ファリエの暮らすアパートは、市街地の北端に建てられていた。ニーマ市の港にも隣接している。
更に部屋も北向きで日照事情が人間向きでない、赤いレンガ造りの三階建てだ。そこの最上階が、彼女の部屋だった。
胸の高さほどの位置にある窓も、今は夜のためレースカーテンだけで覆われている。日中用であろう、分厚い
レースカーテンを持ち上げて窓の外を見ると、そこから港と、更にその背後に広がる黒い海が見えた。港との間を阻む建物が少ないため、見通しはかなりいい。
魔石灯が煌々と光る港には、貨物船と思われる大型船が一隻停泊していた。貨物
中身は恐らく、この街の主産業である魔道具だろう。この時間に出航するということは、海を隔てた遠い隣国への輸出だろうか。
それとも朝一番に出航するべく、夜通し荷運びしている最中なのだろうか――と、ティーゲルはぼんやり眺めながら考えていた。
というのも、女性の部屋をあまりジロジロ観察するものではないだろう、と考えてのことだ。部屋に招き入れられてから今まで、居間らしき小ぢんまりとした空間に置かれた円形のラグに座ってずっと、窓と向かい合わせの姿勢を維持している。
家主であるファリエは、これまた小さな台所で絶賛料理中である。台所は居間と続きになっており、間に二人掛け用のテーブルが置かれている。
テーブル越しに彼女が、可愛らしいレモンイエローのエプロンを付けて鼻歌混じりに調理する様子が窺えた。一緒に食欲をそそる、肉の焼ける匂いや油の弾ける音も漂って来る。
その全てが平和な日常の、象徴的風景のように思えて妙にほっこりする。
(悪あがきは止めるか。今も横目で、ついつい観察しているわけだし)
正直言って己が退勤した後も、誰かがあくせく働く様子を観察していても、一番に覚えるのは居たたまれなさであった。はぁ、と一つ息を吐いてカーテンを閉じる。
次いで淡い緑色の、毛足の長いラグの上で身じろぎして方向転換。今度は木の壁に囲まれた、ファリエの小さな居城をぐるりと眺める。
アパートは全体的に手狭ではあるものの、掃除は行き届いているし、建物自体も比較的新しいようだ。奥には寝室も別にあるらしいので、案外暮らしやすいのかもしれない。
だが意外なのは、想像より質素で慎ましい内装だということ。
どこか夢見がちなファリエの印象から、メルヘンな自宅に違いないと思い込んでいたのだ。もしもお菓子で作られた家に案内されても「まあ、ファリエ嬢だからな」と、納得していたかもしれない。
とはいえ壁際に置かれた棚の中には、スノードームやガラスの置物がちょこんと置かれていたり、反対側の壁にもドライフラワーがぶら下げられている。
手狭ではあるものの、ささやかなこだわりを持って楽しんでいる様子が窺えて、これはこれで微笑ましい。
ただその可愛らしいオブジェが並ぶ棚の一段に、妙に重厚な金庫が納められているのは気になった。おまけに金庫にはわざわざ「日用品入れ ※金品・貴重品なし※」と書かれたメモが貼られている。逆に怪しい。
「これは一体なんなんだ?」
メモの意図が分からずについ呟くと、
「どうしました? 何かありました?」
隔てるものが何もない、すぐ隣の台所に立つファリエにも聞こえたらしい。エプロンで濡れた手を拭いながら、こちらを振り向いた。彼女の背後では、鍋からふつふつと湯気が昇っている。
「手を止めさせてしまってすまない。この注意書きが気になっただけなんだが……盗難除けだとは思うが、これでは余計に怪しまれないか?」
「あ……」
謝罪しつつ真新しい様子の金庫を指さすと、ファリエの顔が面白いぐらいに引きつった。同時にとんがり耳まで赤くなる。
思いがけない反応だったため、ティーゲルも目を丸くした。
「ファリエ嬢? どうしたんだ?」
「えっと、それは、ですね……ほんとにささいな日用品入れなのですが、そのう……色々、ありまして……」
両手でエプロンの裾をもじもじ掴みながら、ファリエがたどたどしく弁明を始めるも、すぐにうなだれて低くうなった。
「……すみません、それのことは、気にしないで、ください……」
「え?」
「その、ほんとに個人的な理由なので……」
赤文字でわざわざ、こんなにも大きく書いてあるメモを気にしない、というのもなかなか難易度が高い。
ファリエのことを「お菓子の家に住んでいてもおかしくない」と思い込んでいるティーゲルなので、中身が未成年お断りなセクシャル物品ではないか、という疑念は一切抱かなかった。そもそもセクシャル物品を、こんな目立つ場所に隠す馬鹿はいないだろう。自分だって一人暮らしだというのに、クローゼットの奥にしまい込んでいるのだ。
ただ、思春期特有の恥ずかしい代物が入っているのではなかろうか、とは推察していた。たとえば自作の詩集や、主人公と世界観の設定だけで満足してしまった小説など。
後日金庫の真相――つまり、空き巣被害に遭った疑似血液入れを新調したものだと知ったティーゲルは大笑いの末、
「金庫の代わりに、工具入れのような密閉容器に入れておけばいいんじゃないか? わざわざ工具入れを盗む泥棒もいないだろうし、そこそこ頑丈だよ」
と非常に建設的な提案を行って、ついでに金庫は執務室で活用されることになるのだが。それはまた、別の話である。
今は勝手に自作の小説や詩集、あるいは日記帳の類が収納されていると推理し、
「……世の中、金品よりも貴重なものもあるよな」
などと斜め方向な感想を述べていた。
ティーゲルも十代半ばの頃、羞恥心で即死出来そうな内容の日記をしたためていた。社会人となった際に燃やそうと思ったものの、思いがけず愛着も芽生えていたため踏み切れず、現在も実家にこっそり安置されたままなのだ。
親や妹に見つかっていなければ――いや、十中八九見つかっているはずなので、彼らが知らんぷりしてくれていると、いいのだけれど。
ただ斜めに突き抜けた結果、案外的を射た意見でもあったため、ファリエも目をキラキラと潤ませて小刻みに震えていた。どうやら共感を得られたことに、感動しているらしい。
「そ、そうなんです! これがないと、わたし困っちゃって、でもいい置き場が思い当たらなくてっ……」
思いつめたような切ない表情に、ティーゲルもつられて視線を下げる。
「……なるほど。そこまで大事に想っているのか」
気持ちは、悔しいけれど分かる。痛々しい自分があったからこその、今の自分なのである。
「はい、なくなっちゃうとその、命の危機、ですし……」
「うむ……命というか社会的地位の危機、はあるかもしれんが……そう考えれば、金庫の保管もやむなしか」
「はい!」
食い違ったまま合意に至り、お互い生真面目にうなずき合うのだった。