あれから……。
一人で婚約のことについてあれこれと考えている時間もそう多くはなく、ルーカスさんが私の元へ、マナー講師として来てくれる日は直ぐにやってきた。
――やってきたん、だけど……っ。
「あのっ……おにいさま……?」
「なんだ?」
何故だか分からないんだけど、宮廷の奥の奥にある殆ど、通りがかってくるような人もいない私の二つある自室の内、来客があった時用に使っている応接室まで時間通りにやって来てくれたルーカスさんの後ろに、ぴったりとウィリアムお兄様が立っているのが見えて。
思わず、その姿に『ルーカスさんだけが来てくれるんじゃなかったのかな?』と、びっくりして、廊下に繋がっている応接室の扉を部屋の中から開けたまま、ルーカスさんとお兄様の顔色を交互に見比べてしまった私に、目の前でルーカスさんが苦笑しながらも……。
「ちょっと、うるさい人がついて来ちゃったんだけど、気にしないでね、お姫様」
と、私に向かって声を上げてくれるのが聞こえてきた。
「……えっと、その……っ、お兄様は、お忙しいのではありませんか?」
――この時期のことを、私自身はよく覚えていないんだけど。
いつからか、私が気づいた時にはもう、お兄様はお父様の仕事の手伝いを始めていたように思うし……。
それは、お兄様が皇帝としてお父様の跡を継ぐ六年後の未来よりも、もっと前からのはずで、今の時期に、もう既にその手伝いをし始めているかどうかは、私にも分からないながら、そうじゃなくても、お兄様はお兄様のしなければいけないことや、帝王学の勉強などで忙しいはずなのに。
(一体どうして、ルーカスさんについて、わざわざこの場にやってきたのだろうか?)
と、戸惑いながら声をかけた私の質問に、お兄様が不服そうな表情を一瞬だけ浮かべたあとで。
「……父上の仕事を手伝っているから、忙しくない訳じゃない。
だが、お前と、コイツの遣り取りを監視するのも父上に任された仕事の一つなんだよ」
――だから、仕方なく俺は今、ここにいる。
と、言わんばかりに、面倒くさそうに声をあげるお兄様に、私は目を瞬かせたあとで首を傾げた。
「お父様が、ルーカスさんと私の遣り取りを監視しておかなければいけない理由なんてあるんです、か?」
(お兄様が手伝っていた、お父様の|君《・》|主《・》としての仕事の優先度を、わざわざ下げてまで?)
その言葉の意図がよく分からなくて、そう問いかければ、お兄様は呆れたような瞳で私を見てきたあとで。
「前任が酷いものだったからな。……父上も、お前のことを心配しているんだろう」
と、そう伝えてきてくれる。
「えっと、は、い……。
えっ? あの、でも、今日、私にマナーを教えに来てくれたのって、ルーカスさんですよね?」
前任のマナー講師が私に対して当たりが強くて酷かったというのは言うまでもないんだけど、今回、私のマナー講師になってくれたルーカスさんは、お兄様の友達でもあるんだし、別に知らない人が来た訳じゃないのに『どうして……?』と、私は、更に訳が分からずこんがらがってしまう。
そんな私を横目で見ながらも、お兄様は深いため息を溢して、まるで虫けらでも見るかのような目つきで、ルーカスさんの方へと視線を向けたあと。
「……逆に聞くが、お前は、コレのどこを見て安心だと思っているんだ?」
と、真顔で私に問いかけてくる。
「ちょっと、殿下っ……!
本人を目の前にして言うことじゃないでしょっ、それっ!」
全く遠慮なども欠片もないお兄様の、突然のコレ呼ばわりに、「流石に傷つくんだけど」と、口では抗議しながらも、すっかりさっぱり、お兄様のことをもう視界には一切入れずに、此方へと笑顔を向けてくるルーカスさんはルーカスさんで、本当にいつも通りだなぁと思う。
「まァ、それじゃぁ、ぼちぼち始めよっか? ……って言っても、お姫様がどこまで、マナーが出来るのか俺も良く分かってないから、何か苦手なこととかある?」
そうして、問いかけてくれたその言葉に、今の今まで扉を開けたまま、廊下に二人がいてくれている状態で話をしていて、応接室の中に案内もしていなかった私は、慌てて、この部屋の中に入ってもらったあと、部屋の真ん中のスペースを陣取るように置いてあるローテーブルを囲んだソファーへと座ってもらうよう促した。
それから、私と一緒になってルーカスさんとお兄様の対面に座ってくれたアルと、いつものように私の後ろに立ってくれて、この場に、ルーカスさんだけじゃなく、お兄様も来たことで、ちょっとだけ警戒の色を強めてくれながら、騎士として控えてくれているセオドアに見守られつつも……。
ルーカスさんに「どこまで、マナーの勉強が進んでいるのか?」と、自分の苦手な分野について確認するように問いかけられたことで、ごくり、と息を呑んでから……。
「……のっ、……が、苦手、です……っ」
と、おずおずと、言葉を発すれば……。
「うん? ごめん、ちゃんと聞こえなかった。一体、何が苦手だって?」
と、ソファーに座ったまま、ちょっとだけ前のめりになって、私の小さい言葉を何とか拾おうとしてくれたルーカスさんに。
「……あのっ、ダンスが、苦手、です……っ!」
と、意を決して、大声で、自分の苦手な分野について教えようと声を出したら、目の前で、ルーカスさんが驚いたように目をぱちくりとさせていて。
「えっと、お姫様、ダンスが苦手なのっ?
意外だったけど、まぁ、でも一回覚えちゃえば、ダンスなら、直ぐに出来ると思うよ」
――パターンを、覚えるだけでいいからねっ。
と、穏やかな口調で声をかけてくれる。
でも、違うのだ……。
食事のマナーや、挨拶のマナー、それから、歩き方のマナーなどなど、他のことは一通り、練習して出来ることは、何とかそつなくこなせるようなところまで、身につけたつもりなんだけど。
でも……、巻き戻し前の軸でも、何度、練習しても一向に上達することがなく、これだけは、本当に出来なかった私は……。
ルーカスさんのその言葉に、切実な気持ちになりながら、ふるり、と首を横に振った。
「……あの、そうじゃなくて、覚えるとかそういう問題でもなく、本当に壊滅的に、出来ないんですっ! いっそ、ダンスだなんて、この世からなくなればいいのにと思うくらいに……」
と、必死に訴える。
私のあまりにも切実な、危機迫った一言に、ルーカスさんは更に驚いたような顔をして私のことを見つめてきた。
「……えっと、じゃあ、一回見せてもらおうかな?
ダンスで、ちょっとでも覚えている曲のものある?」
「……あの、月の雫とか……」
私の本気の訴えに『一度見てみないことには、どれくらい出来ないのかも分からないかな』と、優しく声をかけてくれたルーカスさんが、私に向かってそう提案してきてくれる。
『月の雫』というのは、パーティー会場でよく流れているこの国の人間ならば誰もが知っている一曲だ。
バラードなので、激しい動きも少なく、ダンス初心者の入門の曲としても知られている。
「なるほど、じゃあ、踊ってみようか?」
ルーカスさんが、一度、私に向かってそう声をかけてくれたあと、ソファーから立ち上がり、ほんの少し広くなっている応接室の一角で、同じく立ち上がった私と向き合ってくれてから、月の雫の序奏部分のメロディーを歌ってくれながら、私に向かって手を差し出してきてくれる。
ごくりと、一度息を呑んでから、その手を取った私は、ルーカスさんの口から途切れることなく完璧な旋律が聞こえてくるのを耳に入れながらも、ぎこちなく身体を動かして、マナー講師に教わって自分が覚えているダンスを、ぎくしゃくとこなしていく。
「……うん、分かった」
サビの部分まで歌い上げてくれたところで、ルーカスさんがその動きを止めるのが目に入ってきて、私も、合わせるようにして自分の動きを止めた。
それまでの間に、私が何度、ルーカスさんの足を踏んでしまったかは、最早数え切れない。
――沈黙がとても、恐ろしいもののように感じて……。
「……あの、ごめんなさい」
と、意気消沈しながらも、こういう時、マナー講師からは容赦なく鞭で打たれてしまっていたし、嫌味も含めて、暴言を浴びせられることが普通だったから、びくりと身体を震わせて、ぎゅっと、目をつむり、頭を下げて謝罪すれば……。
「なるほどな。というか、全然、壊滅的ってほどじゃないよっ⁉
きちんと、ダンスの内容は覚えられているし、覚えているダンスを一生懸命こなそうとしているから、頭で考えすぎてワンテンポずれちゃってるんじゃないかな」
と、私に向かって全く怒ってくる訳でもなく、特に体罰を与えてくる訳でもなく、にこりと笑みを浮かべてくれたルーカスさんの口から的確なアドバイスが降ってきた。
「頭で考えすぎて……?」
その言葉に、思わず、目を開けたあと、きょとんとしながら、復唱するようにルーカスさんが今、私に対して言ってくれた言葉を、口にすれば。
「うん、多分、それが一番の原因だと思う。
……殿下、ちょっとだけでいいから俺の相手をしてくれる?」
「あぁ」
と、私の目の前で、お兄様の方に向かってさらっと声に出しながら、さっきまで、ソファーに座って、私達のダンスを見ていたお兄さまが、ルーカスさんの呼びかけで立ち上がると、阿吽の呼吸で、ルーカスさんの手を取って、それを確認したルーカスさんが月の雫のメロディーを初めからアカペラで歌い始めていく。
私の目の前で、お兄様と二人で踊ってくれながらも、本来は覚えなくてもいい女役も完璧にこなしてみせるルーカスさんは……。
「これが、通常のテンポだよ。で、次。……お姫様のテンポは、こう」
次いで……、同じ箇所を、初めからやり直しながら、今度はさっきのように、お手本としての綺麗なステップではなく、私のステップを再現して見せてくれた。
視覚で見れば、確かに、私が、ワンテンポ遅れてダンスをしていることがよく分かって、納得してしまう。
「オイ、お前。
日頃の恨みを込めて、わざと踏んでいるだろう?」
「やだなぁ、殿下。
俺がそんな陰湿なことをする訳がないじゃん。あくまでも、お姫様のダンスの再現です」
「……巫山戯るな。
再現をするのにお前なら、わざわざ俺の足を踏んでこなくても、踏むフリをすることも出来るはずだろうが。アリスの体重とお前の体重で、一体、どれほどの違いがあると思っている?」
目の前で苛々した様子で出したお兄様の追及にも全く動じることもなく、無言でにこりと笑みを溢したあと、ルーカスさんが一緒にダンスを踊っていたお兄さまから視線を外して私の方を見てきた。
「どうかな? ちょっとは分かった、かな?」
そうして、私の瞳を見つめてくれながら、問いかけるようにそう言ってくれるルーカスさんの説明があまりにも分かりやすくて、こくりと頷いた私は。
「はい、ありがとうございます。お兄様も、ルーカスさんもダンス、凄くお上手です、ね……っ」
と、声を出したあと、結構、というか、もの凄く……。
――与えられた現実に打ちひしがれてしまっていた。
お兄様のダンスが上手だということは『巻き戻し前の軸』でも何度か目にしたことがあるから分かってはいたけれど、ルーカスさんは、女の人のパートも難なくこなしているし……。
わざと、私のテンポに合わせて、見ただけで、ダンスをワンテンポ遅らせることも出来るだなんてっ!
いつも、いっぱいいっぱいになりながら、一生懸命にダンスを踊っている自分からしたら、ダンスを踊れる人のスマートさが、本当に身に沁みてしまう……っ。
みんな、そんな感じで、きちんとダンスを踊ることが出来るんだろうかと、そろりと視線をソファーの上に座っていたアルと、その場に立って私達の遣り取りを見てくれていたセオドアに向ければ……。
「うん? もしかして、騎士のお兄さんも、アルフレッド君も、ダンス、踊れたりするの?」
と、私の視線を勘違いしたのか、にこりと笑みを浮かべたまま、ルーカスさんが二人に向かって質問するのが目に入ってきた。
そこで初めて、無意識の内に今、二人に助けを求めるような視線を向けていたことに気づいて、私はハッとする。
「ふむ、月の雫とやらは初めて聞いたが、こんなもの、音と風の流れに乗ればいいだけであろう? 何度か練習すれば踊れないことはないだろうが、堅苦しく決められた踊りに、一体、何の意味があるのだ?」
「……えっと、音と風の流れ?」
「あーっ、えっと、あのっ、アルは、
まさに、センスの塊と言った感じで、芸術家のようなアーティスティックな回答をするアルの言葉を聞いて、訝しげに眉をひそめたルーカスさんが、私の、補足に納得したように頷いたのが見えた。
「あぁ、成る程な? ……確かに。
たまに、そういう天才肌の人っているよなァ。
マジで、どこからその表現出てくるんだよっ? みたいなやつ。
……それで? 騎士のお兄さんは、どうなの?」
「今の部分までなら、難なく踊れるだろうが、全部は無理だ」
「あれ?
一部だけしか踊れないってのは、ちょっと意外かも。
てっきり、この国の人じゃないから、曲自体も知らなくて全然踊れないか、お兄さんの身体能力なら全部踊れるかのどっちかだと思ったんだけど」
「何言ってるんだ?
だから、
「……それって、一回、誰かのダンスを見ただけで踊れるようになるってこと?
俺、マジでお兄さんのこと嫌いになりそう」
――そういえば、ここにいる人達は、私以外は、みんな能力がずば抜けて高いんだった。
ルーカスさんが、セオドアの『才能』だとか、最早、そういうレベルでもない発言に『うへぇ……っ!』と、声を溢しながら、目に見えて露骨に嫌そうな表情を浮かべたのが見えて、私自身、『もしかして、ルーカスさんって努力型の人なのかな?』と、思いながらも……。
お兄様だけではなく、セオドアもアルも普通に出来る人達なので、途端に一人除け者になってしまったような疎外感を感じながら、私は、再度、ルーカスさんに指摘されたことに気をつけつつ、月の雫のメロディーを、頭の中に思い浮かべて練習をし始める。
ワンテンポずれちゃうのなら『もう少し早く身体を動かせばいい』と、頭では分かっていながらも、やっぱりどうしても遅れてしまって、上手くいっていない状況を見てくれて、セオドアが私のいる場所まで歩いてきてくれたあとで、私の手を取ってくれた。
「ていうか、姫さんの踊りがワンテンポずれるんなら、こんなふうにリードする方が、ワンテンポ早めに手を動かしてやればいいだけだろ?」
そうして、一切の無音である状態にも拘わらず、ふわり、とセオドアの手の誘導により、いつもよりも格段に早く動けるようになった私は、頭の中で流していた音楽と綺麗に初めて自分の身体が一致するのを体感して……。
(うわぁぁっ! 初めて、誰の足も踏まないで、ダンスをきちんと踊ることが出来てるっ!)
と、かなり、感動していた……。
セオドアのリードのお陰もあって、本当に、動きやすいし、踊りやすくって。
――これから先ずっと、セオドアが私のパートナーになってくれたらいいのに、と思わず、切望してしまいそうになるほどだった。
「はいっ、そこっ、甘やかさないっ!
それが出来るのはお兄さんだけだからっ!
全員がそんなこと、出来ると思わないでよっ!」
「はぁっ……?
リードをするのに、アリスのことを早く動かしてやればいいだけなら俺にも出来る」
「ちょっと、殿下っ!
そんなところで、いきなりお兄さんに張り合ってこないでよ!
っていうか、ややこしくなるから、余計な口を挟んで来ないでくんないっ⁉
あんたら、マジで本当にチートだなっ!
それじゃァ、根本的な解決にはならないでしょ」
この場で、お兄様もセオドアもいる中、ルーカスさんが突っ込みの役割に回っているのは本当に珍しいなぁと思いながらも、今、ルーカスさんが出してきた言葉は正論であり、社交界では基本的に複数の人達と踊らなければならず、これで解決した訳じゃないというのは勿論、私も分かっているため、私はセオドアにありがとうとお礼を伝えたあと……。
「もうちょっとだけ、早く身体を動かして踊れるように頑張ります」
と、前向きにルーカスさんに向かって声を出した。
前までは、どうして自分が踊れないのかその根本的な理由さえ、マナー講師には教えてもらえていなかったから、私自身どうしていいのか分からずにいて。
――ただ、出来ないことを
ルーカスさんに教えてもらえたことで、どこを直せばいいのか自分で理解出来ただけでも私にとっては一歩前進だった。