―――そこが何処であるか、彼は一瞬判らなかった。
見覚えがある、とはいまいち言い難い。何しろ自分が本当に「見て」いるのかさえおぼつかなくなるような感覚が朱明にはあったのだ。
そこは、明るかった。そして、白かった。
何が、白いのだろう、と彼は思った。そして、その中に居る自分の黒さが無性に目立つような気がした。
ふと足を持ち上げると、何かが黒い靴の上からぽろぽろと落ちた。何だったろう?彼はそれに見覚えがあった。
……見覚えは、ある!
彼は思わずその白いぽろぽろとしたものを手に取った。
それは小さな、白い花だった。
ああそうだ。彼は思い出す。これは、あの頃、よく見た……昼の夢だ。
だとしたら。
花を蹴散らす趣味はない。だが、花が何をしてくれるというのだろう?
彼は自分の影も見えない、ただただ白い空間を、花を踏みしめて歩いていく。
どれだけの花が、一体ここには敷き詰められているのだろう?
彼はふと思う。
HALはどれだけの花を投げていたのだろう?
今となっては朱明にも判る。
彼は、ここに花を投げていたのだ。
そこで永遠に眠るだろう自分のために。それはさぞ綺麗な光景だろうな、と朱明は思う。だが、だからと言って、それを傍観できる訳ではないのだ。
そしてその綺麗な光景が、目に入る。
花に埋もれて、HALが眠っている。
「起こさないで」と歌ったのはいつのことだったろう?
全てのことから遠く離れて、甘やかな眠りの中に閉じこもってしまいたいと歌ったのは。
朱明はその光景を、見おろす。
身体全体を力無く投げだし、白い花に埋もれている。
だが朱明はそれを軽く蹴った。その足先からも、小さな花がぽろぽろと落ちる。
「……起きろよ」
さすがにそれだけでは何の反応もない。朱明はかがみ込み、花の中から彼の身体を引きずり出した。そして力いっぱい揺さぶり、叫ぶ。
「おいHAL! 目を覚ませよ!」
それは、あの時も叫んだ言葉だった。公会堂の、ステージの上、何もできなかった自分が、動かなくなった彼の身体を抱えて叫んだ言葉だった。
だが今度は違う。ここが何処であるのか朱明も予想がついていた。勢いよく手を振り上げて、一番大切なはずの相手の顔を二回三回と叩く。
そしてようやくうっすらと目を開けた。
「……何で、お前、ここに居るの?」
「連れ戻しに来た」
「連れ戻し? 何か凄い馬鹿なこと言ってるじゃない」
この後に及んでも、減らず口は直らないらしい。
「無駄だよ。ここまで来て。お前こそ早く帰りな……」
「嫌だ」
「朱明!」
「俺はな、同じ間違いを二度するのはもの凄く嫌いなんだ」
ぐい、と引き寄せる。花が、全身からぽろぽろと落ちる。
「……だけど駄目だ。今回だけは、もう、お前が何言おうと、どうしようと、駄目なんだ」
「何でそう思う?」
「この身体自体が声の封印になっているんだ。だからもう、俺の身体はもとの空間に戻れないんだ。戻ろうと思っても……」
ああ何を言ってるんだこの屁理屈野郎は。朱明は苛立つ自分を感じる。俺はそんな戻れない理由をくどくど聞きたいんじゃねえんだ!
「だったら身体なんか置いていけ」
どすの効いた声で、朱明は言い放った。
「そんな無茶な……」
「俺は今から戻る。どうやって戻ったらいいかなんて俺は知らん! だけど俺は戻る。戻らなくちゃならねえんだ!」
そう言って彼はHALをかつぎ上げた。
「無理だ!」
「本当に無理なのか、試してみなきゃ判んねえだろうが!」
そしてそのまま走り出した。
どのくらいそうしていたのか、彼には判らなかった。
ああそうだろうな。
朱明は時間が存在しないんだ、と以前聞いたことを思い出す。
花は枯れない。人は歳を取らない。それも悪くないだろう。だけどそこに、誰もいなかったら。
俺はそんなところにはいたくない。
足元がすっと抜ける、気がした。
落ちていく。
何処へ?