目が醒めた時、布由は自分が何処にいるのかすぐには判らなかった。
だが隣のベッドで思い思いの格好で寝ている二匹の犬っころ達を見たら、事態は理解できた。
身体の端々が何故か鈍く痛い。まるで何処か遠くまで行ってきたかのようだった。首を回すとぽきぽきと小気味いい音がした。
ふと、身体に何か固いものが触れているのに気がつく。何だ、と探ってみると、そこには、サモンピンクのシングルCDがあった。
ああ、そうか……
彼はそれをしばらく眺めると、自分の眠っていたベッドをざっと見渡す。見覚えの無いハンカチが一枚、やや丸まったまま置かれていた。
裸足のまま窓まで寄ると、布由はさっとカーテンを引いた。ん、と犬っころ達のどちらかの声が聞こえた。
「……あ、布由さん起きたんですか……」
もともと大きくはないが、それがほとんど開いてないような目でぼんやりと土岐は光の中に立つ布由を見る。
彼もまた、何度か首をまわし、大きく伸びをする。朱夏と適当に話しているうちに眠ってしまったらしい。やや無理のある体勢だっただけに、彼もまた、身体の所々が痛かった。
ぽんぽん、と朱夏を背を軽く叩くと、こちらは条件反射的に目をぱっちりと開けた。大きな目は何の戸惑いもなく全開になる。
「朝か? 土岐」
「朝だよ」
そして辺りを見回す。習性なのだろうな、と布由は思う。
「布由もう大丈夫なのか? 何処か気持ち悪いところはないか?」
「……ああ、大丈夫だ。よく眠ったな……」
「何時? 朱夏」
朱夏はちらり、とベッドサイドのデジタル時計を見る。
「八時半だ」
「……本当に『朝』だなあ……」
普段はその時間にはまず目を覚まさない二人は顔を見合わせて苦笑いする。
「十時にはあの女が来るがどうするんだ? 布由」
「大隅?」
「お前達このままスタジオへ行くんだろう? 今日はお前達と一緒に行けばいいのか? 私は」
「そうだな」
布由はやや考え込む。
「……そう。一緒に来てくれ。今日は朱夏にも頼みたいことがあるんだ」
「布由さん?」
布由の言葉に驚いたのは土岐の方だった。彼はそんな相棒には構わずに続ける。
「朱夏、あの都市の内部については、お前よく知っているんだろう?」
ああもちろんだ、と朱夏はうなづく。
「じゃあ俺に、それに俺達のスタッフに教えてやってくれ。とにかくまず俺達には情報が足りない」
「布由さん!」
それじゃ、と土岐は腰を浮かす。
「ああ。ツアー、やるぞ」
「ツアー……」
「全国ツアーだ。レコーディングを予定より急いで終わらせよう。今仕上がっている曲だけでもいい。何曲出そろっている?」
「予定は全部で十二曲でしたよね」
土岐は指を折って数え出す。
「……トラックダウンが終わっているのが三曲。レコーディング自体が終わっているのが二曲。歌録りが終わっていないだけのが三曲。残りはドラムだけ入ってるんでしたっけ」
問題は五曲か、とすぐに布由も反応する。
「じゃあ俺は一気に自分の分は何とかする。お前も自分の分は何とかしてくれ」
「判りました」
もちろんその言葉の中に、クオリティを落としても、という仮定は入ってしない。自分の全力を出してかつ急げ、と言っているのだ。
「インディの頃は、一日に七曲歌を録ったこともあった」
ああそんなこともありましたね、と土岐は笑う。
「でもまあ、あの頃より格段に機材も揃ってますしね」
その頃よりずっと自分達の耳も判定基準も質が上がっているののだが。
「とにかくなるべく早く出なくてはな…… 北からでも南からでもいい。……ラストは……」
「あの都市なんだな」
朱夏の言葉に布由はうなづいた。
「最後のツアーになるかもしれないけれどな」
「知ってましたよ」
苦笑しながら土岐は言う。
彼もまた、知っていた。気付いていた。
気付いていたからこそ、問われるまで、布由が忘れていたことを指摘しなかったのだ。
その時が来るのは少しでも向こうであって欲しかった。
それが最後だ、と土岐は知っていた気がする。
でも朱夏が来てしまった。記憶の封印は解けた。もう隠せない。彼が何を自分の中で封じておきたかったのか、何をすべきなのか。
「きっと皆びっくりしますよ」
やや泣きたいような気持ちにはなる。だけど泣く暇はなさそうだ。
「当然だ」
布由は言い放った。そして朱夏の方へ向き直ると、にやりと笑って歌うように言った。
「朱夏手を出して」
何ごとだ、と言いたげに彼女は首をかしげる。だが言われるままに手を出す。
布由はその手にぽん、とCDシングルとハンカチを乗せた。朱夏をそれを見るとはっと顔を上げた。
「見覚えある?」
「安岐の…… 何で、どうして、布由!」
「HALからの伝言。安岐は大丈夫だって」
「……」
両手で、ハンカチをぎゅっと握りしめる。
「だから、帰っておいでって。待ってるからって」
「布由……」
「帰ろうな朱夏、あの都市へ」
ぽろぽろぽろ、と朱夏の目から涙がこぼれた。思わずおろおろとしてしまったのは、布由の方であったことは言うまでもない。
そしてそれが、彼らの怒涛の日々の始まりだった。