第62話 悪夢に散る花【中】

 動くものの気配を感じ、黒皇ヘイファンは黄金の隻眼せきがんをひらく。

 見れば早梅はやめが、寝台から上体を起こしたようだった。


梅雪メイシェお嬢さま、どうなされましたか」


 枕もとで丸くなっていたちいさな烏は、濡れ羽色の羽毛から首を持ち上げ、三本足でひょこひょこと主へ歩み寄った。

 そしてすぐに、黒皇は異変を悟る。

 自身を抱きしめる早梅のからだが過剰にふるえ、汗が噴き出ているのに、顔面は蒼白なのだ。

 休養のために手近な客栈やどをおとずれてから数日がたつが、こんなことははじめてだ。


「悪夢でも、ごらんになられたのですか」


 その直後だった。早梅が声にならない悲鳴を上げ、掛け布を払いのけて、寝台を飛び降りた。

 早梅は扉を突きやぶる勢いで、闇の中へ姿をくらませる。


「お嬢さま!」


 すぐさま翼をひろげて飛び立った黒皇は、室を飛び出すやいなや、二本足で着地した。

 人の身で、寝静まった夜を疾走する。


 そして屋外へたどり着いたとき、黒皇は戦慄する。

 庭の池へ、早梅が身を投げたのだ。

 真冬の夜に池へ飛び込むなど、自殺行為だ。


「なにをなさるのですッ!」


 もはや怒号だった。

 黒皇は上衣を一枚脱ぎ捨てるや、夢中で身をおどらせる。

 水飛沫が上がり、刺すような冷たさに、黒皇は眉をしかめる。が、腰ほどの深さしかなかったことが、幸いだった。

 黒皇は池の中央で立ちつくす早梅の腕をさらい、軽いからだを岸辺へ押し上げる。


「ご無礼をいたします」


 黒皇もはずみをつけて池から上がると、口早に告げ、早梅の帯をほどく。

 濡れて重い寝間着を半ば剥ぎとるように脱がせ、うら若き乙女の素肌が夜気へさらされる前に、先ほど放った自身の上衣でつつみ込んだ。


「心の臓が、口からまろび出るかと思いました……」


 うずくまる早梅を両腕で抱きしめ、黒皇は安堵する。けれど、それもつかの間のことだった。


「……黒皇……さむい、さむいよ……」


 真冬の池に飛び込んだのだから、当然のこと。

 それはそうなのだが、そうではないのだ。


「わたし、どうしたらっ……もういやだっ……!」


 わっと泣きつく早梅を受け止めて、黒皇は息をのむ。

 早梅のひざとふれた地面が、ぴしり、ぴしりと、凍りついていたのだ。

 黒皇の腕の中のからだは、氷のごとく冷たい。


(お嬢さまの氷功ひょうこうが、暴走している……!)


 内なる気の力を制御できず、外界へあふれさせてしまう。

 すなわち内功ないこうの暴走は、精神の乱れをあらわす。


「……夢だったら、よかったのに……」


 悲痛な早梅の声音に、黒皇はようやく我を取りもどす。そしてぎり、と奥歯を軋ませた。

 冷たい冷たい早梅のからだを目前にして、黒皇の腹の奥底から込み上げるのは、燃えたぎる怒りの炎。


 首すじ、胸もと、腿。

 早梅の素肌に散らされた、おびただしい朱の鬱血痕うっけつこんを目にして、どうして正気でいられよう。


(……憎い)


 ただひとつ、それだけ。

 おのれを律してきた黒皇でさえ、ほとばしる負の感情を抑えられない。


「……おからだを冷やしてはなりません。お部屋へもどりましょうね、梅雪お嬢さま」


 激情の嵐をやっとの思いで胸のうちにとどめ、黒皇はつとめておだやかに発語する。

 嗚咽のせいで、ろくに返事のできない早梅をそっと抱き上げた。


 黒皇はその夜、客栈やどの主人に言って湯の入った桶を用意してもらい、つきっきりで早梅のからだを清めた。


 首の両側にある噛み傷。

 全身の鬱血痕。

 両手首には、強く締めつけられたような痣。

 早梅は、からだもこころも、傷だらけだった。


 空が白んできたころ。

 泣き疲れたのか、早梅は力つきるように、眠りへと落ちていった。

 新しい寝間着を着せ、寝台へ横たえた黒皇は、みずからも横にはべる。


「……梅雪お嬢さま」


 腕で抱くだけでは足りない。

 黒皇は一分の隙もなく早梅へ身を寄せ、濡れ羽色の翼で包み込んだ。

 この方には決してふれさせぬという、確固たる意志を胸にいだいて。


 これは早梅と黒皇が金玲山こんれいざんへと至る、数日前の出来事である。