第63話 悪夢に散る花【後】

 まぼろしの霊山とされる金玲山こんれいざんには、瓏池ろうちと呼ばれる広大な池がある。

 水底には、色とりどりの無数の宝玉。

 霊力のこもったそれらがこすれ合い、溶けだして、澄みきった透明な霊水を生み出す。


 目をみはるほど美しいその光景が、晴風チンフォンは大のお気に入りだ。

 晴風は仕事もそこそこに、特に用もなくやってきては、腕によりをかけて育てた茘枝ライチをかじりながらぼーっとするのが、日課だった。


 そんな晴風の日常に、ひとりの少女がやってきた。

 正確には、ずいぶんと大昔に行方知れずとなっていた知己ちきが、連れてきた。


 少女の全身真っ白な襦裙じゅくんを見たとき、晴風はどうしたことかとおどろいたものだ。

 だれか、たいせつな人を亡くしたのだろう。

 友も、太陽のようだった黄金の瞳を、ひとつ失くしていた。

 だが、なにがあったのかと無遠慮にたずねるほど、晴風は馬鹿ではない。


「突然の訪問、申し訳ございません。お邪魔はいたしません。どうかわたくしのことは、いないものとしてお考えくださいませ、青風真君せいふうしんくん


 少女は梅雪メイシェといった。

 梅雪の言葉は、晴風を「うぅん……」とうならせる。

 気軽にフォンと呼んでくれと、言ったのに。

 晴風はちょっとと言わず、さびしい気がした。


 そもそも、梅雪を前にすると妙に胸がざわつくのは、なぜだろうか。

 たしかに、彼女の翡翠の髪と瑠璃の瞳は、自分とよく似ているけれども。


(放っておけねぇだなぁ)


 漠然とした感情の理由がわからないまま、晴風は瓏池をおとずれる。


 明くる日も明くる日も、梅雪は鈴の音がひびく池のほとりで、白い琵琶を奏でていた。

 白い服を身にまとい、喪に服す早梅がつむぐ旋律は、鎮魂歌のようだった。

 その光景を、晴風は離れた木の幹にもたれ、ながめる。


(大方、弱った娘さんの養生のために連れてきたんだろう。黒皇ヘイファンの考えそうなことだ)


 そう推測する晴風だったが、予想外の展開をむかえる。

 清浄な霊力と神力に満たされた金玲山にあって、梅雪の容態は、日に日に悪化していったのだ。


 もともと、梅雪が食事をしているようなそぶりはなかった。

 そんな中、琵琶を演奏していた梅雪が、突然からだを折って嘔吐した。


(あぁ、そういうことか……くそ)


 唐突に腑に落ちる。なにもかも。

 翡翠の髪を掻き回した晴風は、どうにもたまらなくなって、駆け出していた。


「ちょっと顔貸せ、黒皇」


 晴風がそうとだけ言えば、梅雪を抱きとめた黒皇の意識が、こちらへ向く。

 晴風は瑠璃のまなざしを落とし、ぐったりと意識のない梅雪の額、ほほへと相次いで手のひらをふれあわせる。


「おまえじゃねぇとは思うが」


 そして白い衣越しに、梅雪の下腹部へとふれた。


「この、妊娠してるぞ」


 晴風の決定的なひと言に、顔をゆがめる黒皇。

 それは悪夢が現実となったような、絶望の面持ちだった。