64.布由と朱夏

「それはそうと、布由、私の言ったことは考えてくれたのか?」

「例の件? 考え中」

「もうずいぶん経っているぞ!」

「もう、じゃないよ。まだ。英語ではどっちも同じYET。朱夏、お前ねえ、今俺達どういう期間か知ってる?」

「レコーディングだろう? 土岐に聞いた」

「そう、レコーディング。それが凄く俺達に大切って判る?」

「判らん。あいにく私はギターは弾けてもミュージシャンじゃないんだ」

「あれお前、ギター弾けるの」


 布由は意外そうな声になる。


「……あ、そう。でもそこで知らないってのを盾にするのは間違いじゃねえのか?じゃあよく言っておいてやる。すごく、大切だ」

「何故? 私のほうも深刻だ。放っておけば、どんどんまた『川』へ落ちる人は出る。人の命がかかってるんだ」

「命とは違うけどね、こっちには、たくさんの人達の生活がかかってる。俺達がいい作品を作れば、たくさんの人達の生活が潤う。そうしなかったら、多くの人に迷惑がかかる。これだって重要なことじゃねえか」

「―――ああ、悪かった」


 朱夏があまりにもあっさりとそう言ったので、布由は拍子抜けする。彼はそんなことなかったのに。


「何、そんなに簡単に謝っていいのかよ?」

「私は知らないことが多い。知らないことで人が傷つくのは良くない。だから私が知らないことで悪いことがあったら教えてくれ」

「素直だねえ」


 感心する。彼とは似ているくせに、全然違う。


「だけど、お前ももう少し早く考えてくれ。でないと」

「……ああそうね、片手間にしちゃまずいな。そう。だけどそういう問題を片手間で考えられる程、俺は頭良くない。だから、もうしばらく待ってくれ。とにかくレコーディングは俺の愛する仕事であって、義務でもあるの」

「ああ」

「それにあいにく俺はお前と違って人間だから、毎日きちきちにスケジュール詰めたら死んじまう」

「……」

「なるべく理論通りに動かしたくとも、そうもいかんのが生身の人間だからな。……それにこれが済まないことには俺はあまり物事ややこしく考えられんからな」

「判った」


 彼らは朱夏がレプリカということは、誰にも話してなかった。

 一週間前のあの日、彼女は彼らの事務所に飛び込んできて、急激なエネルギー放出で失神してしまった。その時の回復は早かったので、スタッフがどやどやとやってくる前に事情を説明することができた。

 もちろん彼らは驚いた。

 まず彼女が「都市」から来たということに驚いた。

 あの閉ざされた「都市」から勝手に出てくることなどできない。都市の公安部に認められた者が公的な用事で時々出てくることはあるらしいが、そういう特別な人物の行動は監視され、期限が限定されている。

 だがこの少女は逃走してきたのだという。

 自分の「代わり」はいないのだ、と言う。

 そして飛び込んで来た時に羽織っていたものは、黒い服だった。調べたらそれは「都市」内の公安部のものだった。それが彼女の言い分を証明した。

 次に彼女がレプリカントということに。

 レプリカントはこの「外」でも増えつつあったが、「規則」が第一回路に組み込まれることが法律で決められていたので、彼女のようなタイプを見るのは初めてだったのだ。

 そして彼らを最も驚かせたこと。それが彼女の目的だった。

 彼女は言った。


「『都市』を元の姿に戻すために、HALが布由を『都市』へ呼び寄せたがっている」


 どれも、嘘や冗談で済ませてしまいたいことだった。

 「都市」からやってきたというのは、頭のおかしい少女の幻想と見ることができなくはない。だが「都市」内黒の公安の制服は本物だったし、彼女がレプリカントということは、彼女自身が開いた胸で証明された。

 そして何より、彼女が失神したときに流れた声。

 あれは本物だった。十年間ずっと耳にしたことのない、彼の。

 信じない訳にはいかなかった。誰よりも、自分があの声はよく知っているのだ。

 朱夏はそして毎日のように彼らに問う。「都市」にはいつ行くのか、と。「行くのかどうか」ではなく、「いつ行くのか」と。

 布由は不思議だった。彼女は彼らが行くことを迷っているとは考えていないらしい。どうしようもないな、と布由は舌打ちをするくらいしかできない。


「……ギター」

「何だ?」


 布由は赤い、増殖した寝癖のようにあちこち飛び跳ねたような自分の髪の毛をかき回しながらつぶやく。


「弾けるんだってな」

「何かそうなっているらしいんだ。第一回路にそうチューニングされているらしい。おかげでいろいろ助かったが」 

「へえ」


 そう言えばHALもギターは弾けたな、と布由は思い出す。元々はギタリストだった、と聞いたことがある。


   *


 初めて会ったのは、十二年前だった。


「はじめまして……」


 のんびりした声で、彼は初対面の相手に語りかけた。言葉の端に西のイントネーションがあって、妙に軽い。

 どういう奴だろう、と布由は彼に会うまでずっと考えていた。

 何せ、ずっと誘っていたドラマーを横取りしたバンドのヴォーカリストである。どれだけの魅力が、自分より多くの魅力があるのか、ひどく興味があった。

 そのヴォーカリストに最初に会ったのは、当時は常連のようになっていた写真系音楽専門誌の企画だった。たあいもない対談だから、気楽にやってよ、と当時の編集長は言っていた。

 当時のBBは、濃いメイクと奇抜な恰好と、派手なステージパフォーマンスで人気が出てきたバンドだった。

 まだその頃はギタリストも居て、三人組だった。このギタリストは後にプロとしての自覚がないということで後に布由は切った。彼はそういった自覚のない人間は認めない。やるからには徹底しろ。それが布由の、当時のBBの姿勢だった。

 実際当時、インディーズにおけるBBの活動は、後続の、何もかもスタッフ任せにして潰れていったバンドには爪のアカでも煎じて飲ませたいくらいだった。

 布由と土岐の地元に最も近い「都市」。

 今では閉じてしまった「都市」。

 それまでインディーズ・シーンがさほど盛んではなかったそこを拠点にして、彼らは派手なライヴを展開した。

 派手というよりは、「無茶」か「無謀」だったこともある。自殺をほのめかす曲では、自分の身体にわざわざ本物のナイフで傷をその場でつけて見せることもあった。観客が失神したことも何度かある。

 音の方は。

 当初は確かに何処かにあるようなものだったが、その中に確かに彼ら独自のものがあると判ると、その点をぐいぐい前へ押し出してきた。

 例えば声。例えば歌詞。例えばそのメロディライン。

 そしてその音は、自分達の作ったレーベルからだけ出される。限定性。誰のものでもない、という自己主張。やがてその火は中央へと飛び火する。

 そしてメジャーへと行く訳だが。

 だいたいメジャーに行くかどうか、というところだった。もう行くのは決まっていた。時期を推しはかっていた頃だった。

 彼には自信があった。自分達はメジャーへ行き、メジャーでもブレイクする。人気が出るようにする。そしてそれができるバンドなのだ、と。

 ところがそのバンドを蹴った男が居た。

 BBは、とにかく当初からドラマーに恵まれないバンドだった。

 最初から居たメンバーは布由と土岐だけで、ギタリストは後で別のバンドから引き抜いた。そしてドラマーもそうしたのだが…… 何故かいつも居着かないのだ。布由が切るのが大半であった。彼の気迫について行ける者がいなかったのだ。

 そんな時に朱明という男を見つけたのは偶然だった。

 彼はどのシーンにも属していて、何処のシーンにも属していなかった。

 どんなジャンルの音楽にも対応した。スタジオ・ミュージシャンになりたかったらしい。したがって腕は確かだった。

 そしてその、大して歳は変わらないのに、子供なのか大人なのか判らないその気むずかしさ、頑固さに布由は期待した。そしてとりあえずサポートを頼んだ。

 いい手応えがあった、と思ったのだ。


 ところが。


 あるツアーの最後の日、彼は言った。西のとあるバンドに正式加入が決まったから、BBのメンバーにはなれない、と。

 それは布由にとってかなりの痛手だった。

 結局BBはドラマー無しでデビューするだろう。それならそれでまた考えねばならない。過ぎたことをうだうだ言っている暇は彼にはなかった。

 だが朱明が新しく加入したというバンドは見てみたかった。彼は断る時に布由に言ったのだ。


「あんたの声も凄いとは思う」


 だったら何故、と訊ねた。すると彼は独特の低い声で、首をかしげ、だるそうに答えた。


「どうやら俺は泣き声に弱いらしい」


 泣き声?

 ひどくそれは布由の興味を引いた。そして対談の話である。彼は飛びついた。


「……こんにちは……初めまして」


 布由は丁寧にあいさつを返した。