学のないティーゲルでも「体が資本」という概念ぐらいは知っているし、もちろん「栄養バランス」や「必須栄養素」なる言葉も、薄っすらなんとなく理解している。
よって栄養価の高い食事を摂取せねば、という義務感自体はもちろんあるのだ。だが、しかし――
「きちんと食べなければならない、とは分かっているんだが……どうにも仕事が終わると、食事を作ろうという気力が湧かないんだ。食欲も、正直あまりないぐらいで」
ボサボサになっていた髪をくくり直すついでに、いささか乱暴にかき回して弁明する。
「元々、料理が得意でないのもあるんだろうが――そんなわけで何かを食べること自体が面倒になって、つい……近所の屋台で買ったものを、酒で流し込んで済ませるようになっていた」
そんな生活を今後も続けて、体に悪影響がないわけない、ということも頭では理解している。
なのだが、どうにも料理や食事の優先順位が上がらず、また睡眠不足による
後ろめたさや不甲斐なさで視線はどんどん下降していったが、ファリエがずっと無言なのでつい、上目でちらりと反応を窺った。
彼女は行儀よく揃えた膝の上に、これまた行儀よく小さな両手を載せて、じっと清聴してくれていた。真剣そのものの表情には、自堕落生活を送る上司への侮蔑は見えない。
ティーゲルがそのことに安堵しながらも、己の病みっぷりをようやく自覚して、深々とため息を吐いた。彼のしょぼくれる様子を見つめ、ファリエもここで口を開く。
「隊長がいっぱいいっぱいなのは、よく分かりました。だってお仕事中も、いっぱいいっぱいですし……」
いっぱいいっぱい――なんとも可愛らしい響きだが、言い得て妙である。ティーゲルもつい笑う。
「そうだな、常に何かが渋滞している日々だ」
「です、ね。いつかどこかで破裂しちゃいそうで、心配です……」
湿っぽい声音と潤んだ目に、たまらず罪悪感が刺激される。ティーゲルの表情も、つられて湿度が増した。
「君には迷惑ばかりかけてしまって、本当に申し訳ない」
「い、いえっ、そんな……あの、よければ今日、お夕飯作りましょうか?」
思わず、ティーゲルの呼吸が止まった。労わるような深い青色の瞳がこちらをじっと見つめつつ、何かとんでもない提案をかまして来た気がする。聞き間違えだろうか。
「はっ? 夕飯? それは、どこで?」
声も不格好にひっくり返っている。
ひょっとして彼女は副業を行っており、とあるレストランの料理人という裏の顔があったり――
「わたしの家、ですけど……あ、ここからだったら、バスで十分ぐらいですし。そんなに遠くないですから!」
質問の本意が分からなかったらしく、前半は不思議そうに、そして後半は握りこぶしを作って力説された。違う、不安点はそこじゃない。
「いやいやいや、距離の問題ではないんだ! ファリエ嬢、ご存知だったら申し訳ないが、俺は男なんだ!」
少し強めの口調になってしまい、ファリエがわずかに肩を跳ねさせた。次いでぱちくり、と大きな目をまばたき。
「え? あ、はい、知ってると思います。だって背が高いですし、血の味もとても男性っぽいです」
が、やはりティーゲルの危惧する意図をよく分かっていないようで、にっこり。男性的な血の味という表現が気になるものの、ここは直接的な言い方をするしかないか、と彼も腕を組んでうなった。
「……前提として、俺にそういう意図はない、ということだけは知っておいて欲しい」
「えっと、はい?」
「これはあくまで一般論だが、一人暮らしの女性が男性を家に招き入れるということは、それなりに危険な行動なんだ。密室で何をされるか分からないだろう?」
「あ……そういうこと、だったんですね……なるほど、です……」
ようやくそれに思い立ったらしく、ファリエの白い頬が赤らんだ。なんという危機感の薄さだろう。
ティーゲルはつい、しょっぱい顔になって考えた。
(この子の故郷に、同世代の男はいなかったのか? ……いなさそうだな。なんというか、女の子同士で藤かご持ってピクニックしてるか、森の中で小鳥と一緒に歌ってそうだな。うん、似合う)
完全に偏見というか幻覚、あるいは妄想である。
視線を下げ、合わせた両手の指をこねこねさせて黙考していたファリエだったが、急に表情を明るくした。
「隊長はご存知かもですが、わたし、吸血鬼で魔術師です」
「ああ、そこは承知してるし、いつもお世話になってます」
つい敬語になってペコリ、と頭を下げたところ、ファリエも恭しく礼を返してくれた。
「いえ、こちらこそ恐縮です――なのでもし、何かされそうになっても、ちゃんと善戦できると思います!」
つまり不埒な犯罪者に対しては魔術で徹底抗戦する気満々である、ということらしい。
彼女は膨大な魔力を有した、新進気鋭・将来有望の魔術師だ。もしも暴漢を本気で始末する気になれば、文字通り秒殺で終わるに違いない。
ひょっとすると、痕跡すら一切残さない完全犯罪も夢ではなかろう。
えげつない宣言を無邪気な笑顔でする様子がおかしく、ティーゲルは大口を開けて笑った。
「それもそうだな! 相手が君では、俺も惨敗間違いなしだ!」
魔術を封じる魔道具や、体の自由を奪う非合法の薬物を用意すれば屈服もたやすいだろうが、そこまでするなら手順を踏んで交際を申し込む方が絶対に安全である。
なにせ魔道具や薬物を調達する段階で、逮捕される可能性が極めて高いのだ。よほど嫌われていない限り、彼女とお近づきになる方が手っ取り早いと思えるほどに。
またティーゲルに、嫌がる女性を無理やりどうこうしたい願望もない。
彼の大笑いに一瞬たじろいだファリエだったが、その後に続く言葉を聞いて頬を緩める。
「惨敗かはちょっと分からないですけど、普通の女の子よりはきっと、安全なので」
「うむ。その辺の男より強いのも、間違いないだろうな」
「あ、ありがとうございます。だから、隊長にそういう意図がないなら、ぜひご飯を食べてほしいです。わたし、お料理は作るのも好きなので」
砂糖菓子のような甘い笑顔で、そんな慈悲が深すぎて底なしの提案がなされた。気のせいか、後光が差して見える。
ここまで無償の善意を向けられて断れるほど、ティーゲルは堅物でも強情でもなかった。
年長者として、そして上司としては断るのが最善と分かりつつも、素直に甘えることを選ぶ。現状食欲はほとんど働いていないものの、温かな手料理を前にすればすぐに腹が空くだろう、という確信もあった。
「では、何度も君の優しさに甘えて本当にすまないが……ファリエ嬢の作る料理をいただいても、いいだろうか?」
「はい! こちらこそ、味見役をしてもらえると嬉しいので、お願いします」
ホッとしたように胸を撫で下ろし、ファリエの笑みは輝きを増した。次いで小さな手を一つ打ち合わせる。
「隊長は好きなお料理とか、苦手なお料理ってありますか? あともし今、食べたいものがあれば教えてください」
腕組みして低くうなるも、最近はずっと食欲不振が続いていたため「柔らかくておいしいもの。出来れば味付けも優しいもので」というふんわり過ぎる要望しか出てこない。自分は胃と歯の悪いお年寄りか。
困った末に無難な返事に留めておこう、と結論付ける。
「うむ……特に苦手なものもないし、たいがいのものは美味しく食べれるが……」
だが自分で回答しておいて、作り手の一番困る答えかもしれない、という危惧を薄っすらと覚えた。頬もわずかに引きつってしまう。
実家にいた頃、母に似たようなリクエストを伝えては怒られる、または呆れられている父を何度か見た記憶があったのだ。
(だが正直に『誰かに作ってもらったものなら、目玉焼きでも旨く感じるはずだ』と答えたら、この子が泣いて同情しそうなんだよ)
ファリエの泣き虫ぶりに配慮しての面倒くさい回答になったのだが、当の彼女はニコニコ笑顔のままうなずいている。
「分かりました。それじゃあ、家にある材料で適当に何か作りますね」
(前にも思ったが、いい子過ぎないか? ろくでもない男に騙されないといいんだが……んっ?)
善性たっぷりの彼女の提案にキュンキュンとして、次いで将来を案じた瞬間、たちまち胸に広がったのは嫌悪と不快感だった。そのことに内心で驚き、次いで己の感情の変化にザッと血の気が引く。
(いやいやいや! こんなあっさり部下に惚れてどうするんだ! 彼女のこれは、不甲斐ない上司へのただの親切だろう! 色恋なわけがあるか!)
そして自分の頬を全力で張り倒したくなったものの、下唇をぐっと噛むことでどうにか堪える。
――以上の思考を一秒未満で済ませ、表面上はファリエへ快活に笑い返した。
「無理を言ってすまない。よろしく頼む」
すまない、の四文字にありとあらゆる謝罪を込めつつ、深々と頭を下げた。
下げた頭よりもなお深く、地中にめり込みそうな罪悪感にも一切気付く様子もなく、ファリエはニコニコとしている。
「はい、分かりました!」
(やっぱり不安だ)
こんないい子に優しくされて、惚れない男の方が少ないだろう。
自分のような、愚かな勘違い野郎どもが続出しないといいのだが。