76.都市が閉じた記念日

 低音の男は、のそのそと、だけどわざわざチケットを出して開場開演時間を指でしめす。彼女はそりゃそうだけどさあ、と腰に手を当てながら、


「だって放っておいたら、パンフとか買えなくなっちゃうじゃないの。あたしそーゆうのやだからね」


 彼女の後ろに控えていた二人は顔を見合わせ、苦笑いする。


「ま、とにかくそれでも開場時間前に来たんだから、文句はないだろ?で、余ってた一枚だけどな」

「誰かに売れたの?」


 そうは言いつつも、彼女はどうも低音の男の周りに居るものに目線が行く。


「特に見つからなかったからな、俺がも一枚引き取ることにしたわ。でこいつを連れてきたから」

「それってお前の言ってた」


 後ろの二人のうち、彼女の彼氏らしい男が口をはさむ。


「そ。電話したら隣の県から、とことこと一人で来やがった。いい根性してるよ。弟だ」

「それは兄貴の悪い影響じゃねーのか?」


 にたにたと、後ろの一人が腕組しながら笑いを飛ばす。「兄貴」は自分の腰程度の身長の弟の頭をわしづかみすると、ほれお前ちゃんと挨拶しろ、と頭を無理矢理下げさせようとする。


「なんすんだよっ!」


 まだほんの少年の声が周囲に飛んだ。


「初対面の人には挨拶! それが礼儀とゆーものだっ!」

「てめえっ無理矢理押さえつけるのは礼儀に反しねえのかっ!」


 そう言って「弟」は必死で「兄貴」の力に抵抗して首に力を込めて下げようとしない。


「あ、そ。じゃ」


 ぱっと手を放す。いきなりすこん、と上からかかる力が取れたので、「弟」はげ、と声を立ててそっくりかえりそうになる。おっと、と「兄貴」はそれを支える。

 気がつくと、友人達は声は立てないが腹を抱えて笑っていた。特に彼女は、顔を真っ赤にして、目に涙をためている程だった。


「……馬鹿あ…… 化粧が落ちたらどうするのよっ!」

「お前の面の皮厚いから大丈夫だろ?」

「化粧ってのは厚い面の皮の上に塗るんだよ、馬鹿」

「あんたらねーっ!」


 まあまあ、そろそろ行こう、と彼女の彼氏が全員の肩をぽんぽんと交互に叩く。伸びかけた髪を首の所でくくっている彼は、「弟」の目線と同じ位置にくるようにかがみ、ぐしゃぐしゃとまだ荒れてない髪をかきまわす。


「けっこう今日のバンドいいからな、しっーかり聞いてくんだぞ」


 優しい笑顔だった。

 うん、と「弟」はうなづく。

 そして五人は横並びになって会場に入っていく。

 それと同時に音はすうっと消えていった。耳なりだけがひどく高い音で安岐の中に残った。

 陽も沈みかけていたまま動きを止める。風も止まる。


 安岐はため息をつく。見覚えのある光景だった。だがずっと忘れていた光景だった。

 忘れていた。本当に忘れていたのだ。

 だが彼の知っている光景は、カメラアングルが違う。少なくとも、安岐は、あの「弟」の姿を見たことがなかった。いや手はある。足はある。だけど顔と背中を見たことはない。何故なら。


 あれは俺だ。


「……ふうん…… そんなことがあったの」


 心臓が止まるかと思った。相変わらず音はしないのだ。なのに声はちゃんと聞こえる。


「あんまり安岐とここで会いたくはなかったな」

「HAL…… さん」


 安岐は目を疑った。HALがいつの間にかそこに居た。噴水のへりの、自分の左隣にいつの間にか座っていた。

 ふっと手元が明るくなる。

 振り向くと、噴水塔の外側に取り付けられた小さなライトが点いていた。オレンジと白の混ざったような色の光は、上からこぼれ落ちてくる水を照らし出す。

 白いぴったりしたニットのHALもその光に、オレンジ色に染まっていた。

 いつの間にか、辺りは暗くなっていた。街灯の冷えた色の光と、噴水塔の暖かい色の光が、どちらも綺麗に安岐の目の前に浮かび上がっていた。


「……何で……」

「ん?」

「何でHALさんここに居るの? 俺は川に落ちた筈だろ?」

「そうだね…… 君は川に落ちたよ。それは事実。実際ここにいるんだから」


 何か、違う、と安岐は思う。いつもの彼とは何処かが違っていた。座りながら片方の足だけを立てて抱えている。

 そして顔からいつものくすくす笑いが消えている。


「HALさんも川に落ちたの?」

「俺?」


 形の良い唇の端がきゅっと上がる。


「俺は違うよ。前、君に言わなかった? 俺はここに居られるの」

「いつも? だってこれは川の底じゃないの?」

「川の底にこんな街があるってのも妙だよね。水もないし」


 それはそうだけど。嫌な奴だな、と安岐はつぶやく。


「あの時、君と朱夏をさらっただろ? あれと同じ空間だよ」

「違う空間? でもそれが…… どういう意味か、俺にはにはよく判らないよ」


 まあそうだよね、とHALはつぶやいた。


「ところで、さっき君、どっかで見た人達を見なかった?」

「見た」


 確かにあれは、見たことがある。兄貴。自分。兄貴の友達の…… 壱岐と…… 東風…… 「タカトウ」と夏南子。


「だけどあれは」

「そ。あれは十年前」

「十年前」

「十年前の夏。七月二十三日。この都市が切り離されて閉じてしまった記念日」


 ああそうだ、と安岐は思った。確かにその日だったんだ。