No.11 第5話『迷い』-1



目の横に涙を伝わせて時折魘されている寝顔を見つめる。


下流階級のゴミ収集を終わらせた夜。どんな夢を見ているのかなんて想像に容易い。

震えだした藤の背中を軽く摩り、せめて夢の中だけでも苦しまずに済むようにと祈りを込めた。




第5話『迷い』




何かを耐えるように震えていた藤の背中。

それを摩り始めて数分後、落ち着いた寝息に変わり穏やかな胸の動きへと変化した。


少しほっとするのと同時にまた頭の中をよぎるのは、これからどうすればこの兄弟を救えるのかということ。

あの女からされた話が本当なら、確かに下流階級を変えられる1歩にはなるだろう。


けど現実はそんなに甘いもんじゃない。

甘い誘惑に乗せられて自分の命を失ってきた奴らなんて五万と見てきた。


あれだけの好条件が揃ってる中で裏がないなんてあり得ない。

必ず何かしらの危険が伴うはず…リスクの方を何一つ語ろうとしなかった女を信用しろという方が無理な話だ。


おそらくバックに詐欺を働こうとしている奴がいて、あいつを脅すか騙すかして利用している可能性がある。

そうじゃなけりゃ、あんな奉仕精神100パーセントの女が存在するわけがない。偽善塗れに決まってる。


あれが根っからの天然でやってんだとしたら、本当に正真正銘のアホだ。

絶対に誰かから利用されて酷い目に合うに決まってる。


そこまで考えたところで、あの女の心配をしている自分に気がついて思わず眉間に皺が寄る。

最近癖になっている舌打ちが出そうになって、意識的に溜息へと変換して気持ちを切り替えた。


「橘、最近溜息と舌打ち多いよね」


収集車を取りに向かっている途中、昨夜のことを無意識に思い出していてハッとする。

溜息も癖になっていると藤から指摘されて、じゃあどうすりゃ良いんだよと更に眉間へ皺が寄った。


「眉間に皺寄るのも悪い癖。跡残っちゃうだろ」


半分はお前の所為だと言い返したくなった口を、寸でのところで無理やり閉じる。

勝手に心配して勝手に不機嫌になってりゃ世話ねェわな…と口をへの字にしていたら、隣で藤が昨日のことは無かったかのように明るく笑い始めた。


「今度はその変な口、癖にする気?面白いから良いけど」

「黙れよ。俺の癖より自分の心配してろっての」

「もう初っ端で下流階級の収集出来ちゃったんだよ?それに比べりゃ中流階級の収集なんて余裕だね」


誇らしげに胸を張る藤が、一番たくさんゴミを燃やしたと胸を張っていた南にそっくりな表情をする。

あまりそんなことを誇らしく思うなよと悲しくなる反面、そっくりな表情をする兄弟が微笑ましくてフッと笑みが零れた。


「最近笑うの少なくなってたから心配してたけど、ちょっとは安心かな…」

「は…?」

「じゃあはいこれ!今日もよろしくお願いしまーす!」


満面の笑みでゴミ収集車へ縛る縄を渡され、顔面が引き攣る。

いそいそと収集車の後方へ向かっていく藤に、無理やり手渡された縄を放り投げた。


「短距離すら縛らねェと乗れねェのかよ!」

「えー、だってまだ2回目じゃん。3回目くらいまでは良いだろ?」

「散々人のこと縛る趣味あんのかって否定しといて結局はこれかよ」

「目覚めさせた責任とって」

「お前マジで一遍落ちろ」


冗談を言う余裕がありそうな藤から再度縄を渡されたが、しばらく考えた後に縄を運転席へ投げ込む。

俺の動きを見た藤が、え…マジで?本気で言ってんの?と眉を顰めていた。


「今日んとこは大体5分置きで現場あんだろ。行けるとこまでは縄なしで乗り切れ」

「ぐへぇ」

「ギブならその都度俺と代わって休憩しろ」

「あ、そっか。谷さんが言ってた橘の彼女、中流階級の子だっけ。やっぱ運転代わる?」

「100キロ出して運転してやる」

「ごめん!!30キロにして!!」


ぎゃあぎゃあ騒ぐ藤を無視して運転席へ乗り込む。

バックミラーでちゃんと車へ捕まっていることを確認して、はあっとまた癖になっている溜息が漏れた。


落ちねェかどうか冷や冷やしてんのはお前より俺だっつーの。

そう言いたい言葉を胸の内に押し込めて、若干震える手でハンドルを握った。


普通なら縛って安全を確保するべきだろうが、それが藤のためにならないことは身を持って知っている。

縄ありきで乗っていたのを縄なしになった途端震えが止まらなくなった過去の自分を思うと、短距離で練習が出来る今の機会を無くす方が得策じゃない。


過保護になって経験させてこなかったことが今になって顕著に現れて影響が出ている。

万が一のこと…俺や谷さんがいなくなった時のことを考えれば、藤が南を守って生き抜くだけの力をつけさせた方が良いのは明らかだ。


南を仕事場へ送って行っていた谷さんを拾い、今日の現場へと向かう。

その間も、昔谷さんが俺に言っていたことを思い出しながら、バックミラーに映る藤へ頻繁に視線を向けた。


『…まだ幼いお前にこんな経験させて悪い』

『う゛…ヒック』

『でもな、橘。俺がいなくなっちまった後も、お前は1人で生きてかなきゃならねェかもだろ?』

『ッ…』

『今は辛いだろうが耐えろ。俺のことは……ッ、恨んでも、構わねェ』


涙を大量に頬へ伝わせながら、収集車後方に俺を縛っていた谷さんを思い出す。

下流階級のゴミ収集後、震えが止まらなくなった俺の背中を撫でながら、何度も何度もすまねェと謝っていた。


あの時の谷さんも、今の俺と同じ気持ちだったんだろうか。

危険なことは極力させたくなくても、自分が守ってやれなくなる未来があるのだとしたら、今この瞬間に生き方を教えるしかない。


例え自分が死んでも、こいつが下流階級で生きていけるように…

そんな谷さんと同じ考えが俺の中でも強くなり始めたのは、たぶん…あの女の話を聞いてからだ。


俺の身に危険が迫る可能性があったとしても、一か八か、あの女に賭けてみるべきなんじゃないのか…

藤や南の顔を見る度に思う。まだ元気で頼りになる谷さんを見る度に思う。


俺1人が危険な橋を渡って、それで運良く下流階級を変える手立てが見つかるのだとしたら…


そこまで思考を深くしていた時、コンコンと窓ガラスを軽くノックされた。


顔を横へ向けると、谷さんがニヤニヤした顔で住宅街のマンションを指さしている。

あまりにも考え込み過ぎていた所為で、あいつのマンションの収集場に来ていたことすら気づかなかった。


ドアを開けるように手で表現されたが、言われることは大体予想出来るので欠伸をして無視を決め込む。

両手を口に当ててキャーッとしつこく表現してくる谷さんへ、呆れた目線を向けながら、仕事してくださいと口パクで表現した。


谷さんがやれやれと大げさに両手を上げた後、収集車の後方へと戻っていく。

呆れた目線のままふとあいつのマンションへ視線を向けると、見慣れた背中が建物近くへ走って行くのが見えた。


「いやいやいや…まさかな」


嫌な予感しかしねェ…