず、と、お兄様の目を見て、あくまで、柔らかい口調を崩すことなく、もしかしたら護衛騎士が皇族の主人と一緒に図書館に入ってもいいことを、お兄様は本当に知らなかったのかも知らないと思って聞いてみたのだけど。
「……っ! そんなこと、ある訳ないだろうが!
その男が、皇族の護衛騎士だなんて俺は認めてないんだよっ!
俺だけじゃない、この国の殆どの人間が、この男が護衛騎士なんていう立場に就いていること自体、認めちゃいないっ!」
……それを、馬鹿にされたと思ったのか。
私の発言で、火に油を注いでしまった様子で、更に怒らせてしまったみたいで、お兄様がもの凄い剣幕で、此方に向かって詰め寄るようにそう言ってきた。
だけど、私だって、人間が出来ている訳じゃない。
自分のことならまだしも、セオドアのことを……っ、それも言いがかりに近いような状況で、あれこれと文句を言われることには、納得が出来なくて……。
「……たとえ、お兄様が認めて下さらなくても、お父様と正式に騎士の契約を交わしている以上、私の護衛騎士は、セオドアです。前にも言いましたが、これ以上、私の騎士を侮辱するようなら、絶対に許せません!」
と、お父様と正式な契約を交わしている以上、こちらは、正当なことを言っているのだと、ほんの少しでも知って欲しくて、語気が強くなりながらも、一切、引くことなく、声をあげれば。
「っ、許さない、だと……?
前にも、そんなことを俺に言ってきていたが、お前ごときが、俺に刃向かうつもりかっっ?
俺たちが、
と、お兄様から、怒鳴るような声が降ってきたことで、私はビクリと肩を震わせた上で、戸惑ってしまった。
「……? セオドアをみとめられない、りゆう?」
そうして、訝しげに、お兄様に向かって、そう問いかければ……。
「ハッ!
と、続けて、勢いを消すことなく、お兄様の口からそう言われたことで、私も我慢出来なかったんだけど、それ以上にセオドアが私のことをもの凄く心配してくれたみたいで……。
「オイ、さっきから黙って聞いてりゃ、ふざけんじゃねぇぞっっ!
俺はずっと、アンタのことは良くは思ってなかったが、一体、なんで、姫さんに、そんな言いがかりを……っ」
と、私の前に出て、私のことを後ろ手に庇ってくれながら、ギゼルお兄様へと対峙してくれたのが見えた瞬間……。
「……あれ、ギゼル様?
こんなところでお会い出来るなんて、奇遇だなっ。
お姫様を捕まえて、大声を出して、一体、何をやってるのかなァ? 楽しそうな話なら、俺も混ぜてくんない?」
と、セオドアが護衛騎士として私のことを護ろうとしてくれたのと、お兄様の怒りがヒートアップしたところで、新たにかけられた声は、
「……っっ! ルーカス、どのっ、」
そうして、図書館の出入り口である、開きっぱなしの扉の近くで壁にもたれ掛かりながら、にこやかな笑みを浮かべて、どちらかというのなら、私達の味方になってくれるような雰囲気で、此方を見つめてくるその人の姿をその目に捉えたあと、ギゼルお兄様の顔色が、サッと、顔面蒼白なまでに青いものに変わっていくのが見える。
「……ルーカスさん? どうして、ここに?」
その上で、何故、ルーカスさんがこの場にいるのかと、神出鬼没なその人に、本当に至るところでよく会うなぁと感じながら、戸惑って声をかけた私の問いかけに、ルーカスさんが『いや……』と、一度だけ、前置きしながらも。
「なんていうか、ギゼル様が図書館に入っていくのが見えて、ちょっと、からかおっ……。
スキンシップを図ろうと思ってさっ!
ほら、殿下に会うのはいつものことだけど、ギゼル様には中々会えないからっ! たまには、親睦を深めようかなァ、って思いまして……」
と、此方に向かって、まるで何でもないことのように、そう言ってくる。
その言葉に、今、ルーカスさん、サラッと、ギゼルお兄様のことをからかおうとしたって言いかけなかった……?
と、そんなことが言えるのは、恐らく貴族の中では、エヴァンズ家の嫡男としてウィリアムお兄様の幼馴染みであるルーカスさんだけだろうと、相変わらずのルーカスさんの特異性というか、その特殊な立場と、常人とは思えないほどのメンタルの強さに驚きながらも、私は、それまで、ギゼルお兄様に対して怒っていた自分の感情を、一体、何処に持っていけば良いのか分からずに、戸惑った上で『そうだったんですね』と、言葉を返すだけで精一杯になってしまった。
「あっ、それで図書館、に? ……お一人で?」
「……あー。いや。
なんていうか、俺だけじゃないんだよなァ、これ、が……」
そうして、問いかけた私の言葉に、どこか決まりが悪そうに、そう言ったあとで、ルーカスさんが、ちらりと、開いたままだった図書館の扉の外側に視線を向ければ、無言のまま、思いっきり眉を寄せて険しい表情を浮かべたウィリアムお兄様が、図書館の中へと入ってくるのが見えた。
……私自身、誰かの沈黙が、これほどまでに恐ろしいと感じたのは初めてかもしれない。
それだけ、目に見えて、ウィリアムお兄様が怒っているのが、私の目から見ても明らかで……。
「ギゼル」
そうして……、たった、一度だけ。
ウィリアムお兄様が、低い声で、その名前を呼んだだけで……。
その身体が怯えたように、不自然に一度、跳ねてしまったギゼルお兄様が、ウィリアムお兄様に、怖々とした様子で視線を向けて……。
「……あ、兄上……っ」
と、震える声で、ウィリアムお兄様を呼んだのが聞こえてくると。
「何をやって いる?」
「あ、あの、これは……っ、そ、のっ……」
と、ウィリアムお兄様の瞳が射貫くようにギゼルお兄様の方を見つめ、ただただ、言葉に窮したように、しどろもどろになっていくギゼルお兄様のことを追い詰めていく。
そうして……。
「俺は今、
というウィリアムお兄様の、ギゼルお兄様の言動を非難してくれるような厳しい声が聞こえてくると……。
「……あ、兄上は、アリスの言動を可笑しいとは思わないのですかっ⁉
今までも、皇后としての役割をこなしていたのは、第二妃という立場でありながらも、ずっと母上だったじゃありませんかっ⁉ 公爵家に生まれた娘というだけで、皇族の財産を湯水のように使って!
それは、子どものコイツだって、そうだっ!
ましてや自分の騎士を、
上擦ったような声色で、私やセオドアを激しく非難するよう、自分の正当性について捲し立てるように声をあげる、ギゼルお兄様のその言葉の途中で……っ。
――ドンっ。
という、あまりにも大きくて鈍い音が、その場に響いて、消えた。
水を打ったように、シーンと静まり返った室内で……、さっきまで、ウィリアムお兄様に向かって、自分は間違っていないのだと、だから、ウィリアムお兄様にも自分の意見に同意して欲しいと言わんばかりに声を出していたギゼルお兄様が、口を半開きにしたまま、びくりと身体を揺らして、硬直するように、その身体を硬くしていく。
ウィリアムお兄様が拳を作り、思いっきり壁を叩いたことによる、その音に、私も思わずびっくりして身体を震わせてしまった。
普段、無表情で冷たい瞳をしているから、ウィリアムお兄様は、感情の変化が読みにくい分だけ、怒っているのではないかと、いつも思っていたけれど……。
「……巫山戯【ふざけ】るな。もう一度、その口で同じことを言ってみろ」
そんなの、比じゃないくらいに、こんな風に、誰かに対して、明確に怒りの表情を露わにするお兄様を、私は、初めて、見た……。