No.10 第4話『夢』-3



「橘さんにはまだ…夢はありませんか?」

「……。」


女の発した声に、一瞬…藤の言っていたことが脳裏をよぎる。


『南が大人になる頃には、生まれた時の階級から違う階級へ変更出来る制度が作られるかもしれないじゃん。もしかしたら、階級制度自体がなくなるかもしれない!』


…もしかしたらと、将来そうなれば良いのにと、そう口にしていた藤の願いを頭の中で反復する。

現実的に出来るか出来ないかではなく、そうなれば良いのにとひたすら望む夢は俺だって同じだ。


「……階級制度を無くすこと」

「ッ…!」

「…叶わねェと思ったろ」

「そんなことない!!ッ、すごく…素敵な夢です。橘さんの夢…最高ですね」


感極まったように声を詰まらせて叫ぶ女へ、思わずフッと頬が緩む。

いつも一緒にいる親友と同じような反応を見せる女に、この時はどうしても親近感が沸いた。


だからだと思う。

教える義理はないと一度断った内容へ、答えてやろうと思ったのは…

こいつが欲しがっている情報を、一部でも提供してやろうと思えたのは…


「…政府から支払われた給料で、下流階級専用の銭湯に行く。多く行けても3日に1回。冬場は週に1回が限度。他に使う金が無くなる」

「…!!」


俺の意図を察したのか、女が大きく背中で反応を示す。

女は考えるような素振りを見せた後、慎重に言葉を選んでいる様子で小さく声を発した。


「他に使うお金…主に何に使ってるんですか?」

「……。」


南の喘息の治療費だよ。


そう内心思っても口には出さず黙り込む。

沈黙を不思議に思った女が、曇りガラスから背中を離しておずおずとこちらを振り返った。


「言える範囲で構いません。不躾なこと聞いてる自覚はありますから…」

「……毎日風呂に通えば支払われた給料は全部飛ぶ。だから大体の奴はそこを減らして、自分の使いたい何かへ金を使う」

「ゴミ収集作業員は十分な生活が出来るほどのお給料を支払われていないということですね。ひどい…」

「俺達はまだマシ。ゴミを燃やす仕事をしてる子どもに関しては実質給料なんてねェよ」

「え…?」


短く聞こえた驚愕の声。

風呂に入る前にも聞いた同じような響きに、この内容も教科書には載らねェんだなと内心思った。


「下流階級の住む施設、配給される食糧、その2つは支払われる給料から強制的に料金が引かれてる。それを政府は無料提供だって表現してんだよ。この仕組みに気づいてる奴は下流階級の中でも少ない。…収集作業員の給料は手元に少額残るが、ゴミを燃やすだけの子どもは何も残らねェよ」

「……。」


しゃべり過ぎたか…

少し気が緩んで内情を教え過ぎた自分へ舌打ちをする。


黙り込んで反応を示さなくなった女へ、もうのぼせんだけど?と問えば、あ…と小さく声を発して勢い良く立ち上がる姿が見えた。


洗濯機の中を覗き込みに行ったんだろう。

服が乾いたから置いておくとすぐに返事が来て、脱衣所を出て行く物音が聞こえた。


さっきの沈黙は、女のどういう感情から起こったものなのか…

冷静に思考を巡らせようとはしたものの、脱衣所で服を着た途端、全身が女と同じ匂いになったことに気がついて眉を顰めた。


さっきから冷静な判断が出来ていない要因の1つは、女のペースに狂わされているからだ。

それに気づいた途端、脱衣所を飛び出して玄関へと向かう。


後ろから驚いた女の声で呼び止められ、ドライヤーは?!と尋ねられたが、一刻も早く出て行きたい一心で、使い方知らねェと嘘をついた。


「ま、待って!じゃあ私が乾かしますから!」

「風呂と洗濯……助かった」

「え、あ、はい……あ!じゃあ!さっきの私の話!」

「さっきの話は断る」

「……え?」


呆然とする女の顔を見て思う。断られないと高を括ってたんだろう。

新しいタオルを持つ女の手が、俯く俺の頭へ触れようとした直前でピタッと止まった。


「私の夢は、橘さんにとっても良い話では…?」

「それが本当の話ならな」

「…!」


女の表情が驚きから悲しそうなものへと変わり、少し罪悪感を抱く。

それでも内に沸いた別の感情は拭えず、差し出そうとしてくれたタオルは受け取れなかった。


「なんで?!本当ですよ?!」

「あまりにも俺にとって都合が良すぎる」

「ッ…」

「下流階級の情報が欲しいのはわかった。けどそれが本当にその夢の目的のためとは限らねェだろ」

「た、例えば…?」

「下流階級の仕組みを深く把握して、更に金儲けを企もうとすれば違法ならいくらでも方法はある。例えば下流階級の子どもを攫えるタイミングや情報を流して、内臓売り捌くとかな」

「そ、そんな…」


青ざめる女の顔を見て、居た堪れなくなり目線を逸らす。

甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてくれた相手へ疑ってると真正面から否定しているのだから、良心が痛んで当たり前だった。


「…本当にそこまでは思ってねェよ。でも悪ィけど……信用は出来ねェ。うま過ぎる話には裏がある」

「ち、違…!」

「風呂と洗濯の礼は、さっきの話した情報で清算な」

「え…?も、もう…来てくれないんですか?」

「……。」


寂しげに服の裾を引っ張られて、また何とも言えない感情が身体の中で暴れだす。


この女のペースに乗せられたら、風呂と同じようなことになり兼ねない。

そう思って玄関扉を開けた瞬間、後ろから勢い良く引っ張られた。


「ッ…わかりました。わかりましたから…」


雨…まだ降ってます。傘だけは、差して帰ってください。


そう小さく震える声で発せられた願いだけは、どうしても無碍に出来ず…限りなく俺の胸を締め続けた。