低音の男は、のそのそと、だけどわざわざチケットを出して開場開演時間を指でしめす。彼女はそりゃそうだけどさあ、と腰に手を当てながら、
「だって放っておいたら、パンフとか買えなくなっちゃうじゃないの。あたしそーゆうのやだからね」
彼女の後ろに控えていた二人は顔を見合わせ、苦笑いする。
「ま、とにかくそれでも開場時間前に来たんだから、文句はないだろ?で、余ってた一枚だけどな」
「誰かに売れたの?」
そうは言いつつも、彼女はどうも低音の男の周りに居るものに目線が行く。
「特に見つからなかったからな、俺がも一枚引き取ることにしたわ。でこいつを連れてきたから」
「それってお前の言ってた」
後ろの二人のうち、彼女の彼氏らしい男が口をはさむ。
「そ。電話したら隣の県から、とことこと一人で来やがった。いい根性してるよ。弟だ」
「それは兄貴の悪い影響じゃねーのか?」
にたにたと、後ろの一人が腕組しながら笑いを飛ばす。「兄貴」は自分の腰程度の身長の弟の頭をわしづかみすると、ほれお前ちゃんと挨拶しろ、と頭を無理矢理下げさせようとする。
「なんすんだよっ!」
まだほんの少年の声が周囲に飛んだ。
「初対面の人には挨拶! それが礼儀とゆーものだっ!」
「てめえっ無理矢理押さえつけるのは礼儀に反しねえのかっ!」
そう言って「弟」は必死で「兄貴」の力に抵抗して首に力を込めて下げようとしない。
「あ、そ。じゃ」
ぱっと手を放す。いきなりすこん、と上からかかる力が取れたので、「弟」はげ、と声を立ててそっくりかえりそうになる。おっと、と「兄貴」はそれを支える。
気がつくと、友人達は声は立てないが腹を抱えて笑っていた。特に彼女は、顔を真っ赤にして、目に涙をためている程だった。
「……馬鹿あ…… 化粧が落ちたらどうするのよっ!」
「お前の面の皮厚いから大丈夫だろ?」
「化粧ってのは厚い面の皮の上に塗るんだよ、馬鹿」
「あんたらねーっ!」
まあまあ、そろそろ行こう、と彼女の彼氏が全員の肩をぽんぽんと交互に叩く。伸びかけた髪を首の所でくくっている彼は、「弟」の目線と同じ位置にくるようにかがみ、ぐしゃぐしゃとまだ荒れてない髪をかきまわす。
「けっこう今日のバンドいいからな、しっーかり聞いてくんだぞ」
優しい笑顔だった。
うん、と「弟」はうなづく。
そして五人は横並びになって会場に入っていく。
それと同時に音はすうっと消えていった。耳なりだけがひどく高い音で安岐の中に残った。
陽も沈みかけていたまま動きを止める。風も止まる。
安岐はため息をつく。見覚えのある光景だった。だがずっと忘れていた光景だった。
忘れていた。本当に忘れていたのだ。
だが彼の知っている光景は、カメラアングルが違う。少なくとも、安岐は、あの「弟」の姿を見たことがなかった。いや手はある。足はある。だけど顔と背中を見たことはない。何故なら。
あれは俺だ。
「……ふうん…… そんなことがあったの」
心臓が止まるかと思った。相変わらず音はしないのだ。なのに声はちゃんと聞こえる。
「あんまり安岐とここで会いたくはなかったな」
「HAL…… さん」
安岐は目を疑った。HALがいつの間にかそこに居た。噴水のへりの、自分の左隣にいつの間にか座っていた。
ふっと手元が明るくなる。
振り向くと、噴水塔の外側に取り付けられた小さなライトが点いていた。オレンジと白の混ざったような色の光は、上からこぼれ落ちてくる水を照らし出す。
白いぴったりしたニットのHALもその光に、オレンジ色に染まっていた。
いつの間にか、辺りは暗くなっていた。街灯の冷えた色の光と、噴水塔の暖かい色の光が、どちらも綺麗に安岐の目の前に浮かび上がっていた。
「……何で……」
「ん?」
「何でHALさんここに居るの? 俺は川に落ちた筈だろ?」
「そうだね…… 君は川に落ちたよ。それは事実。実際ここにいるんだから」
何か、違う、と安岐は思う。いつもの彼とは何処かが違っていた。座りながら片方の足だけを立てて抱えている。
そして顔からいつものくすくす笑いが消えている。
「HALさんも川に落ちたの?」
「俺?」
形の良い唇の端がきゅっと上がる。
「俺は違うよ。前、君に言わなかった? 俺はここに居られるの」
「いつも? だってこれは川の底じゃないの?」
「川の底にこんな街があるってのも妙だよね。水もないし」
それはそうだけど。嫌な奴だな、と安岐はつぶやく。
「あの時、君と朱夏をさらっただろ? あれと同じ空間だよ」
「違う空間? でもそれが…… どういう意味か、俺にはにはよく判らないよ」
まあそうだよね、とHALはつぶやいた。
「ところで、さっき君、どっかで見た人達を見なかった?」
「見た」
確かにあれは、見たことがある。兄貴。自分。兄貴の友達の…… 壱岐と…… 東風…… 「タカトウ」と夏南子。
「だけどあれは」
「そ。あれは十年前」
「十年前」
「十年前の夏。七月二十三日。この都市が切り離されて閉じてしまった記念日」
ああそうだ、と安岐は思った。確かにその日だったんだ。