50.企んだのは誰か

 朱明はポケットに銃を押し込み、難しい顔のまま、「橋」の都市側にだるそうな足どりで戻って行く。と。


「……何を…… こいつが何をしたんですか!」


 彼はこちら側もまた、騒がしくなっていることに気付く。訳もなく、何やらひどく不快だった。


「何があった?」


 不快を隠す気もなく、彼は部下に訊ねる。


「あ、長官…… この男達が、今取り押さえた奴の保護者だとかで……」

「……」


 朱明は何となく、ひどく腹が立ってきた。


「……ど、どう致しましょう……」


 彼の下で長く働いてきた部下は、長官の不機嫌にはひどく敏感だった。おそるおそる訊ねる。上司の怒鳴り声など誰だって聞きたくないものである。


「奴の保護者?」

「会社の上司です」

「会社か。何の会社か、聞きたいものだな」


 連れていけ、と朱明は壱岐と、その横に居た東風と夏南子をも捕らえさせた。壱岐も東風も、一瞬驚いた顔をしたが、さして抵抗しようという気はなかったらしい。

 だが夏南子はただ捕まえられるだけでは嫌だった。


「女の子がいなかった!?」


 誰もが恐がる黒の公安長官を真っ直ぐ見据えて彼女は訊ねる。


「女の子?」


 濃い眉を片方上げて、彼は問い返す。夏南子は構わず続ける。


「女の子よ。居たはずよ! 見えたもの。私達の妹だわ!」


 妹ね。朱明は腕組みをして、答える言葉を捜す。


「居たことは、居た」

「じゃあ何処に!」 

「もうここにはいない」


 間違ってはいないな、と朱明は思う。確かに間違ってはいない。

 だが、夏南子はもの凄い目で朱明をにらんだ。

 にらむのも当然だし、にらまれるのも当然だろう。だが周囲で見ていた部下は、その様子にどれだけ全身が総毛立ったことだろう。

 三人が公安の車に乗せられたのを見届けると、朱明はすぐ下の部下を呼び、あとは頼む、と任せることにした。


「向こう側を呼んでも構いませんか」

「構わないだろう…… 急がせろ。結構時間をくった」

「は」

「俺は戻る。緊急の用事があったら知らせろ」 


 判りました、と部下は軽く一礼する。



「結構な騒ぎだったね」


 止められた車の近くまで戻ると、HALはまだボンネットの上で、片立て膝で座っていた。


「逃げなかったんだな」

「高見の見物だよ」

「悪趣味め」


 吐き出すように朱明は言い捨てた。


「ああ、ひどく怒ってるな」

「……」


 朱明は黙ってポケットに手を突っ込むと、その中に入れていた銃を見せた。


「銃だね」

「ああ、だ…… 最近無いと思っていたら」

「ああ、無断で借りて悪かったよね」


 ひらり、とHALはボンネットから飛び降りる。


「朱夏は、上手く外へ出た?」

「出たよ」


 ゆっくり、朱明は車に近付く。車の屋根に左の腕を乗せると、扉にもたれかかるHALをのぞき込み、一音一音を区切るように言葉を投げつける。


「お前の望んだようにな」

「そうだよ」

「あいつもそうだな? お前が奴にダズルを喫わせたな」


 津島などという固有名詞は彼にはない。別にどうでもいいのだ。


「そうだよ。無理矢理ね」

「そして奴に、安岐を落とさせたな」


 少しでも躊躇してくれ、と彼は思った。そう願った。

 だが、その言葉はひどくするりと、HALの口から、いつもの重力の無い調子で流れ出た。


「そうだよ」


 声以外の、全ての音が消えたんじゃないか、と彼は思った。

 ひどく、耳の中だけがうるさかった。

 自分がその言葉を聞きたくなかったことに彼は気がついた。


「朱夏が必死になるには、それが一番だからね」

「……」


 朱明はそれを聞いた瞬間、思いきり手を振り上げていた。

 力が込められているのが判る手が、勢いよくHALの頬に向けられた。勢い余って、HALは車の扉に叩きつけられる。


「……」


 HALはしばらくその場から動かなかった。またいつものように逃げたのか、と朱明は思った。それも当然だろう、と考えた。

 だが殴られた身体は、やがてゆっくりと起きあがった。朱明はやや驚く。HALは逃げなかった。そこに、そのまま、居た。

 殴られた方の頬を小柄な手で撫でさすりながら、半開きの目が朱明に焦点を合わせた。


「痛いね」


 そんな訳なかろう、と言う言葉が朱明の中で飲み込まれる。


「でもお前は、それでも俺のこと好きなんだろう?」

「あいにくな」

「俺が何考えてるか知りたい?」

「……」

「だったら聞いてみなよ」