――こいつのダンス講義を受けるべきではなかった。
そう後悔しても、もう遅い。
ダニエルからは、ゆとり教育の極地とばかりに甘ったれた淑女教育だけを施されていた(そしてそれを甘受しまくっていた)ヘザーだが、クライヴにダンスの講師を請け負ってもらってから全てが変わった。
いや、終わってしまった。
ダンス以外の教養も、彼から受けるようになったのだ。
そして軍隊仕込みである彼の講義は、なんというか一切無駄がないし、遊び心もない。
兄がゆとり教育あるいは飴であれば、弟は詰め込み教育あるいは鞭である。
もうちょっと、バランスというものを二人は学ぶべきだろう。
苦労に対するガッツはあるものの、勉強の選り好みが激しいヘザーは今日もダレていた。
クライヴの小言が面倒なため、午前中はなんとか
今も勉強部屋となっている、書庫の机に座ってうなだれている。
「もうやだよー……オレ、勉強苦手なんだよー……」
ふにゃふにゃとした泣き言が、哀愁を誘わなくもない。
しかし鬼教官が、そんな小手先で態度を軟化させるわけなく。
「苦手ではない。苦手意識があるだけだ」
彼女の隣に座り、歴史の
「苦手意識があるってことは、それすなわち苦手じゃねぇか!」
「食わず嫌いという概念もある。やれば出来るかもしれないだろ」
「オレで実験すんなよー! 鬼教師ヤだよもうー! セクシーなお姉さんに教えてもらいたいー、シェリーさんがいいー!」
しかし嫌がる時のヘザーは、いつも以上に屁理屈をこねて面倒くさい。
教書を閉じたクライヴの表情に、「どうやってこいつを黙らせようか」というげんなり感が漂っている。
そんな二人の応酬を、背後に置かれた椅子に座ってそっと見守っていたティナが、音もなく立ち上がった。
視界の隅でそれを目にしたクライヴが、一瞬ジト目を怪訝そうに
しかし
「そこの書き写しを続けるように」
と、ヘザーに指示を与えるのは忘れない。
「うえぇぇぇー! 無理ぃー! オレのほっせぇ手首が死ぬ!」
「薪割りより簡単だ、安心しろ」
「難易度のジャンルが違うんだよー!」
ギャンギャン吠える彼女の声を背中に聞きつつ、ティナに近づく。
「どうした?」
「あのですね、クライヴ様……わたし、思ったんですよぅ」
気遣わしげに、彼女はちらりとヘザーを見た。
その際のティナの真剣な表情につられて、クライヴも呼吸を止めて顔を引き締める。黙して続きを待った。
「ヘザー様、完全に飽きちゃってますよねぇ……そしてセクシーをお求めですし、ここいらで全裸になって気分転換はどうでしょう?」
「嫌だよ」
間髪入れずにクライヴは拒絶するが、主思いのメイドは引かない。
「ですが、可愛い教え子のためですよぅ? さぁさぁ、全裸になりましょう。セクシー倍増のために、バラをくわえてもいいかもですね。下半身も、バラのブーケで隠せばばっちりですぅ」
「どういうトータルコーディネートだ。俺はアダムか?」
しかも食べたのは絶対に、知恵の実ではない。もっとヤバい代物だ。
失楽園の前に、医療機関の受診が義務付けられるブツに違いない。
真心オンリーでヘザーを思いやってなのか、はたまた二人のジレジレした関係性を面白がってなのか。
クライヴは、真意の読めないティナをじっとりにらんだ。
「そもそも、股間をブーケで隠した俺がセクシーに相当するのか?」
その指摘に、ティナはハッとなった。どうやら真心オンリーでの提案だったらしい。
「うーん……余興っぽさが、たしかにありますねぇ……」
腕を組んでうんうんとうなり、ティナはある事実に気づいた。
大家族に生まれ、自立のため早々にメイドの道を選んだ自分では、色事に関する知識が不足していると。
「クライヴ様、セクシーとは一体、どういったものなのでしょうか」
「……俺に訊かれても困る」
首の裏に手を当て、彼も仏頂面になった。
一応クライヴは軍籍時代に、上官に連れられて色街へ行ったこともある。
が、そういう場所は屋敷並みに人外がうごめいているため、はっきり言って苦手であった。隙あらばさっさと帰ってきていたし、そういう態度を取っていると自然と誘われなくなるものである。
よって双方、圧倒的にセクシー不足の乾ききった半生だった。
分からないことは、分かる人に訊けばいい。
二人は同時にその考えに達し、分厚い歴史書にかじりついてうめくヘザーを見た。
「あのぅ、ヘザー様」
「ん、なに?」
クライヴのお小言が怖いから必死なのか、それとも難解な単語の連続で切羽詰まっているのか。
彼女は珍しくも顔を上げず、上の空な声で返事をする。
一瞬ためらいつつ、ティナは続けて問うた。
「ヘザー様にとってですね、そのぉ、セクシーとは何なのですか?」
深刻な声音なので、なんだか哲学的な問いかけにも聞こえる。そんなわけないのに。
そして覚えづらい歴代ローマ皇帝の名前に思考が持って行かれているヘザーは、もちろんそれどころでないので。
相変わらずの気のない声で、しかしぶっちゃけた返答をした。
「やっぱ半脱ぎだな。着衣が乱れてる、半裸の方が興奮する。着衣エロさいこー」
彼女がそう答えるや否や。
「失礼します」
一応一言断りを入れつつも、ティナは躊躇なくクライヴのベストとシャツのボタンを引きちぎって、全開にした。なかなかの腕力である。
ブチブチブチ――ビリッという一続きの軽快な音に、ヘザーの華奢な肩が一度跳ねて、ようやく顔も持ち上がった。
振り向いた彼女の視線の先にあったのは、引き裂かれたシャツの間から、胸板と腹筋を惜しげもなく見せている無表情のクライヴと、達成感に胸を張るティナの姿だった。
青紫色の瞳をゆっくりまばたきして、視界の先にある光景を理解したヘザーの顔が、みるみるうちに赤くなる。
「ちょっ、やっ、アンタ何やってんだよ!」
信じられないとばかりに、クライヴをうっすら潤んだ目でにらむ。どうやら彼を単独犯だと思ったらしい。冤罪だ。
しかしクライヴとティナが訂正するより早く、ヘザーは一つの可能性を導き出した。
真っ赤な顔のままではあるが、どこか痛々しそうに眉を寄せてため息。
「そっか……そうなんだな、クライヴ。アンタ、そういう趣味がおありなんだな?」
「違うッ! 君の趣味だろうが!」
「いいって、無理すんなよ。こういうのは、たぶん理解ある方だしさ」
「違うんだ! 真実誤解だ!」
耳まで赤くなって、クライヴは吠えた。
ついでにティナはちゃっかり、自分は無関係ですよというあどけない表情を取り繕って、そっと距離を取った。
クライヴは必死になって否定したものの、その後しばらくの間「クライヴ=露出狂」という疑念がヘザーの中でくすぶったままだった。
むしろ、必死こいて訂正したのがいけなかった。
また更に恐ろしいことに。
彼女を震源地として、使用人の間でもそれは、いつしか共通認識となっていった。
クライヴがその事実を知るのは、ダニエルが悪魔から解放された後、
「君の人生は君のものだから、自由に生きるべきだろうけど……ところかまわず脱ぐのだけは、兄としてどうかと思うよ?」
そう優しく諭された時であったという。
もはや色々手遅れだった。